第30話: 弟子たち
——凛の予防医療を学びたいと若い治癒師たちが集まる。
診療所を開いて、ひと月が過ぎていた。
旅の商人が運ぶ噂と、エルザさんの知り合いの口伝えで、「辺境に魔法に頼らない治癒師がいる」という話は少しずつ広がっていたらしい。
扉を叩く音が、いつもより硬く響いた。
朝の診療所は静かで、だからこそ、その三つのノックが「何かが始まる」合図みたいに聞こえた。
私が戸を開けると、外に三人の若い治癒師が立っていた。
雨上がりの土の匂いと一緒に、真っすぐな視線が飛び込んでくる。
先頭の少女が、深く頭を下げた。
「凛先生。……私たちに、先生の方法を学ばせてください」
後ろの青年も、緊張した顔で言葉を繋ぐ。
「予防医療、というやつです。……俺たち、今のままじゃ、救える命にも限りがあるって思って」
もう一人の少女は、拳を握っている。
怖いのに来た、その手だ。
「魔法で治すだけが治癒じゃないって……先生が証明したって聞きました」
私は三人を順に見て、名を尋ねた。
「お名前を、教えていただけますか」
「アリスです」
「トマスです」
「ミラ、です」
私は胸の内側で、小さく息を整える。
誰かが来るたびに、私のやり方は「例外」だと言われてきた。
でも今日は違う。例外を学びに来た人たちが、目の前にいる。
「……どうぞ。中へ」
診療所の奥に案内して、私はまず桶を指さした。
水は朝に汲んだばかりで、石鹸は私が作った粗いものだ。
「最初の授業は、手洗いです」
三人の顔が揃ってきょとんとした。
トマスさんが思わず口にする。
「え。……それ、授業なんですか?」
私は頷く。
「はい。治癒の前に、治癒師の手が病を運ばないようにします。爪の間、指の股、手首まで。……時間を測って、二十数えましょう」
アリスさんが困ったように笑った。
「でも、病は魔法で消せますよね……? 感染なんて、治したら終わりじゃ」
「終わりません」
言葉が硬くなってしまったのに気づいて、私は少しだけ声を落とした。
「魔法で傷口が塞がっても、原因が残っていれば、また熱が出ます。咳が増えます。……そのたびに、治癒師が力を使う。命を削るような治癒を、繰り返すことになります」
ミラさんが眉を寄せる。
「でも……命を削ってでも助けるのが、治癒師の誇りだって」
私は一度、目を閉じた。
その誇りの言葉に、私は何度も救われて、何度も縛られた。
「誇りは、別の形にできます」
目を開けて、私は言い切る。
「命を削らない。それが私たちの誇りです」
沈黙が落ちる。
その静けさの中で、桶の水面が小さく揺れた。
私は手本を見せるように袖をまくり、丁寧に泡を立てた。
「手洗いは、魔法より地味です。でも、地味なことほど、たくさんの人を救います。……まずは自分の手が安全だ、と言えるようになりましょう」
レオンさんが、奥から木の台を抱えて現れた。
「ここに置けばいいか?」
「はい。ありがとうございます」
彼は三人を見て、軽く顎で挨拶する。
「弟子志望か。……凛の仕事は地味だぞ」
「地味でも、やります!」
アリスさんが即答して、顔を赤くした。
レオンさんが鼻で笑う。
「いい返事だ」
私は次に、布を掛けた小部屋の扉を示した。
「隔離の部屋です。咳が強い方、熱が続く方は、ここで診ます」
トマスさんが目を丸くする。
「わざわざ離すんですか? 不安になりません?」
「不安になります。だから説明します」
私は頷く。
「怖がらせるためではありません。守るためです。同じ空気を吸う人を減らす。布団や器を分ける。手を洗う。……それだけで、次の患者さんが減ります」
ミラさんが唇を噛んだ。
「次の患者を減らす……」
「はい。治癒師の仕事は、目の前の一人を治すことだけじゃありません。『明日の診療所』を軽くすることでもあります」
私は棚から帳面を取り出し、机に広げた。
「ここに、症状と日付と、同じ家の人の体調を書きます。誰が、いつから、どこで。……病は人の間を歩きます。なら、足跡を残せばいい」
アリスさんが帳面を覗き込み、目を輝かせた。
「魔法の陣みたい……!」
「ええ。紙の上の魔法です」
トマスさんはまだ半信半疑の顔をしていた。
「でも、そんなことしてる間に、重症の人が……」
「だから順番です」
私は指を二本立てた。
「一、危ない人を先に助ける。二、危なくなる人を減らす。どちらも、同じくらい大事です」
レオンさんが窓を開け放つ。
湿った空気が抜けて、少し冷たい風が入った。
「換気も、予防です」
私が言うと、ミラさんが小さく首を傾げた。
「風邪を引きませんか?」
「寒さは布で防げます。でも、淀んだ空気は布で防げません」
言いながら、私は自分の言葉に驚いていた。
以前の私は、説明が苦手だった。
「分かってもらえない」前提で話して、早口で終わらせてしまっていた。
でも、今は違う。
目の前の三人は、理解するためにここにいる。
だから私は、教えるために言葉を選べる。
昼前、近くの家から子どもが運び込まれた。
熱と咳。母親の目が真っ赤だ。
「先生……!」
「大丈夫です。まず、ここへ」
私はアリスさんに手洗いを促し、ミラさんに布の用意を頼む。
トマスさんには、母親を診療所の外で待たせるように説明してもらった。
「離すんですか?」
母親が震えた声で言う。
トマスさんが、私の言葉をそのまま丁寧に伝えた。
「怖がらせるためじゃありません。守るためです。……お母さんが倒れたら、この子はもっと苦しくなる」
母親は涙をこぼしながら、頷いた。
その背中を見て、トマスさんの肩の力が少し抜ける。
子どもの胸を聴診しながら、私は弟子たちの動きを見た。
ぎこちない。遅い。けれど、迷わない。
魔法を構えるより先に、手を洗う。
患者さんの顔を覗き込むより先に、布を分ける。
それは、最初は不格好な儀式みたいだった。
でも、夕方になって、診療所に来る咳の患者さんが減っていることに気づく。
昨日までなら、同じ家族が次々と倒れていたはずなのに。
アリスさんが帳面を抱えたまま、息を弾ませて言った。
「先生、さっきのお家……弟さん、熱が出てないって!」
ミラさんも頷く。
「布団を分けて、手を洗って、窓を開けて……それだけで」
トマスさんは、言葉を探してから、ぽつりと言った。
「……魔法に頼らない治癒なんて、格好悪いって思ってました」
彼は自分の手を見る。
泡で荒れた指先を、誇らしそうに。
「でも、これ……格好いいですね」
私は笑ってしまった。
「はい。格好いいです。とても」
夜、三人は帰らず、診療所の机を囲んだ。
レオンさんが持ってきた木炭で、簡単な図を描く。
「手洗い、換気、隔離。帳面。……これを『凛式』って呼ぶのは、嫌です」
私が言うと、三人が同時に顔を上げた。
「え?」
「私は、私の名前を残したいんじゃありません。仕組みを残したいんです」
私は帳面の一頁を破り、題を書いた。
『命を削らない治癒——予防の手引き』
「これを、次の村でも、次の町でも、同じように使える形にします。……あなたたちが、あなたたちの言葉で教えられるように」
ミラさんが、静かに息を呑んだ。
「私たちが……教える側に?」
「はい。学び手は、いずれ教え手になります」
アリスさんが拳を握る。
「私、やります! 先生のやり方を、私の村でも……!」
トマスさんも頷いた。
「俺も。……神殿のやり方だけが正しいって、もう言えない」
レオンさんが腕を組んで、窓の外を見た。
「これが広がれば、戦場でしか価値がない治癒師って扱いも変わるかもな」
「変えましょう」
私は、迷いなく答えた。
「治癒師が倒れていく世界を、当たり前にしないために」
紙の上で、私たちは小さな学派を作った。
派手な旗も、神殿の承認もない。
でも、手を洗う水音が、祈りより確かな始まりを告げていた。
——そのとき、診療所の扉が再び叩かれた。
今度のノックは、朝よりも重い。
レオンさんが一歩前に出る。
私は立ち上がり、弟子たちを見る。
「……次の授業が、来たみたいですね」
——次話「王太子の凋落」――ざまぁの歯車が、さらに加速する。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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