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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第3話: 騎士の反逆

 ——リンデン村外れの小屋で目覚めた凛は、レオンに連れ出された夜を思い出す。



「……ここは……?」


声が掠れて、自分の耳にも遠かった。


薄暗い天井。木の梁。古い藁の匂い。火のはぜる音は小さく、窓の外の虫の声が近い。


大神殿の金色じゃない。

石の冷たさじゃない。


痛みが残っているのに、胸の奥が——静かだった。


私は身体を起こそうとして、肋が軋んだ。息が止まりかけて、思わず唇を噛む。


「動くな」


短い声が飛んできた。


視線を向けると、部屋の隅。壁にもたれた黒い影が、火の揺らぎの中で輪郭を持つ。

黒い騎士服。外套。手袋を外した指先が、包帯の端を押さえている。


レオンさんだ。


「リンデン村の外れだ。空き小屋を借りた」


借りた、という言葉に、笑いそうになった。こんな夜更けに、誰に、どうやって。


「……神殿は」


「置いてきた」


置いてきた。

まるで荷物みたいに。


でも、その言い方が冷たいとは思わなかった。

私を荷物みたいに抱えて走った人の腕が、まだ背中に残っている。


私は喉の奥で迷って——結局、聞いてしまう。


「なぜここまで?」


言った途端、胸がきゅっと縮んだ。

この世界で、私はいつも「してもらう側」だった。されるのが当たり前で、感謝は言葉で済まされて、理由なんて訊かれない。

理由を訊くのは、怖い。答えが、私を捨てる理由に変わる気がするから。


レオンは、火のほうを見たまま、少しだけ首を傾けた。


「……理由がいるのか」


短い。

それで終わり。


でも、その一言が、私の胸の中に落ちて、熱を持った。


火のほうを向いたレオンの横顔に、揺らめく光が触れている。

いつも石みたいに硬い輪郭が、炎のせいか——少しだけ、やわらかく見えた。


言葉の続きを求めたくなるのに、同時に、これ以上は壊したくないとも思った。

その沈黙の形が、今までの“正しい言葉”と違いすぎて、息の仕方を忘れる。


「……追手は」


「まだ探してる。夜が明けるまで動かない」


そう言って、レオンは立ち上がった。

背が高い。壁の影が一緒に動く。

私のほうへ来る気配がして、反射的に肩がすくむ。


触れられるのが怖いわけじゃない。

怖いのは、触れられて、安心してしまうこと。


レオンの指が、私の額に触れる寸前で止まって、代わりに外套の端を持ち上げた。

私の肩に、そっと掛ける。

体温じゃなく、布の重さだけが落ちてくるのに、その“重さ”が守りみたいだった。


「……寝ろ」


命令みたいに言うのに、声は低くて、柔らかい。


私は頷いて——頷きかけて、やめた。


眠る前に、思い出してしまったから。

あの夜の空気を。

鐘の音を。

私を抱えて走る、鎧のきしみを。




大神殿の回廊は、夜になると音が反響する。


昼の祈りの声が消えたあと、残るのは自分の足音と、遠くで燃える蝋燭の匂いだけ。

あまりに静かで、息をしただけで罪になる気がした。


「目を閉じろ」


レオンの声が、耳のすぐ上で鳴った。

私は返事をする余裕もなく、瞼を落とす。


暗くなる。

でも暗闇の中で、鎧の胸当てが私の頬に触れて、冷たいはずなのに、なぜか温かい。


廊下を曲がるたびに、身体が揺れる。

揺れるたびに、腕が締まる。

落とさない。絶対に。

そう言葉にしないまま、腕が言っていた。


角を曲がった先で、低い声がした。


「——護衛騎士。そこにいるのは」


神官の声。続けて、甲冑の擦れる音。夜番の騎士。


レオンの足が止まる。

私の身体が、腕の内側に押し込められる。外套が深く被せられて、月明かりが遮られた。


視界は布。

でも、音だけで分かる。

レオンが一歩、前に出た。


「通す」


「許可証は」


金属が鳴る。

剣の柄に手が置かれた音。


一拍。


次の瞬間、硬い音がして、息が詰まる。

誰かが壁に叩きつけられた。


「……っ」


私の喉が鳴りそうになって、歯で噛んで止めた。


レオンは何も言わない。

ただ、再び歩き出す。

躊躇のない足取りで、石の回廊を切り裂いていく。


私は、布の内側で震えながら思った。

ああ、この人は——反逆している。

神殿にも、命令にも。

“聖女”を縛る全てに。


「レオン、さん……」


名前が、勝手にこぼれた。

返事はない。けれど腕が、ほんの少しだけ強くなる。

それが返事みたいで、胸が痛む。




大神殿の裏手には、倉庫と厩舎が並んでいる。

昼間は奉納品の荷車が行き交い、夜は見張りが鈍る——はずだった。


今夜は違う。

誰かが、早くからざわめいている。

灯りが、いつもより多い。


「聖女様が消えた!」


遠くで叫び声。

私の背中が粟立つ。


“消えた”。

名前じゃない。

いつもの通りだ。

機能が無くなった、という言い方。


レオンは厩舎の影に身を滑らせた。

壁沿いに歩き、戸口の前で止まる。

扉に手を伸ばす前に——一度だけ、私を見る。


外套の隙間から、目が合った。

月明かりが薄く差して、灰色の瞳が刃みたいに冷えているのに、底が揺れていた。


怖い、と思うより先に。

守られている、と思ってしまった。


レオンは何も言わず、扉を開けた。


馬の匂いが濃くなる。

馬が、鼻を鳴らす。

鎖が鳴る。


「乗れるか」


初めて、私に“できるか”を問う声だった。

出来るかどうかを、私に委ねる声。


私は、頷くしかなかった。


レオンは私を下ろすと、すぐに背中へ手を添えた。

支える手は強いのに、押しつけない。

その距離の取り方が、妙に苦しくて、胸が熱い。


厩舎の奥から、黒い馬を引き出す。

鞍はない。手綱だけ。


「しがみつけ」


私が馬に跨がると、レオンは一息で後ろに乗った。

腰に腕が回り、手綱を取る指が私の指先に触れた。

冷たい手袋越しでも、指の硬さが分かる。


「……っ」


息が漏れそうになって、飲み込む。


馬が走り出す。




裏門を抜ける瞬間、鐘が鳴った。


一つ。

二つ。

三つ。


夜の空気を割る音。

逃げる人間に貼られる“罪”の音。


「止めろ! 門を閉めろ!」


背後で叫ぶ声。

足音が増える。

金属が鳴る。


馬の蹄が石を叩き、火花が散る。

風が顔を打つ。

涙が勝手に滲むのに、寒いのか怖いのか、分からない。


レオンの腕が、私の身体ごと馬を制御する。

曲がるとき、私の肩が彼の胸に押しつけられて、鎧がきしむ。


「……ッ」


背後から、矢が飛んできた。

空気を裂く音。


レオンの腕が瞬間的に引き寄せ、私の身体が低く沈む。

矢は頭の上をかすめて、路地の壁に刺さった。


息が止まる。


「見張りがいる……!」


誰かの声。

それが、私を連れ戻すための声だと分かって、胃がねじれる。


レオンは路地へ馬を滑り込ませた。

市場の裏。夜更けでも、酒場の灯りが漏れている。

笑い声が、遠くで揺れている。


こんなふうに、世界は普通に回っているのに。

私は“聖女”として、世界の外に閉じ込められていた。


レオンの指が、私の肋のあたりに一瞬だけ触れた。

押さえる。痛みの場所を知っているみたいに。

その触れ方が、優しさなのか、機能確認なのか、分からない。

分からないのに、胸が跳ねる。




「右だ」


レオンが低く言う。


私は頷く暇もなく、馬が角を曲がった。

その拍子に身体が傾いて、レオンの腕がすぐに支える。

落ちない。

落とさない。


追手の足音が近い。

路地の石畳を蹴る音。鎧の金属音。犬の吠える声。


「……聖女は必ず取り戻せ!」


命令。

いつも聞いてきた、命令。


その言葉に、反射みたいに「はい」と言いそうになって——喉が締まる。


レオンの呼吸が背中に当たる。

速い。でも乱れていない。

私の背に回された腕だけが、少しだけ硬い。


逃げることが、彼にとって日常みたいに正確だった。

だからこそ、思う。

この人は、何を背負ってきたんだろう。




城門が見えた。


夜の門は、昼ほど厳しくない。それでも、灯りがある。見張りがいる。

追手が近い。門を閉められたら終わりだ。


レオンは馬の首を叩いて速度を上げた。

風が、耳を持っていく。


「止まれ!」


門番の怒号。


レオンは止まらない。

門の直前で、馬を横へずらす。

門の脇、修理用の足場——木組みの影へ。


馬が跳ぶ。

私は声も出せず、ただ歯を食いしばる。

次の瞬間、身体が浮いた。


木の柵を越え、土の斜面へ。

夜露の草が頬を濡らす。

背後で怒鳴り声と足音が入り混じる。

門の内側で灯りが乱れた。


レオンは馬を降り、私を抱え上げる。

その動きに迷いがない。

馬を手放すのも、迷いがない。

必要なものだけを選び取る手つき。


「走れるか」


また、問われる。


私は、頷く。

頷くしかない。


レオンは私の手首を取って、引いた。


握るのではなく、逃げないように“確かめる”ような掴み方。

痛くない。

でも、離れられない。




森に入ると、街の灯りが背後で小さくなる。


枝が顔をかすめ、土が靴を引く。

息が白い。

自分の呼吸がうるさい。


追手の気配は、まだ遠い。

けれど犬の声が、森の縁をなぞるように聞こえる。


「……犬、ですか」


掠れた声で言うと、レオンは短く頷いた。


「匂いを追わせてる」


私の身体は、神殿の香の匂いが染みついている。どこへ行っても、見つけられる。

その事実が、冷たい針みたいに刺さった。


レオンは立ち止まり、私を木の影へ押し入れる。


「ここ」


私が息を整える間もなく、彼は自分の外套を脱いで、地面に擦りつけた。

泥と草の匂いを擦り付ける。

そして、それを私の肩に掛けた。


香を潰すために。

私を隠すために。


言葉じゃなく、手が全部言っている。


追手の声が近づく。

犬の鼻を鳴らす音が、木々の隙間で生々しい。


レオンは私の前に立った。

剣を抜かない。抜けば光が出る。月明かりが刃に映る。

代わりに、短剣を逆手に持つ。

影のまま、殺意だけを固める。


私の喉が鳴りそうになって、息を止めた。


犬が、私たちの前を通り過ぎた。

一歩。二歩。三歩。


背後で、誰かが舌打ちをする。


「……こっちじゃないのか?」


「匂いが薄い。川へ向かったか」


レオンが、息を吐いた。

私の肩が、勝手に震える。


震えを隠そうとして、指先に力を入れた。


その瞬間、レオンの手が私の指先に触れた。

握らない。ただ、指を押さえる。

震えを止める、支点を作るみたいに。


手袋を外していた。さっき外套を私に掛けたとき、脱いだのだろう。

硬い指。剣だこの感触。なのに触れ方だけが、信じられないくらい慎重だった。


目が合う。

彼の目は、相変わらず冷たい。

でも、私の震えを見て、眉がほんの少しだけ動いた。


「……すまない」


それが、何に対しての謝罪なのか分からない。

怖がらせたことか。

巻き込んだことか。

それとも——もっと前の、別の誰かに対してか。


聞けなかった。

聞いたら、今夜の逃走が崩れる気がした。




夜明け前、森を抜けて、小さな村が見えた。


灯りは少ない。畑の匂い。家畜の匂い。

遠くの犬の声は、もう追手のものじゃない。


「リンデン村」


レオンがそれだけ言った。


村の外れ、壊れかけた小屋へ入る。

扉は軋む。中は埃だらけで、でも雨は凌げる。


レオンは火を起こし、水袋を開けた。

私の唇に水を当てる。その距離が近すぎて、私は目を逸らした。


「飲め」


命令みたいな声。

でも手は、溺れる人に浮き輪を渡すみたいに慎重だった。


水が喉を通る。

生きている、と思った。


生きているのに、神殿の外にいる。

それだけで、怖い。

怖いのに——少しだけ、胸が軽い。


私は火の揺らぎを見つめながら、喉の奥で言葉を探した。

訊けば、何かが崩れる気がした。


だから私は、何も言わないまま息を吐いて、目を閉じた。


暗闇が来た。




「……起きてるか」


呼びかけに、私は現実へ戻る。


リンデン村外れの小屋。

小さな火。

夜の虫の声。


レオンが、私のほうを見ている。

その視線が、見張りみたいで、でも檻みたいじゃない。


私は外套の端を握った。

握ると、布の皺が立つ。それが、今の私の生き方みたいで、少し笑いたくなる。


「……レオンさん、手」


彼の指先に、乾いた血がついていた。新しい傷じゃない。でも、今夜のもの。

言うと、レオンはわずかに眉をひそめて、手を引っ込めようとした。


隠す。

当たり前みたいに。


私は、無意識に前へ伸びた。触れてしまう前に、止まる。触れていいのか分からない。

触れたら、この距離が変わってしまう気がして。


レオンが、先に動いた。

私の手首を取って、引き寄せる。けれど強くはない。

“触れるなら、ここまでだ”と線を引くみたいに、私の指を自分の手の甲へ置いた。


固い皮膚。剣だこ。

温度。


「平気だ」


その言葉が、「大丈夫です」と違って聞こえた。

平気だ、と言いながら、平気じゃない痛みを隠している。

誰にも頼らない癖が、骨になっている人の言い方だ。


私は、息を吸って、訊きかけた。

どうして、そんなふうに生きるの。


代わりに、口から出たのは——別の疑問だった。


「……私を、連れ出したら。あなたは、処罰されるんでしょう?」


レオンは黙った。

火のほうへ視線を落とす。その横顔は、石みたいに硬い。


沈黙が長くなる。

私はその沈黙を、また“捨てられる前触れ”にしてしまいそうで、喉が痛い。


「……昔、守れなかった」


レオンが、ぽつりと呟いた。


それだけ。

主語がない。

誰を、とは言わない。


でも、その声は、刃じゃなく、傷の音だった。


火がぱち、と鳴って、影が揺れる。


レオンの唇が、もう一度だけ動いた。


「リアナ……」


名前。

初めて、彼の口から出た“誰かの名前”。


次の瞬間、レオンはそれを飲み込むみたいに口を閉ざし、立ち上がった。


「寝ろ。明けたら移動する」


背中を向ける。

私に見せるのは、鎧の硬さだけ。


でも、その背中が、今夜も私の前に立つのだと分かってしまう。


私は外套を胸まで引き上げ、微かに残る鉄の匂いを吸い込んだ。


リアナ、という名前だけが、胸の中で鳴り続けていた。



 ——次話「何もしなくていい朝」――小さな安らぎが、運命を変えていく。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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