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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第27話: 小さな診療所

 ——リンデン村で、凛は頼まれたからではなく「そうしたい」から診療所を開く。



 空き家の鍵が、てのひらで冷たく鳴った。

 誰の部屋でもない。誰の許可もいらない。

 ここを——診療所しんりょうじょにする。


 扉を押すと、乾いた埃がふわりと舞った。

 光の筋が一本、床に落ちている。そこだけが、まだ生きているみたいに見える。


 「……よし」


 私は袖をまくり、髪を一つに括り直した。

 息を吸って、吐く。胸の奥の震えを、指先に預けるみたいに。


 バケツに水を汲む音が、がらんとした家の中に響いた。

 雑巾を絞る。冷たい。けれど、その冷たさがいい。

 私は今、自分の手で始めている。


 床を拭くたび、板の木目が少しずつ顔を出す。

 窓枠の蜘蛛の巣を払い、棚の上の灰を落とす。

 誰かの暮らしの名残が、薄い影になって隅に溜まっている。


 私はそれを追い出すんじゃなく、そっと寄せて、小さく整えた。

 ここは、これからの場所だ。


 治癒魔法ちゆまほうだけの場所にはしない。

 薬草の匂いと、煮沸しゃふつした布の清潔さと、手を洗う水。

 それらで、人の命を守れる場所にする。


 ——そして何より。


 私は雑巾を握ったまま、立ち止まった。

 窓の外。冬の光が、村の屋根を淡く撫でている。


 戸口の向こうで、砂利じゃりが鳴った。

 誰かがのぞき込んでいる気配。


 「お、凛ちゃん。ここ、使うのかい」


 顔を出したのは、隣家の男の人だった。

 村に戻った日、道を教えてくれた人。私は雑巾を手にしたまま、向き直る。


 「はい。少し、借りてもいいって許可をもらいました」

 「へえ……何に?」

 「診療所を作ります」


 男の人の眉が上がる。

 「診療所作るの?」


 その言葉が胸に刺さった。

 作るの。作れるの。私が。


 私は、一度息を吸った。

 ここで曖昧に笑ったら、また「頼まれたから」の人になる気がしたから。


 「はい」

 「誰に頼まれたんだい」


 ——違う。

 違う、と言える。

 口の中で何度も転がしてきた言葉が、やっと形になった。


 「頼まれたからじゃないです」

 「……え?」

 「私が、そうしたいから」


 言い切った瞬間、胸の奥が——ふっと軽くなった。

 初めてだ。『したい』で動くのは。

 許しを待たない、自分の足の一歩。


 男の人はしばらく瞬きをして、それから、照れたみたいに笑った。

 「そっか。……いいじゃないか」

 「ありがとうございます」


 「何か要るものあったら言いな。板とか椅子とか」

 「はい。……でも、今日は自分でやります」


 断るのも、選ぶのも、自分の手で。


 男の人が去ったあと、もう一度雑巾を握り直す。

 指先に力が戻る。


 ——ここから先は、私の仕事だ。


 そのとき、扉の外で足音が止まった。

 次の瞬間、木がきしむ。重いものが床へ置かれる音。


 振り向くと、レオンさんが戸口に立っていた。

 ——昨日、「レオン」と呼び捨てにしてしまった。旅の高揚が、敬称を飛ばしてしまっただけだ。今朝になって思い出すと、顔が熱い。だからまだ、「さん」をつけてしまう。

 肩には板材。腕には釘の入った袋と、工具を抱えている。

 いつもの無表情のまま、でも、息が少し白い。


 「……運ぶの、手伝います」

 「いい」


 短い返事のあと、レオンさんは黙って中へ入った。

 床の汚れたところを避けるように、足を置く場所だけは妙に丁寧だ。

 板材を壁際へ立てかけ、袋を置く。音が大きくならないように。


 「それ……」

 「村の大工から借りた。あと、余り」


 余り、と言う割に、必要なものが揃っている。

 棚板。支えの木。釘の太さもいくつか。

 私は気づいてしまって、喉が詰まった。


 「……頼んでません」

 「分かってる」


 レオンさんは、私の手元を見た。

 雑巾。水の入ったバケツ。擦り切れた指先。


 「やるんだろ」


 それだけ。

 背中を押す言葉じゃない。私の前にある道を、ただ認めるみたいな一言。


 私は頷いた。

 頷くしかなかった。嬉しいのに、泣きそうになるのが悔しい。


 「……はい。やります」

 「なら、手を止めるな」


 レオンさんは外套を脱ぎ、袖をまくった。

 その動きが、私の動きと同じで。

 胸の奥の震えが、今度は温かく揺れた。




 昼までに、部屋の半分が「それっぽく」なった。

 空き家のままだった場所に、机が置かれ、煮沸した布が重ねられ、薬草が瓶に詰められる。


 私は鍋を火にかけた。

 村の人に教わった灰汁あく石鹸せっけんを、小さく切って布に包む。

 手洗い用だ。


 「水はここ。桶は二つ。汚れた方と、すすぐ方」

 「……覚えてる」


 レオンさんは、言葉少なに返しながら、棚の高さを測っていた。

 板に鉛筆で印をつけ、迷いなく鋸を入れる。

 木屑が落ちる。陽の光にきらりと舞う。


 手際が良すぎて、私は少し笑ってしまった。

 「大工さんみたいですね」

 「村出身だ」

 「……そうでした」


 言い直す。村出身。リンデン村は、彼の帰る場所だった。

 そして今は、私の帰る場所でもある。


 鍋の湯気が立ち上がる。

 布を箸で沈めると、ふわりと白さが増した。

 私はその白に、何度も救われたのだと思う。

 清潔であること。準備してあること。誰かが安心して呼吸できること。


 「る場所が、必要です」


 独り言みたいに言うと、レオンさんは釘を口に咥えたまま、目だけでこちらを見た。

 私は慌てて首を振る。


 「違います。……誰かのため、だけじゃなくて」


 言葉を探す。

 自分のため、という言葉が、まだ少し怖い。


 私は鍋の火を弱め、指先を布で拭いた。

 そして、今度こそ言った。


 「私が、ここをやりたいんです。だから——“必要”なんです」


 レオンさんは、釘を指で摘まんで外し、ぽつりと言った。

 「……そう言えたなら十分だ」


 褒めるみたいな声じゃない。

 確認。いや、受け取り。

 私は息を吐いた。胸の奥が、少しだけ広がる。


 午後、戸口が控えめに叩かれた。

 振り向くと、村の人たちが数人、遠慮がちに立っている。

 手にはほうきや布、古い椅子。まきの束まで。


 「……空いてる家、掃除してるって聞いて」

 「手、足りるかい」


 視線が私の顔へ集まって、次に、肩のあたりで止まる。

 聖女服は着ていない。それでも、彼らの中にはまだ「聖女様」がいる。


 私は一歩前に出て、頭を下げた。

 下げすぎない。折れない。


 「ありがとうございます。でも、お願いがあります」

 「なんだい」

 「ここでは、私は“聖女”じゃなくて……凛です。凛と呼んでください」


 空気が止まった。

 誰かが息を呑み、誰かが目を伏せる。

 でも、怖くなかった。私は待てる。待つのも、自分で選べる。


 やがて、年配の男が咳払いをして、照れたみたいに言った。

 「……凛さん。これ、使えるか」

 「はい。すごく助かります」


 それだけで、胸がいっぱいになった。

 私は椅子を受け取り、布を受け取り、薪を受け取る。

 受け取っても、私は削れない。今は、そういう受け取り方ができる。


 レオンさんが無言で荷物を引き受け、置く場所を作っていく。

 誰かが箒で床を掃き、誰かが窓を拭く。

 家が、家じゃなくなっていく。診療所になっていく。

 私の場所になっていく。


 その輪の外から、柔らかい声がした。

 「凛ちゃん、ちょっと休んで」


 エルザさんだった。

 大きなかごを抱えていて、中からパンの匂いと薬草茶の香りがあふれる。


 「エルザさん……」

 「ほら、顔。ちゃんと見せて」


 私が顔を上げると、エルザさんは目尻をくしゃりとさせた。

 「いい顔してるよ、凛ちゃん」


 胸の奥が熱くなって、私は慌てて視線を逸らした。

 でも、その熱は苦しくない。火鉢みたいに、静かに暖かい。




 夕方、光が橙に変わる頃。

 レオンさんは外に出て、木の板を膝に乗せていた。


 短剣で、表面を削っている。

 細かな屑が落ちる。指先は迷いなく動くのに、呼吸は不思議なくらい静かだ。


 私は鍋から薬草茶を注ぎ、そっと隣に置いた。

 湯気が彼の頬を撫でる。彼は礼も言わない。でも、手だけが一瞬止まった。


 板の中央に、深い溝が刻まれていく。

 文字。


 「……それ、看板ですか」


 私が尋ねると、レオンさんは板を少し傾けて見せた。

 まだ途中。けれど、はっきり読める。


 『リンデン診療所 凛』


 心臓が、変なところで跳ねた。

 自分の名前が木に刻まれている。それだけで、世界に居場所ができたみたいで。


 「……いいんですか」

 「何が」


 レオンさんは視線を外したまま、短剣を持ち替えた。

 刃先が、最後の払いを整える。


 「“聖女”じゃなくて。……凛、だけで」


 言ってしまってから、怖くなる。

 もし彼が「そうするべきだ」と言ったなら、私はまた誰かの正しさに縛られる。


 でも、レオンさんは首を振った。

 小さく。決めつけない揺れ方で。


 「決めるのは、あんただ」


 ……そうだった。

 そう言ってくれる人が、隣にいる。


 私は看板の文字を指でなぞった。

 溝が指腹に引っかかる。線が少し曲がっていて、角も揃っていない。

 でも、温かい。


 「これがいいです」

 「……後悔するな」

 「後悔したら、変えます。私が」


 言った瞬間、レオンさんの口角がほんの少し動いた。

 笑った、と言うほどじゃない。けれど、それで十分だった。


 村の人たちが、梯子はしごを運んできた。

 釘を持った手が集まり、紐を結ぶ手が集まる。

 誰かが「凛さんの店だ」と言って、皆が小さく笑った。


 私は梯子の下を押さえた。

 レオンさんが上り、看板の紐をはりに回す。

 木槌きづちの音が、夕空に乾いて響く。


 最後の釘が打ち込まれた。

 看板が、玄関の上で揺れて、静かに止まる。


 『リンデン診療所 凛』


 私は一歩下がって、それを見上げた。

 胸の奥が熱くて、でも、泣き顔になる前に笑えた。


 「……始まりですね」


 レオンさんは梯子を降り、私の横に立った。

 肩が触れるか触れないかの距離。

 触れないまま、ちゃんと隣だ。


 「始まりだ」


 その夜、家の中は少しだけ暖かかった。

 薪の匂い。薬草茶の甘い苦味。

 机の上には、煮沸した布と、空の器と、書きかけの記録帳。


 私は戸を閉め、看板の影が床に落ちるのを見た。

 自分の名前の影。


 ——こん、こん。


 遠慮がちな音。

 そのつつましさに、胸がきゅっとなる。


 「……はい」


 戸を開けると、若い母親が子どもの手を引いて立っていた。

 男の子は下を向いて、鼻をすすっている。


 「凛さん……ここ、診療所だって……」

 「ええ。どうしました?」


 母親は申し訳なさそうに、子どもの掌を見せた。

 木片で擦ったのだろう。皮がけて、赤く滲んでいる。


 「転んで……洗ったんだけど、痛いって泣いて……」

 「来てくれて良かったです」


 私は男の子と目線を合わせた。

 聖女の笑顔じゃない。誰かに見せるための顔じゃない。

 今の私が、したい顔。


 「まず、手を洗おうか。痛いの、少し楽にするから」


 男の子がこくりと頷く。

 私は桶を二つ用意し、温めた湯を注いだ。

 灰汁あく石鹸せっけんを泡立て、傷の周りだけを丁寧に洗う。


 「しみる?」

 「……ちょっと」

 「えらい。息、ふーってしてみて」


 男の子が小さく息を吐く。

 私はその呼吸に合わせて、布を当てた。

 煮沸した布の白が、赤を吸っていく。


 治癒魔法を使えば、もっと早い。

 でも、ここは魔法だけの場所にしたくない。

 洗って、おおって、守る。

 それができる場所にしたい。


 最後に、ほんの少しだけ魔力を指先に集めた。

 皮膚の縁を繋ぐ程度。傷跡が残りにくいように。


 男の子の目が丸くなる。

 「……あったかい」

 「うん。もう大丈夫」


 包帯ほうたいを巻き終えると、母親が深く息を吐いた。

 その息に、私の肩からも力が抜ける。


 「……ありがとうございます。こんなすぐ来ていいのか迷って」

 「迷ったら来てください。ここは、そういう場所です」


 言ってから、胸の奥が満ちていくのを感じた。

 頼まれたからじゃない。

 私が、そうしたいから。


 母親と子どもが帰るとき、レオンさんが戸口の横に立っていた。

 言葉はない。でも、視線が一度だけ私に留まる。


 私は小さく頷いた。

 頷けることが、嬉しい。


 夜の冷気が少し強くなった。

 それでも、診療所の中は暖かい。

 看板の影が、床に揺れる。


 『リンデン診療所 凛』


 私の名前だけ。

 それで、十分だった。



 ——次話「騎士の過去」――二人の距離が、もう一段近づく。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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