第25話: あなたの手は温かい
——疫病収束後、疲れた凛をレオンが支える。
鐘が鳴った。終わりを告げる音が、王宮の石壁に澄んで反響する。
廊下の先で、誰かが泣き笑いした。肩がぶつかり合って、安堵の息があちこちで漏れる。
なのに私だけ、足元が遠い。世界が白く滲んで、指先の感覚がほどけていく。
疫病は、完全に収束した。そう告げられた瞬間、胸の奥が空っぽになって、身体だけが置いていかれた。
薬草の匂いが薄い。苦い湯気も、消毒の刺激も、もう鼻を刺さない。
咳き込む音が聞こえないことに、遅れて気づく。数日前まで、ここは夜も朝も同じ音で満ちていたのに。
私は、その静けさが怖くて、何かを探すみたいに息を吸った。
壁に手をつこうとして、指が空を掻く。
膝が折れた。床に落ちる前に、背中が硬い腕に引き寄せられる。
「……凛」
レオンさんの声は低い。叱るみたいなのに、腕は乱暴じゃない。落とさないように、ぎりぎりの力で抱き留めてくれている。
外套の匂いが頬に触れる。焚き火の名残が、薄く温かい。
「……大丈夫です」
口に出しかけて、飲み込んだ。大丈夫じゃない。
喉が乾いて、瞼が重い。怖いくらい、身体が休もうとしている。
休んだら、誰かが死ぬ。そう思って動き続けてきた。けれど今は、動かなくても——もう、誰も咳き込まない。
それが嬉しくて、同時に、力が抜けた。
肩の力が落ちる音が、自分にだけ聞こえた気がした。
張りつめた糸が切れた後の空白に、疲れが雪崩れ込む。逃げ場のない重さ。私は、それに抵抗するのをやめた。
「立てるか」
耳元で問われて、私は頷こうとした。けれど首が動かない。動いたのは、唇だけだった。
「……むり、です」
吐息みたいな声が出た。正直に言えたのは、たぶん、彼の腕の中だからだ。
短い舌打ちのあと、私の身体がふわりと浮いた。
抱え上げられる。恥ずかしさより先に、身体が軽い。
頬が彼の胸板に当たる。硬いのに、そこだけ妙に安定していて、目が閉じそうになる。
耳の近くで、どくん、と一つ鼓動が鳴った。生きている音。
あんなに多くの脈を確かめてきたのに、自分が支えられる側になると、それだけで泣きそうになる。
「騒ぐな。落とす」
不機嫌そうな言葉。なのに、歩幅は慎重で、揺れを最小に抑えてくれている。
揺れが少なくて、酔わない。
「……もう、終わった」
呟きが耳元に落ちた。自分に言い聞かせるみたいな声。
私の髪が彼の顎を掠めたのが分かった。レオンさんは嫌がる素振りもなく、ただ少しだけ腕を締めて、私の頭が揺れないようにする。
その動きが、ひどく優しい。
終わった。そう思った瞬間に、眠りが近づく。
部屋は静かだった。重い扉が閉じられると、外の歓声が遠くなる。
寝台の白いシーツが眩しい。午後の光が、埃を金色に浮かべている。
レオンさんは私を座らせ、背中に枕を当てた。
枕の角度がぴたりと合う。息が楽になる。いつもは「これくらい」と我慢してしまうところを、彼が先に整えてしまう。
薄い毛布が肩にかけられた。動きが不器用で、端が少しだけずれる。
「……汚れます」
私の服は薬草と汗の匂いがする。そう言うと、レオンさんは毛布の端を、無言でぐいと直した。
「汚れたら洗えばいい」
「……水」
杯が唇に触れる。冷たさが喉を通って、ようやく息が入った。
杯を置く音が少しだけ大きい。レオンさんの手が、ほんのわずか震えているのが見えた。
私の方が震えているはずなのに、彼が揺れるのは——私のせいだ。
私は息をついて、視線を上げた。
レオンさんは窓を背に立っていた。不機嫌そうな眉間の皺だけが、逆光でも見える。
「……レオンさん」
呼ぶと、彼は目を向ける。真っすぐで、逃げない視線。
言葉はたくさんあるのに、喉がうまく動かない。
「……レオンさん、ありがとう」
声にした途端、胸の奥がきゅっとなる。
レオンさんは一拍、黙った。
「礼を言うのは、早い」
ぶっきらぼう。いつもの調子。けれど、声の棘が薄い。
「……迷惑、かけました」
癖みたいに出た言葉に、レオンさんの眉間が深くなる。
「かけてない」
短い否定。言い切る声。
私は頷いた。頷くしかできない。
胸の奥で、固く結んでいたものが少しほどける。誰かに「いい」と言われるだけで、こんなに楽になるなんて知らなかった。
彼の視線が、私の手に落ちた。
私は膝の上で、両手を握りしめている。力を抜くのが怖いから。
何人もの額に触れ、熱を確かめ、祈りの言葉を飲み込んで、手当てをして——そのたびに「大丈夫」と言い聞かせてきた手。
今さら緩めたら、全部が零れてしまいそうで、握りこむしかない。
レオンさんの手は、膝の上で宙に迷った。拳にしたり、開いたり、落ち着かない。
剣を抜くときみたいに迷いなく動けないのが、逆に、私のことを大事にしている証みたいで——胸が痛い。
レオンさんの手が伸びて——一度、止まった。
それから、決めたみたいに触れてくる。
指先じゃない。手のひらで包む。
初めて、レオンさんから。
思い出す。私が治癒の光を使うとき、彼の腕を取ったことがある。傷を確かめるために肩に触れたこともある。
そのたびレオンさんは、石みたいに固くなって、視線だけ逸らした。
だから今、こちらから来る温度に、私はうまく息ができない。
息が止まる。硬い指が、私の指をほどくみたいに、ゆっくり握り直す。
「……冷たい」
呟きが落ちる。
「あんたの手は、冷えてる」
その一言が、なぜか痛い。
私の手は白い。薄い。代わりに、レオンさんの手が温度をくれる。
逃げ道を塞がないのに、離れない。掌が静かに包む。
私は喉の奥の震えを押し込めて、言った。
「……あなたの手は、温かい」
言葉が部屋の静けさに溶けた。
温かい、と口にしただけで、胸の奥の張りが少しだけほどける。
呼吸が、やっと自分のものに戻る。
レオンさんの指が、微かに強くなる。
「当たり前だ」
ぶっきらぼうに返しながらも、離さない。
掌の熱が、指の間に沁みていく。小さな火種みたいに、少しずつ広がって、胸まで届く。
レオンさんの親指が、私の指の関節を一つずつ、確かめるみたいに撫でた。
そのたび、冷えた皮膚が少しだけ柔らかくなる。触れられているのに、怖くない。
目を瞬く。滲むのは涙じゃない。疲れの膜だ。
それでも、温かさだけが残る。
「……私、もう少しだけ……」
言いかけて、眠気にさらわれる。
“ここにいて”と言いたかったのかもしれない。
けれど言葉にしなくても、彼の手が答えている。
レオンさんは握った手の位置を少し上げて、私の胸の近くに置いた。
「寝ろ」
命令みたいな一言。
命令じゃない。休んでいい、と言ってくれている。
私は小さく頷いた。頷く力さえ、もう惜しい。
瞼が落ちる。暗くなる。
椅子が引かれる音がする。傍にいる、と音で分かる。
そして——握られた手の温かさ。
それだけで、深く沈めた。
しばらくして、凛の呼吸が落ち着いた。
握られた手が、眠ったまま、ほんの少しだけ握り返す。
指先が、探るみたいに動く。確かめるみたいに、もう一度だけ力が入る。
レオンは息を止めて、それを受け止めた。
自分の手が温かいのは、血が通っているからだ。
だが、凛の手が冷えてしまうほど誰かを救ったことを思うと、その温かさが急に頼りなく感じる。
もっと、近づけばよかった。もっと早く、こうすればよかった。
口元が、ほんのわずかに緩む。
離さない。
目を覚ましたとき、また「大丈夫です」と言わせないために——その言葉が出る前に、手の温度で止めるために。
窓の光がゆっくり傾いて、部屋の色が少しだけ柔らかくなる。
レオンはその変化を横目に、凛の手だけを見ていた。冷えきった指先が、今は自分の掌の中で、かすかに息をしている。
レオンは凛の指を、ほんの少しだけ持ち上げた。
熱が移るように、逃げないように、静かに。
次に彼女が目を開けたとき、最初に触れるのは、治癒の光じゃなく——この手であってほしい。
——次話「二度目の旅立ち」――次の一手が、運命を動かす。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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