表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/39

第21話: 選ぶのは私

 ——王都おうとを襲う疫病えきびょう



 また「大丈夫」って言わなきゃ……。


 そう思った瞬間、喉がきゅっと縮んで、息の通り道が細くなった。

 冬の朝の空気は冷たいのに、胸の奥だけが熱くて、痛い。




 村の掲示板の前には、人が集まっていた。

 いつもなら収穫祭しゅうかくさいの余韻や、畑の相談の声が混じる場所。

 今日は、乾いた紙の擦れる音しか聞こえない。


 貼り出された手紙は、王都おうとからの早馬便。

 封蝋の欠けた赤が、黒い文字の間で不気味に光っていた。


 「……疫病えきびょう


 誰かが読んだ一言が、霜みたいに空気に落ちる。

 次の言葉は、耳に入ってこなかった。

 入ってきたとしても、私の中で別の音にすり替わってしまう。


 行かなきゃ。

 行かなきゃ。

 行かなきゃ——。


 私は外套の袖の内側を、爪で押した。

 布は厚いのに、手の甲が冷えていく。

 息を吐くたび、白い靄が目の前に溜まって、視界が曇る。


 「凛ちゃん?」


 エルザさんの声が、背中から触れた。

 私は振り向く前に、口が勝手に動いていた。


 「だ、大丈夫です」


 言い慣れた言葉。

 その言葉が口から出るたび、私の体温が一度下がる気がする。


 エルザさんは眉を少しだけ下げて、私の手元を見る。

 袖の中で握りしめた拳が、ほどけないのが分かったのだと思う。


 「……うちにおいで。まず、あったかいの飲も」


 命令じゃない。

 “当たり前”の誘い方。

 それが、今の私には眩しい。




 台所は、薪の匂いで満ちていた。

 鍋の中で煮える根菜の甘い湯気が、鼻の奥を柔らかく撫でる。

 指先に残っていた冷えが、器の陶器の温度に少しずつ溶けた。


 でも、胸の奥の固さだけは、溶けない。


 「王都……大変なんだろうね」


 エルザさんが椅子に腰を下ろして、私の向かいに湯気の立つ茶を置いた。

 指の節が赤い。

 この人はいつも、温かいものを作る手で、自分を後回しにする。

 それでも、私にだけは“頑張れ”と言わない。


 私は茶を見つめたまま、言葉を探した。

 探すほど、古い言葉が先に出てくる。


 「……私が、行けば」


 聖女せいじょとして、できることがある。

 そう言えば、全部片付く気がした。

 誰かが褒めてくれるかもしれない。

 誰かが許してくれるかもしれない。

 そして私は、また自分を使い切って、空っぽになれる。


 ——それが、怖いのに。


 「凛ちゃん」


 エルザさんは、私の名をゆっくり呼んだ。

 その速度は、私の心の暴走を止めるための速度だった。


 「無理しなくていいんだよ」


 その言葉が、器の温度より先に私の胸を温めた。

 同時に、罪悪感が刺さる。

 無理しなくていい。

 そう言われるほど、私の中の“しなきゃ”が騒ぐ。


 「でも……私、聖女で……」


 口にした瞬間、自分の声が遠くなる。

 聖女せいじょ

 それは私の名前じゃない。

 私の役割の札だ。


 「うん。そうだね」


 エルザさんは否定しなかった。

 否定されないから、私の中の言い訳が崩れる。


 「でもね、凛ちゃん。聖女でも、凛ちゃんでも」


 彼女は息を吸って、言葉を置く場所を選ぶみたいに続けた。


 「選んでいいんだよ。行かなくても、ここにいても。……あたしは、変わらず好きさね」


 好き。

 その音の柔らかさに、喉の奥が痛くなる。

 好きは条件じゃない。

 役に立ったときだけ貰える褒美じゃない。


 私は、湯気の向こうで瞬きをした。

 涙が落ちる前に、まぶたの裏へ押し込む癖が、まだ抜けない。


 「……わかりません。私、どうしたら」


 分からないと言いながら、私の頭の中では、もう答えが決まっているみたいに繰り返される。


 行かなきゃ。

 行かなきゃ。


 その音が、私の心臓の鼓動と重なって、息が苦しくなる。




 戸が鳴ったのは、昼前だった。

 風が板壁を撫でる音に混じって、短いノックが二回。


 エルザさんが立ち上がるより先に、私は反射で背筋を伸ばした。

 誰かが“必要”と言ってくれるのを、待ってしまう癖。


 扉が開いて、冷気と一緒にレオンが入ってくる。

 肩に積もった粉雪を払う指が、無駄がない。

 視線だけが一瞬、私の顔に止まって、すぐに逸れた。


 「聞いた」


 それだけ。

 けれど、その短さが、逃げ道を作らない。


 私は、椅子の背を握った。

 指の関節が白くなる。


 「……私が行けば、助かる人がいると思います」


 口にしながら、胸が薄くなる。

 “助かる”の向こうに、私が“消えていく”未来が見えたから。


 エルザさんは黙って、台所の奥へ下がった。

 鍋の火を弱めるふりをして、私たちの間に場所を作ってくれる。

 見守り方が、あたたかい。


 レオンは、私の前の椅子を引いた。

 座った。

 見下ろさない距離。

 逃げない距離。


 しばらく、薪の爆ぜる音だけがした。

 私はその音に合わせて呼吸を整えようとして、うまくできない。


 「凛」


 呼ばれた瞬間、背中がぞくりとした。

 いつもなら「レオンさん」と呼ぶ私が、今日は、彼に名前で呼ばれている。

 名を呼ばれるのは、役割を呼ばれるのと違う。


 レオンは、膝の上で指を組み直してから、言った。


 「行くなとは言わない。でも聞く。'行かなきゃ'か、'行きたい'か」


 その言葉は、刃じゃなかった。

 でも、霧を切る。


 私は息を止めた。

 “行かなきゃ”は、私の中で簡単に言える。

 言えば、みんなが安心する。

 言えば、私はまた“聖女せいじょ”になれる。


 “行きたい”は——。


 怖い。

 自分の欲を、口にするのが怖い。

 欲を選んで、誰かが傷ついたら?

 欲を選んで、失敗したら?

 その責任を、私は一人で抱えられるの?


 それでも。


 私は、王都おうとの石畳の冷たさを思い出した。

 大神殿だいしんでんの白い壁の眩しさ。

 祈り《いのり》ので、誰にも触れられない孤独。

 そして——追い出された夜の、凍える手。


 今の私は、ここで温かい茶を飲んでいる。

 エルザさんの「好き」を知っている。

 畑の土の匂いを知っている。

 眠っていい夜を、知ってしまった。


 だから、戻るのが怖い。

 怖いからこそ、私は気づく。


 私がいま一番怖いのは、“戻ること”じゃない。

 “選ばずに戻ること”だ。


 息を吐いた。

 白い靄が、いつもより少しだけ薄い。


 「……行かなきゃ、って言えば楽です」


 声が震えた。

 恥ずかしい震えじゃない。

 長い間、閉めていた扉の蝶番が軋む震え。


 「でも、それだと……また、私が私じゃなくなる」


 レオンは何も言わない。

 頷きもしない。

 ただ、逃げずに見ている。


 その視線が、私に“選べ”と命じない。

 選ぶのは私だと、静かに返してくる。


 私は唇を噛んで、言葉の形を作った。

 口に出すのが怖いほど、そこに自分がいる。


 「……行きたい、です。私のやり方で」


 言った瞬間。

 胸の奥の固い塊が、ふっと軽くなった。

 体の中に、空気の通る道ができる。

 息が、入る。

 ちゃんと、入る。




 しばらく、薪の音だけが続いた。

 レオンは目を伏せて、ひとつ息を吐いた。

 それから、短く言う。


 「なら俺も行く。あんたのやり方を、見届ける」


 “守る”じゃない。

 “連れていく”でもない。

 見届ける。


 その言葉が、私の背中に手を置くみたいだった。

 押さない。

 引かない。

 ただ、そこにいる。


 「……レオン」


 呼び捨てにした自分に、少し驚いた。

 でも、その驚きは嫌じゃなかった。

 口元が、痛いくらいに緩む。


 エルザさんが、台所の奥から戻ってきた。

 目が少し赤いのに、笑っている。


 「決まったんだね。……凛ちゃん」


 私は頷いた。

 頷きは、前より速い。

 迷いが消えたわけじゃない。

 怖さがなくなったわけでもない。

 それでも、私の中に一本、芯が立った。


 「はい。……でも、無理はしません。私のやり方で、やります」


 “しなきゃ”じゃなくて、“する”。

 言い換えただけなのに、指先が温かい。


 「それでいいさね」


 エルザさんは私の頭を撫でた。

 手のひらが、あったかい。

 その温度は、私の決意を溶かさない。

 守るみたいに、包むだけだ。




 準備は、思っていたより現実的だった。


 外套のほつれを縫い直す針の感触。

 乾燥させた薬草の匂い。

 水袋の革が軋む音。

 荷物を分けるたび、私は自分の体の重さを確かめる。


 “全部背負わない”ために、分ける。

 誰かに預ける。

 一人で抱えない。

 それが、私のやり方。


 レオンは無駄なものを持たない人なのに、今回は包みをひとつ増やした。

 中身を聞くと、短く言う。


 「手が冷えるだろ」


 差し出されたのは、指先まで覆う厚手の手袋。

 毛糸の編み目が少し不揃いで、たぶん村の誰かの手。

 私はそれを受け取って、指で撫でた。

 ざらりとして、優しい。


 「……ありがとうございます」


 礼を言う声は、前よりも自分のものだ。


 窓の外で、風が鳴った。

 遠い空の色が、薄い鉛みたいに沈んでいる。

 あの向こうに、王都おうとがある。

 そこに、今、誰かの“行かなきゃ”が積もっている。


 私は荷物の紐を結びながら、最後に心の中で確かめた。


 行かなきゃ、じゃない。

 行きたい。

 私が、私として。


 「明日の朝、出る」


 レオンの声が、薪の火みたいに低く響いた。

 命令じゃない。

 決めた私に、合わせる段取り。


 私は頷く。

 外套の内側で、手袋を握りしめる。

 その温度が、まだここにある居場所を覚えている。

 だから、戻ってこれる気がした。


 夜更け。

 村の鐘が一度だけ鳴った。

 風の向きが変わって、遠くの空気が、わずかに鉄の匂いを運んでくる。


 王都おうとで、何かが待っている。

 祈り《いのり》の声が、裂けるような夜が——。


 それでも私は、布団の中で目を閉じた。

 逃げるためじゃない。

 明日、自分の足で歩くために。



 ——次話「聖女の帰還——条件付き」――王都を揺らす決断が始まる。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

☆やブックマークで応援いただけると、とても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ