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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第20話: 疫病の影

 ——王都を襲った疫病。



 咳が、街の角を曲がってくる。

 乾いた咳。湿った咳。喉の奥を削る咳。

 それに混じって、死の匂いがする。


 王都の冬は、いつもなら香辛料こうしんりょうと焼き菓子の甘さで満ちる。

 だが今日は違った。

 濡れた布と吐瀉としゃ、汗が冷えた酸っぱい臭いが、石畳の隙間にまで染みている。


 道端の男が膝をつき、手のひらに赤黒い痰を吐いた。

 隣の女は、子どもの額に手を当てたまま動かない。

 目だけが、助けを探して彷徨さまよっている。


 「……神殿へ。神殿へ行けば、治してもらえる」


 誰かが囁き、その言葉だけが、まだ信仰の形を保っていた。




 大神殿だいしんでんの白い階段は、いまや病人の川だった。


 毛布に包まれた者。

 歩けず、板に縛られた者。

 咳のたびに胸を押さえ、指の間から血を滲ませる者。


 祈りの像の足元にまで、人が横たわる。

 吐息が重なり、空気がぬるく、湿って、粘つく。


 「順番だ! 押すな!」


 神官見習いが叫ぶ。

 だが声はすぐ、咳とうめきに飲み込まれた。


 人々の視線が、神殿の扉へ突き刺さっている。

 いつもなら、そこから“新聖女候補”が現れ、眩い治癒ちゆで奇跡を見せるはずだった。


 けれど。


 扉は開かない。

 白い衣は、現れない。


 代わりに出てきたのは、焦りで頬を強張らせた大神官だいしんかんヴェルナーだった。


 「静粛に! 神の御名みなのもと、治癒を——」


 彼は手を掲げ、魔力を集める。

 いつもなら温かな光が、病を押し流す。


 だが、今日は。


 淡い光が、指先でぱちりと弾けただけだった。


 倒れた男の咳は止まらない。

 女の子の唇は紫のまま。


 ヴェルナーの額に汗が浮かぶ。


 「なぜ……なぜ治癒魔法ちゆまほうが効かない……!」


 もう一度。

 もう一度。


 彼は詠唱えいしょうを重ねた。

 光は出る。確かに出る。


 けれど、それは皮膚を撫でるだけの、無力なともしびだった。


 「お、おかしい……神の加護が……」


 ヴェルナーは言い訳を探すように視線を泳がせる。

 背後から、副神官ふくしんかんが扉の影に顔を覗かせた。


 「大神官様、祈祷きとうを続けてください。民の不安をあおるわけには……」


 声は小さい。

 しかし、その声にも恐怖が滲んでいた。


 列の先で、誰かが叫んだ。


 「治ってない! 全然、治ってないじゃないか!」


 「昨日、ここで金を払った! 神殿の水を飲んだ! なのに母が死んだ!」


 「嘘だ……神殿は嘘つきだ……!」


 不信の言葉が、吹き溜まりの雪のように積もっていく。


 そして、その上に。


 最も鋭い刃の問いが落ちた。


 「聖女様がいれば……!」


 「……聖女を追い出したのは、誰だ?」


 ざわり、と列が波打つ。

 病に濁った目が、別の色を帯びる。

 怒りだ。


 「神殿だろ!」

 「王宮もだ!」

 「大神官が、あの子を——」


 ヴェルナーの喉が鳴った。


 「ち、違う! 私は——私は、神の意思に従っただけだ!」


 言った瞬間、彼は気づいた。

 それが、いちばん人を怒らせる言葉だと。




 王宮の回廊かいろうは、香が焚かれていた。


 だが香りは、外から持ち込まれる腐臭ふしゅうを隠しきれない。


 セドリックは窓際に立ち、手袋越しに指を噛んだ。

 遠くの鐘の音が、いつもより低く聞こえる。


 「報告します」


 侍従が膝をついた。


 「死者が増え続けています。今日だけで……昨夜の倍です。感染かんせんは下町から、商業区へ——」


 “倍”。


 その言葉が、セドリックの胃を掴んでじった。


 神殿が治せない。

 兵が封鎖しても、咳は壁を越える。


 人は祈りに向かい、祈りが崩れた瞬間——怒りは統治へ向かう。


 「神殿は?」


 セドリックが問う。


 侍従は、目を伏せた。


 「……治癒は効きません。大神官ヴェルナーが現場で指揮を取っていますが、混乱しています」


 混乱。


 その二文字が、過去の光景を呼び起こす。


 淡い金髪の少女。

 怯えながらも、誰よりも必死に手を伸ばしていた。


 あの手を。


 自分たちは、叩き落とした。


 「……彼女がいれば、救えたのか」


 呟きは、喉の奥で血の味になった。


 セドリックはきびすを返し、大神官のもとへ向かう。


 いま必要なのは、責任の所在ではない。

 対策だ。


 だが。


 彼の胸の底で、別の声がうごめいていた。


 “報いだ”。


 それが自分の心にあると知った瞬間、セドリックは自分自身を嫌悪けんおした。




 大神官の執務室は、分厚い絨毯じゅうたんと金の装飾で、外の現実から隔絶されている。


 セドリックが扉を開けると、大神官は既に言葉を用意していた。


 「これは神の試練——」


 「試練で済む数ではありません」


 セドリックが遮る。


 大神官の眉がわずかに動いた。


 「王太子殿下。民は弱い。恐れれば、秩序を失う。ゆえに、神殿は“意味”を与える必要が——」


 「意味より、薬と隔離と、水です」


 セドリックの声が硬くなる。


 大神官は、口元だけで笑った。


 「治癒が効かぬのは、信仰が薄れたからだ。民が悔い改めれば——」


 その瞬間。


 窓の外から、怒号が突き刺さった。


 「嘘をつくな!」


 「神のせいにするな!」


 「聖女様を返せ!」


 セドリックは窓へ駆け寄る。


 広場に、黒い人の塊が渦を巻いていた。

 松明たいまつの煙が、冬空を灰色に染める。


 先頭の男が、布で口を押さえながら叫ぶ。


 「俺の子は死んだ! 神殿の階段で、誰にも触れられないまま!」


 「金を取ったくせに、何も治せない!」


 「“新聖女候補”だの、神の器だの——結局、必要なのはあの人だったんだ!」


 あの人。


 名前が出ないのに、誰のことか分かってしまう。


 大神官の顔色が変わる。


 「兵を出せ。鎮圧しろ」


 「鎮圧して、病が止まるのですか」


 セドリックが言う。


 大神官の視線が冷たく刺さる。


 「殿下。責任を問われるのは神殿だけではない。王宮も同じだ」


 おどし。


 セドリックは歯を食いしばる。


 外では、石が飛んだ。

 神殿の紋章もんしょうが刻まれた門に当たり、乾いた音が鳴る。


 人々は笑っていた。


 泣きながら、笑っていた。


 「ざまあみろ!」


 その言葉が、冬の空気を割った。


 病に苦しみながら。

 それでも。


 自分たちを見下していた者が、震えているのを見て——胸の奥が少しだけ温まる。


 それが、群れの感情だった。




 神殿前。


 ヴェルナーは、階段の上で立ち尽くしていた。


 治癒は効かない。

 祈りは届かない。


 列は、もう列ではなかった。

 押し合い、奪い合い、倒れた者を踏む。


 「離れろ! 秩序を守れ!」


 ヴェルナーが叫ぶ。


 返ってきたのは、咳と怒りと、罵声ばせいだった。


 「秩序? 俺たちの秩序はどこにあった!」


 「お前らが追い出したんだろ!」


 「聖女様は、どこだ!」


 ヴェルナーの脳裏に、少女の顔が浮かぶ。


 淡い金の髪。

 せた肩。

 手のひらの光。


 “必要なのは彼女だった”。


 その事実が、喉に刺さったとげみたいに抜けない。


 だが、彼はそれを飲み込む。


 「……神が、神がそうお望みだった!」


 言い切った瞬間。


 群衆の目が、一斉に冷える。


 「神のせいにするな」


 誰かの声が低く落ちた。


 その次の瞬間、汚れた雪玉が飛んできて、ヴェルナーの頬を叩いた。

 冷たさより、屈辱が熱い。


 「……っ!」


 神官たちが盾を構える。


 だが盾は、病からは守ってくれない。


 咳は近づき、熱は広がり、恐怖は伝染でんせんする。


 ヴェルナーは足を一歩引いた。


 階段の端。


 そこに転がっていたのは、金のさかずきだった。

 施しの水を入れるために用意したもの。


 空だ。


 空っぽで、冷たい。


 神殿の“象徴”みたいに。




 王都から数日。


 リンデン村へ続く街道の宿で、旅商人がささやいた。


 「王都が病で埋まってる。咳ひとつで倒れるってよ」


 酒場の空気が、ひゅっと細くなる。


 「神殿は?」


 誰かが訊いた。


 旅商人は、肩をすくめた。


 「治せねえってさ。……聖女を追い出した罰だって、皆が言ってる」


 罰。


 その言葉は、娯楽ごらくみたいに転がり、やがて不安の底へ沈む。


 「じゃあ、こっちにも来るのか?」


 「風向き次第だ。荷も人も動く。病も動く」


 旅商人は、暖炉の火を見つめた。


 「王都は封鎖したらしい。けど、封鎖ってのは遅いんだ。咳は先に旅をする」


 店の隅で、粗末な外套を着た若い男が黙って立ち上がった。

 視線は、窓の外——雪の向こうを見ている。


 丘の向こう。


 村の外れに、一軒の家がある。


 傷ついた者をいやす手が、そこにいる。


 人々はまだ、その価値を知らない。


 だが。


 王都の疫病の影が、白い息となって街道を渡り——いま、確実に村へ近づいていた。



 ——次話「選ぶのは私」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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