第17話: 侍女長の末路
——凛を失った侍女長マティルダは、新たな聖女候補たちを「教育」しようとするが、当然の拒絶に連鎖して直面する。
「聖女候補様は、朝の祈りが終わるまで口を利いてはなりません」
白いローブの少女は、まばたき一つして私を見た。
「……それ、神官様からは聞いてません」
静かな否定だった。反抗でも、挑発でもない。ただの確認。
けれど私の胸の内で、固い何かがきしんだ。
「神官は聖務を司ります。生活の規律は侍女長の管轄です」
私は笑みの形だけを作り、手の甲を重ねる。
凛が見ていたのと同じ姿勢。凛が黙ってうなずいた合図。
——凛なら、ここで「はい、マティルダ様」と返した。
目を伏せ、肩をすぼめ、息を吸う音さえ小さく。
私が与える「正しさ」を、彼女は飲み込むしかなかった。
だから私は、同じようにすればいいと思ったのだ。
聖女は皆、同じ。迷い、怠け、間違える。
だから、私が守らなければならない。
「あなたのためを思って申し上げています。口数は、心の散漫を生みますから」
少女——アリアは、少しだけ首を傾げた。
その仕草に、従順の影がない。
「散漫になるのは、祈りの内容が分からない時です。私は質問したいです」
「聖女候補様が質問など——」
「質問していいって、大神官が言ってました」
大神官。
その名前が、喉の奥に冷たい針を刺す。
「……祈りの後です」
私は言い切って、歩みを促した。拒まれているのに、拒まれていないふりをする。
凛には、それで効いた。凛は、私の「ふり」を現実に変える役目を果たした。
アリアは小さく息を吐き、歩き出す。
だが、祈りの間。彼女は唇を結ぶ代わりに、背筋を伸ばして正面を見た。
私の視線を受けても、縮まらない。
……なぜ。
なぜ同じ聖女候補なのに、こんなにも違う。
次の候補は、ミナという名だった。
まだ幼いが、目がよく動く。物の位置、人の距離、空気の変化を測る目だ。
凛にも、似た目があった。けれど、凛は測った結果を口にしなかった。
「聖女候補様は、甘いものを控えなさい。食欲は欲望です」
私は銀盆を取り上げる指先に力を込めた。
砂糖菓子が載っている。軽い嗜好の一つを奪うだけで、心は言うことを聞く。
——そう、凛はそうだった。
一度、菓子を口にして叱った時、彼女は震えた。
「ごめんなさい」と何度も言い、次から手を伸ばさなくなった。
私はその沈黙を「成長」と呼んだ。
だがミナは、私の手元を見て、あっさりと笑った。
「じゃあ、いりません。代わりにパンを一つください」
「……は?」
「祈りって、お腹が減ります。倒れたら困りますよね」
言い方は丁寧だった。私を責める響きはない。
ただ、当然のことを当然に言っている。
「聖女候補様は、節制を——」
「節制は、自分で決めます。大神官に、栄養を取れって言われました」
また、大神官。
私の背後で、他の侍女が目を泳がせた。
いつもなら、私の言葉に合わせて頷く者たちが。
今は視線を合わせない。盆の端を握りしめて、床の模様を見ている。
「……ミナ様。これは、規則です」
「規則なら、書面を見せてください」
書面。
あの子は、凛が一度も言わなかった言葉を、息をするように言う。
私は唇の裏を噛んだ。
紙が必要なのではない。私の「声」だけでは足りない、と言われているのだ。
それが、分からないはずがないのに。
「後で用意します」
「はい。じゃあ今は、パンを」
ミナは引き下がらない。
私は盆を持つ侍女に目を向けた。無言の命令。
しかし侍女は、私の視線を受けて一瞬だけ固まり、すぐにミナの方を見た。
「……パンを、追加でお持ちしますね」
敬語は変わらないのに、主語が私ではない。
私の胸の中で、何かが鈍く崩れた。
セシルは、祈りの後の回廊で私を呼び止めた。
呼び止めた、のだ。凛は呼び止めない。凛は追いかけてこない。
凛はいつも、追われる側だった。
「侍女長、ひとつ確認させてください」
彼女は礼儀正しく頭を下げた。だが、その後に続く言葉が刃だ。
「私たちの行動範囲は、どこまで許可されていますか?」
「聖女候補様は、神殿の外へ出てはなりません」
即答した。私の中で、それは当然の枠だった。
外は危険。誘惑。混乱。
凛を閉じ込めた時も、同じ理屈を使った。
セシルは眉を上げる。
「庭もですか」
「庭は——監督の下で」
「監督って、侍女長ですか」
私は頷いた。これも当然。
凛は、私が見ていれば安心した。……安心したように見えた。
セシルは、ふっと目を細めた。
怒ってはいない。困っているようでもない。
ただ、距離を測り直す目。
「私は、大神官から『息が詰まるなら庭へ出なさい』と」
「息が詰まるなど、甘えです」
言った瞬間、回廊の空気がわずかに硬くなる。
近くの侍女たちが、足を止めずに通り過ぎた。通り過ぎるふりで、逃げた。
——凛なら、ここで笑った。
怯えた笑い。許しを乞う笑い。
「ごめんなさい、私が悪いです」
そう言って、自分の胸を押さえ、息苦しさを罪に変えた。
それが異常だと、私は考えない。
異常なのは、今の目の前だ。
「侍女長。私は聖女候補です。囚人ではありません」
言葉は穏やかだった。
その穏やかさが、私の足元を崩す。
囚人。私が、凛に与えた日々の名前。
「……あなたのためです。外は、あなたを壊します」
「壊れるかどうかは、私が決めます」
セシルは深く礼をして、去っていった。
残されたのは、私の掌の汗と、回廊に残る自分の声。
「壊します」だなんて。
私が、そんな言葉を口にする側だなんて。
……それでも、私は間違っていない。
間違っていないのに、なぜ誰も頷かない。
侍女たちは、私の周りを避け始めた。
視線が合うと、仕事があるふりをする。布を畳む手が急に忙しくなる。
廊下の角で話していた声が、私を見ると消える。
凛がいた頃は違った。
私が廊下に立てば、空気が整った。
侍女たちは私の背中に従い、凛はその先に押し込められた。
私の言葉は規則になり、規則は正義になった。
正義は、こんなに脆いものだったか。
私は執務室に戻り、過去の「指導記録」を開いた。
凛の文字。震えているのに、丁寧に書かれた反省文。
「私は未熟です」「ご迷惑をおかけしました」「次からは——」
紙が、私を落ち着かせるはずだった。
けれど、今は違う。
反省文は、私の手の中で軽すぎる。
この軽さは、何だ。
凛の「はい」が軽かったのか。私の言葉が軽かったのか。
机の引き出しに、聖具の小さな札がある。
聖女の部屋へ出入りを許可する札。以前は私の名で通った。
私はそれを握って立ち上がった。
部屋へ行けば、整う。空気が。私が。——そう信じた。
聖女の部屋の扉は、閉じていた。
白い扉に刻まれた紋が、淡く光っている。
私は札をかざす。
いつもの手順。いつもの権限。いつもの私。
紋が、冷たく瞬いた。
——拒絶。
光が、私の指先を押し返す。
まるで、魔法が「違う」と言っているみたいに。
「……なぜ」
札を、もう一度。
もう一度、もう一度。
光は同じ反応を返すだけだった。
背後で、足音。
振り向くと、大神官ヴェルナーが立っていた。
長い外套。灰色の瞳。表情の動かない顔。
彼の前では、私の言葉がいつも少し遅れる。
「侍女長。そこは、現在封印区画だ」
「封印……? 私は侍女長です。管理のために——」
「管理のために、か」
ヴェルナーは私の手元の札を見た。
見ただけで、私の胸が縮む。
「新しい候補のために、環境を整えねばなりません。規律がなければ、聖女は——」
「規律?」
声は低い。問いではなく、刈り取る刃。
私は言葉を継ぐ。正しい言葉を、正しい順番で。
いつもそうしてきた。
凛を、倒れないように。倒れても起き上がるように。
起き上がったら、また祈れるように。
祈れるなら、役に立つ。役に立つなら——存在できる。
「聖女候補様は、弱いのです。外の刺激、甘え、欲望。放置すれば——」
「放置?」
ヴェルナーは一歩、私に近づいた。
「君は、彼女たちを『放置』していないと言うのか」
一瞬、言葉が止まった。
放置していない。放置していないから、私がいる。
私は必要だ。必要でなければ——
「私は、あなたのためを思って——」
口をついて出た。凛に何百回も言った言葉。
言えば、相手が黙った言葉。
言えば、相手が自分を悪者にした言葉。
しかしヴェルナーは、黙らない。
「その言葉を、凛に何度言った」
名を出された瞬間、胃が反射で縮んだ。
凛。いなくなったはずの聖女。
いないのに、私を縛る名。
「……凛様は、特別に未熟で」
「特別?」
「はい。だから私は——」
「君が作った『特別』だ」
胸の内がざわつく。
否定したい。だが言葉がすぐに形にならない。
私が作った? そんなはずはない。
私はただ、正しく導いた。
聖女が道を外れないように、外れたら戻るように。
ヴェルナーは扉の紋に手をかざした。
淡い光が彼の指に吸い付くように集まり、紋が静かに沈む。
「この区画への出入りは、大神官権限に限定した」
「……なぜ、そこまで」
「君が、候補たちに同じことを始めたからだ」
私の背中に、冷たい汗が流れた。
見られている。把握されている。
今まで、凛だけが私を見ていたはずなのに。
「私は神殿の秩序を守っているだけです」
「秩序は、聖女を壊す免罪符ではない」
壊す。
さっき自分が口にした言葉が、今度は私の頭上から落ちてくる。
「……私が、壊したと?」
声が震えた。怒りではない。恐怖でもない。
理解が追いつかない時の、あの空白の震え。
ヴェルナーは表情を変えないまま、告げた。
「侍女長マティルダ・ヘンドリクス。君は、候補への直接指導から外れる」
耳が、音を拒んだ。
外れる? 私が?
なら、私は何をする。
誰のために、何を整える。
整える相手がいなければ、私は——
「待ってください。私は必要です。彼女たちは、まだ——」
「まだ、何だ」
「……まだ、従い方を知らない」
言ってしまった。
口の中が、鉄みたいな味になった。
ヴェルナーは、ほんの少しだけ目を細めた。
怒りではない。哀れみでもない。
ただの、確定。
「従わせる仕事は、もう終わりだ」
その日の夕刻、侍女詰所は私の足音に沈黙した。
誰も、顔を上げない。
敬礼も、応答も、ない。
私は机に手をついて、立ったまま言った。
「明日からの候補の予定表を——」
「大神官から新しい指示が来ています」
若い侍女が、紙束を胸に抱いたまま言う。
丁寧な声。丁寧な拒絶。
紙束の一番上に、大神官の封蝋が見えた。
私の名前は、そこになかった。
「……私の承認は」
「必要ありません、と」
侍女は視線を落とした。罪悪感の動きではない。
ただ、これ以上踏み込まないという線引き。
彼女の肩が、凛のように縮まないことが、私を苛立たせる。
「あなたたちは、誰のお給金で——」
口にしかけて、飲み込んだ。
凛に言ったことはない言葉だ。ここで言えば、私が汚れる。
汚れるのが怖い。正しさだけが、私の服だ。
私は踵を返した。
背中に、誰も追ってこない気配がした。
かつて凛が、私の背中を追ってきたようには。
夜。
私は、封印区画の前に立っていた。
昼に拒まれた扉。
誰にも見られない時間なら、光は私を通すのではないか。
——そんな理屈のない期待に、縋っている自分が嫌だった。
札をかざす。
光が冷たく瞬く。
拒絶は、昼と同じ。
扉の向こうは、静かだ。
凛がいた頃は、呼吸の気配があった。
小さく「はい」と返す声が、壁越しに滲んでいた。
私はその声で、自分が必要だと確認できた。
今は、何もない。
私の手の中で、札がただの木片みたいに軽い。
「……なぜ、言うことを聞かないの……!」
声が漏れた。闇に吸われて、返ってこない。
「私は……あなたのために——」
言い終える前に、空気が冷えた。
答える相手がいない言葉は、こんなにも惨めなのか。
私は扉に額を寄せた。
石の冷たさが、頭の熱を奪っていく。
すると不意に、思い出が刺さる。
凛が扉の内側で、同じように壁に寄りかかっていた姿。
私が近づくと、彼女は反射で背筋を伸ばした。
私が「聖女様は泣いてはなりません」と言えば、涙を引っ込めた。
引っ込められない時は、謝った。
謝るほど、私の言葉は強くなった。
強くなって、何を守った。
誰を守った。
——違う。
私は守った。守ったから、ここまで来た。
私が間違っているなら、私は何だった。
背後で、紙が擦れる音がした。
振り向くと、廊下の端に誰かが立っている。
侍女か。神官か。
暗くて顔が見えない。
だが手元の白い封筒だけが、やけに目立つ。
大神官の封蝋だ。
その人物は、こちらへ歩き出す。
封筒を差し出す距離が、どんどん縮まる。
私は息を止めた。
私の名がそこに書かれているのか、いないのか。
次の一行で、私の役目が、終わるのか。
封筒が、指先に触れた。
冷たい蝋の感触が、告げている。
——まだ、終わっていない。
終わっていないのに、もう戻れない。
——次話「不器用な告白」――二人の距離が、もう一段近づく。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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