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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第15話: あの人たちも私だった

 ——レオンが見つけた歴代聖女の日記を凛が読む。



 レオンが、重い表情をしていた。


 灯りの下で見るその顔は、いつもより影が濃い。

 まるで、言葉にした瞬間に崩れてしまうものを、唇の裏で支えているみたいだった。


 「……これだ」


 机の上に置かれたのは、布で巻かれた束。

 ひもの結び目が、指の跡を残して固く締まっている。


 紙の匂いがした。

 乾いたほこりと、少しだけ鉄の匂い。

 古い本の匂いじゃない。

 誰かの息が何度も染みた匂いだ。


 私は、その束を両手で受け取った。

 思ったより重い。

 紙の重さじゃない。

 積み重ねられた「黙っていた時間」の重さだ。


 「……日記、ですよね」


 そう言った自分の声が、やけに遠い。


 レオンは頷くだけで、何も言わなかった。

 ただ、私から視線を逸らさない。

 逃げ道を塞ぐためじゃなくて。

 落ちていく私を、見失わないために。




 結び目をほどく指が、少し震えた。


 「怖い?」と聞かれたら、違うと言いたかった。

 でも怖いのは、日記の中身じゃない。

 そこに書かれた“私”が、私を見返してくることだ。


 布をめくる。

 何冊もある。

 革の背表紙、布張り、木の板。

 焼け焦げた角、濡れて波打った紙、端が欠けたページ。


 私は一番上の、小さな冊子を手に取った。


 表紙に名前はない。

 でも、触れた瞬間にわかる。

 誰かが、これを握りしめて眠っていた。

 胸の上に置いて、祈りみたいに。


 息を吸う。

 紙が擦れる音が、夜に響いた。


 最初のページを、めくる。




 字が、古い。

 けれど読みづらくはない。

 丁寧で、静かな筆跡だった。


 『本日も祈りを捧げました。皆様が無事でありますように』


 その下に、小さく添えられている。


 『私は大丈夫です』


 ……胸が、きゅ、と縮んだ。


 次の冊子。

 今度は荒い字。

 墨が跳ねて、行が曲がっている。

 息を切らしながら書いたみたいに。


 『熱が下がらない子がいる。今夜も持ちこたえさせる』

 『私なら平気です』


 別の一冊は、女の子の字に見えた。

 丸くて、可愛い。

 けれど、内容が可愛くない。


 『兵が門の外に倒れていた。治癒ちゆを使った』

 『これで誰かが救われるなら』


 違う時代。

 違う言葉遣い。

 違う暮らしの匂い。


 なのに、最後に置かれる言葉だけが、同じ形で並ぶ。


 大丈夫です。

 私なら平気です。

 これで誰かが救われるなら。


 ページをめくるたび、私は何度も同じ場所に戻される。

 大神殿だいしんでんの白い廊下。

 祈りの間。

 「聖女は笑っていなさい」と言われた日。

 私が、笑った日。


 大丈夫です、と言って。




 紙は、正直だった。


 “正直”なのに、そこには嘘が書かれていた。

 自分を守る嘘じゃない。

 他人を安心させるための嘘。

 自分の痛みを、見えない場所へ追いやる嘘。


 ある日記には、震える線で書かれていた。


 『指先がしびれて、はしを落とした』

 『それでも私は大丈夫です』


 別のページには、墨が滲んでいる。

 涙か、雨か、血か。


 『眠ると、声がする』

 『私なら平気です』


 もっと古い日記は、文字が少なかった。

 一行ずつ。

 息をするみたいに。


 『今日も誰かが救われた』

 『だから私は大丈夫』


 ……違う。

 大丈夫じゃない。

 その行間が、叫んでいる。


 私は、胸の奥の何かが、ひび割れていく音を聞いた。


 「私と同じ……」


 声が、勝手に漏れた。


 私が口癖みたいに言ってきた言葉。

 誰かに求められた瞬間、すぐに差し出した言葉。

 差し出せば褒められて、差し出さなければ困らせる言葉。


 その言葉で、彼女たちは生きてきた。

 その言葉で、彼女たちは消えていった。




 手が震えて、ページの角をうまく掴めない。


 文字が、滲んでいく。

 目が悪くなったわけじゃない。

 涙が、勝手にあふれてくる。


 おかしい。

 私は、自分のことではあまり泣けない。

 「つらい」と言えない代わりに、「大丈夫」と言ってきた。

 泣きたいときほど笑ってきた。


 なのに。


 この日記の中の彼女たちの「大丈夫」は、胸の底に刺さった。

 私の身体に刺さったんじゃない。

 私の“見ないふり”に刺さった。


 さらにページを繰ると、季節の名前が変わっていく。

 雪の記述の次は、砂嵐すなあらし

 次は、海の塩。

 次は、焦げた麦の匂い。


 『祈りの光が弱い。夜が長い。怖い』

 『それでも大丈夫です』


 『腕が上がらない。治癒ちゆのあと、息が白い』

 『私なら平気です』


 『笑うと、唇が裂ける』

 『これで誰かが救われるなら』


 ——どれも、助けを求める言葉のすぐ隣に、蓋をする言葉が置かれている。

 蓋をして、鍵をかけて、笑って、祈って。

 そうして“聖女”が出来上がっていく。


 私はその仕組みの中で、何度も「大丈夫」を磨いた。

 角を丸めて、血が見えないように布で包んで。

 渡しやすい形にして、誰かの手のひらへ置いた。


 あの人たちは、きっと、私より上手に嘘をついた。

 私より長く、嘘で誰かを守った。

 私より静かに、嘘で自分を壊した。


 それが、誇らしいなんて思えない。

 誇りなんかじゃない。

 それは、ただの——孤独だ。


 「……ごめんなさい」


 小さく言っても、紙は返事をしない。

 返事をしないことが、いちばん苦しい。


 「ごめんなさい……気づいてあげられなくて……」


 声が崩れた。

 息がつかえて、喉が痛い。


 私は日記を抱きしめた。

 紙が折れるのも構わずに。

 抱きしめたところで、彼女たちは戻らないのに。

 でも、手放したら、二度と触れられない気がした。


 泣き崩れた。

 床に落ちた涙が、古い紙の匂いと混ざって、胸をえぐる。


 「私……ずっと、自分だけが……って思ってた」


 苦しいのは私だけだと。

 つらいのは私だけだと。

 だから、誰にも言えないのだと。


 違った。

 私の前に、何十人、何百人もの“私”がいた。

 同じ役目、同じ言葉、同じ沈黙。

 それを、私は知らないまま、同じ道を踏んでいた。




 音がした。

 椅子が引かれる音。


 レオンが、私の隣に座った。

 何も言わない。

 肩に手を置くこともしない。

 ただ、そこにいる。


 その沈黙が、冷たくない。

 壁じゃない。

 床だ。

 崩れた私を受け止める、動かない床。


 私は泣きながら、日記の束を見た。

 束の端から、一枚だけ紙片が覗いている。

 誰かが挟んだ、しおり代わりの紙だ。


 引き抜くと、短い文字が書かれていた。

 震える字で。

 でも、最後だけは整っている。


 『いつか、誰かが嘘をやめてくれますように』


 私は息を止めた。


 この人は、知っていた。

 自分の「大丈夫」が嘘だって。

 嘘をつき続けることが、祈りじゃなくて、呪いになるって。


 そのうえで、誰かに託した。

 未来に。

 知らない誰かに。


 ……私に。


 涙が、また落ちた。

 自分のためじゃない。

 彼女たちのために、落ちた。




 「凛」


 レオンが、ようやく名前だけを呼んだ。

 それだけで、胸の奥の糸が切れたみたいに、私は息を吐いた。


 私は袖で目元を拭う。

 拭っても、止まらない。


 「レオン……私、嫌なんです」


 声がかすれる。

 それでも、言葉は止めない。

 止めたら、また“いつもの嘘”に戻る。


 「私が……私だけが耐えて、誰かが救われるならって」

 「そうやって……自分を消して」

 「それを、美談びだんみたいにされるのが」


 日記の束に、指をかける。

 紙の角が、少し痛い。

 その痛みが、今はありがたい。


 「この人たち、みんな……私だった」


 私の過去じゃない。

 私の未来でもない。

 私の“構造”だ。

 役目を与えられて、言葉を選べなくなっていく構造。

 優しさが、逃げ道を塞いでいく構造。


 私は、膝の上でこぶしを握った。

 震えが、指先に残っている。


 「だから……もう、終わりにします」


 レオンは何も言わない。

 でも、隣で呼吸をしている。

 私の言葉が、空中で消えないように、重しみたいに。


 私は顔を上げた。


 「この人たちのためにも……もう、『大丈夫』の嘘は終わりにする」


 声はまだ泣き声だった。

 でも、嘘じゃなかった。



 ——次話「命を削らない方法」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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