第13話: 居場所
——村の祭りの夜。
火の輪の中に、私の名前が落ちてきた。
「凛ちゃん、こっち!」
逃げるはずの足が、今夜は——笑い声のほうへ引っ張られる。
あの夜の足音は、ミラの熱が下がったと聞きつけた村の女たちだった。
鍋を抱えた隣家のおばさんと、毛布を持ったハンスさん。
レオンが張り詰めた肩を降ろすのを見て、私はやっと、息を吐けた。
それから何日かが過ぎて——
リンデン村の冬至祭は、夕暮れの匂いから始まった。
畑の土の湿り気が、昼のあたたかさを少しだけ残していて。
そこへ、焼いた麦と甘い果実酒の香りが混ざる。
薪の煙が髪に絡んで、頬の冷たさがほどけていく。
広場の真ん中には、大きな篝火。
炎が揺れるたび、村人たちの影が踊った。
太鼓の音が、心臓のリズムと重なる。
笛の高い音が、空の青を夜へ塗り替える。
笑い声が、あちこちで弾けて、足元の土まで柔らかくなる。
私は広場の端に立って、外套の襟を指でつまんだ。
熱に近づきすぎたら、焦げてしまう気がして。
でも離れすぎたら、今度は、また凍えてしまう気がして。
「凛ちゃん、寒くないかい?」
エルザさんが、籠から丸いパンを取り出しながら言った。
焼きたての表面が、火の光でつやつやしている。
「だ、大丈夫です。……あ、いえ。ありがとうございます」
いつもの言葉が喉まで来て、少しだけ形を変えて落ちた。
それだけで胸が騒いで、私は自分の手を見つめる。
手の甲が、いつもより白くない。
この村に来てから、血の色が少し戻ってきたのだと思った。
「無理して端っこで固まってなくていいんだよ」
そう言って、エルザさんは私の肩をぽん、と叩く。
叩く力は弱いのに、言葉は強い。
“許可”じゃない。
“命令”でもない。
ただ、当たり前みたいに、私を輪の中へ戻そうとする手だ。
私は口を開いた。
「でも——」と言いかけて、声が消える。
理由を探す癖が、まだ残っている。
すると。
背中のほうから、子どもの手が二つ、三つ。
私の袖を掴んだ。
「凛ちゃん、踊ろう!」
「ねえ、凛ちゃんも!」
子どもたちの目は、篝火みたいにまっすぐで。
断り方を知らない目をしていた。
「え……わ、私……」
足がすくむ。
祭りの輪に入ることなんて、大神殿では一度もなかった。
聖女は“見られる側”で、“混ざる側”じゃない。
混ざってしまったら、汚れる。
汚れたら、役に立たなくなる。
そう教え込まれた。
でも、掴まれた袖は、優しかった。
引く力が、強引じゃない。
「おいで」と言っているだけ。
私が迷っている間にも、太鼓の音は止まらない。
笛の音も止まらない。
世界は私の許可を待たないのに、置いていかない。
「凛ちゃん、楽しんでおいで」
エルザさんが、笑う。
その笑い方は、私の“頑張り”に褒美をくれる笑いじゃない。
ただ、今夜の火を一緒に見るための笑いだ。
——楽しむ。
その言葉が、怖い。
でも、少しだけ、羨ましい。
私は小さく息を吸って、頷いた。
頷き方が、自分でも驚くほど遅かった。
「……少しだけ。少しだけ、なら」
その途端、子どもたちが「やった!」と叫んで、私の手を引いた。
熱の輪の中へ。
笑い声の渦の中へ。
輪の中は、思っていたより足元が安定していた。
誰かの肩がぶつかる。
誰かの掌が一瞬触れる。
でも、それは押しのける触れ方じゃなくて、支える触れ方だ。
「こう、こう!」
子どもが真似をして見せる。
右、左、くるり。
周りの大人たちが笑って、同じ動きを繰り返した。
私は動きを覚えるのが遅い。
でも遅いからといって、誰もため息をつかない。
誰も「迷惑」と言わない。
「凛ちゃん、上手上手」
上手じゃない。
ただ、間違えただけ。
なのに、その言葉は嘘じゃなくて。
“今ここにいる私”を、丸ごと肯定してしまう。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
笑っていいのか分からなくて、唇の形が迷子になる。
それでも。
太鼓の音に背中を押されて。
火の光に頬を撫でられて。
私は、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑った。
大神殿では一度もできなかった笑い方で。
「——」
輪の外。
火の光が届くぎりぎりの場所に、黒い影があった。
レオン。
腕を組んで、いつもの無表情で立っている。
でも、私が見た瞬間。
ほんのわずかに、目が細くなった気がした。
——気のせいじゃない。
彼の口元が、ほんの少しだけ緩んで。
それを誤魔化すみたいに、視線が空へ逸れていく。
胸の奥で、何かがふわりとほどけた。
私はもう一度、笑ってしまう。
笑ったせいで、目の奥が熱くなって。
慌てて瞬きをして、涙を落とさないようにした。
“ここで泣いたら、台無しだ”
そう思ったのに。
その思い方が、どこか懐かしくて、可笑しくて。
私は笑いながら、ちゃんと息を吐いた。
許可を取らずに。
怒られる心配をせずに。
祭りがひと段落すると、輪は自然にほどけていった。
皆がそれぞれに、肉の串を手にしたり、酒杯を回したり、子どもを膝に乗せたりする。
篝火の前は、座れる場所が増える。
木の丸太が並べられて、そこに人が腰を下ろす。
私は熱のそばに座るのが怖くて、少し離れた丸太を選んだ。
すると、隣の影が静かに落ちる。
レオンが、何も言わずに腰を下ろした。
近い。
近いのに、息が苦しくならない距離。
彼の外套の端が、私の袖に触れた。
その触れ方も、さっきの輪と同じ——支える触れ方だった。
レオンは、串を一本、私のほうへ差し出した。
焼いた芋に、塩がきらきらしている。
「……食え」
たった二音の命令形なのに、怖くない。
むしろ、頼られているみたいで、胸が少しだけ軽くなる。
「……いただきます」
私は受け取って、一口。
熱い。甘い。
土の味がするのに、幸せの味がする。
「……踊ってたな」
ぽつり、とレオンが言った。
褒めているのか、確認しているのか分からない声。
私は口の中の芋を飲み込んで、頷く。
「はい。……手を引かれて、気づいたら」
気づいたら笑っていて。
気づいたら、名前を呼ばれていて。
言葉にすると壊れそうで、私は視線を炎へ逃がした。
炎は、空へ伸びながら、何度も形を変える。
形を変えても、火であることは変わらない。
私は、何にでもなってきた。
聖女。
道具。
国の宝。
役に立つ人形。
でも、今夜の私は。
ただ、凛ちゃん、と呼ばれている。
その事実が、胸の奥を静かに満たしていく。
満たされるのが怖いのに、離したくない。
私は息を吸って、言葉を探した。
いつもの台詞じゃない言葉。
謝罪でも、報告でも、祈りでもない言葉。
「……レオンさん」
呼びかけると、レオンの視線が一瞬だけこちらへ向く。
炎の光が、その灰青の瞳に揺れた。
私の喉がきゅっと鳴る。
言っていいのか分からない。
言ったら、また奪われる気がする。
でも、言わなかったら、私の中に閉じ込めたままだ。
「……ここにいてもいいんでしょうか」
声が震えた。
自分で自分が情けなくなるくらい、小さな声。
レオンはすぐには答えなかった。
一度、炎を見つめる。
それから、まるで決めていたみたいに、短く言った。
「ここが、あんたの場所だ」
胸の奥の、固いところが音を立てて割れた。
“場所”。
役割じゃない。
檻じゃない。
戻らなきゃいけない場所じゃない。
居ていい、と言われた場所。
私は息を呑んで、視界が滲むのを感じた。
でも今夜は、無理に止めなかった。
落ちてもいい。
落ちても、誰も怒らない。
誰も「迷惑」と言わない。
「……ありがとう、ございます」
言った瞬間、私は自分の言葉が少し遠い気がして。
首を振った。
違う。
今の私は、もっと短い言葉でいい。
「……ありがとう。レオン」
“さん”が落ちた。
落ちたのに、怖くない。
むしろ、胸の奥にすとん、と収まる。
レオンの肩が、ほんのわずかに揺れた。
驚いたのか、照れたのか。
彼はいつものように視線を逸らして、短く息を吐いた。
「……ああ」
それだけ。
それだけで、十分だった。
篝火がぱちり、と音を立てて弾ける。
火の粉が星みたいに舞って、夜空へ消えた。
私は炎を見ながら、心の中でそっと呟く。
——帰る場所が、できた。
宴が終わる頃、広場は静かに片づけの音に変わっていった。
子どもたちは眠そうに瞼を擦り、大人たちは笑いながら残った串を分け合う。
エルザさんは「ほら凛ちゃん、冷えるよ」と私の肩に毛布をかけてくれて、何も言わずにレオンのほうを見た。
レオンは咳払いをひとつして、私の歩幅に合わせて歩き出す。
その歩幅が、今夜は少しだけ、ゆっくりだった。
家の前まで来たとき、レオンが立ち止まる。
「……明日」
その一言だけで、胸がざわついた。
“明日”は、今まで何度も私を縛った言葉だ。
明日も治癒。
明日も祈り。
明日も、頑張る。
でも今、レオンの声は違う。
「……見せたいもんがある」
言い終えた瞬間、彼はまた視線を逸らした。
照れたみたいに、言葉が途切れる。
私は毛布の端を握って、頷く。
「……はい。楽しみに、しています」
言ってから気づく。
“楽しみ”なんて言葉を、自分が使えるなんて。
レオンは何も答えず、ただ踵を返した。
闇へ溶けていく背中に、祭りの火の匂いがまだ残っている。
私は戸を閉める前に、もう一度だけ夜空を見上げた。
煙の向こう、星がたくさん瞬いている。
その下で、私は今夜、ちゃんとここにいた。
そして明日——レオンが見せたいと言った“何か”が、私の知らない扉を開ける気がした。
——次話「歴代聖女の日記」――隠してきた真実が、扉を開く。
拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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