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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第11話: 庭の小さな花壇

 ——凛が初めて自分のやりたいことを見つける。



 頼まれてもいないのに、私の手は土を掘っていた。


 それが、怖いはずなのに……胸の奥が、くすぐったい。


 庭の隅で見つけた薬草やくそうの匂いが、私を呼んだのだ。


 エルザさんの家の裏庭は、思っていたより広かった。

 雑草交じりの地面に踏み固められた小道、低い果樹が何本か。奥で小川が細く流れる音がして、風が枝を揺らした。


 私は、いつものように歩幅を小さくして、庭の端へ端へと逃げるみたいに歩いていた。

 誰かに見つかったら、何か言われるかもしれない。

 そうしたら、私はきっと「はい」と答えてしまうから。


 けれど、今日は違った。

 違うと気づいたのは、足が止まったときだ。


 低いかきの向こうに、整然と並んだ緑がある。

 野菜でも花でもない、少し尖った葉、丸い葉、銀色がかった葉。

 そして、土の匂いに混じって——私の記憶が、ひり、と疼いた。


 「……カモミール……?」


 口から出た言葉に、私自身が驚く。

 前の人生で、夜勤の休憩室に置いてあったティーバッグ。眠れない患者さんの枕元に、こっそり置いた香り。あの、甘くて草っぽい匂い。


 私は垣を回り、薬草畑の中へ足を踏み入れた。

 許可を取る声が、喉の奥で形になりかけて——消えた。

 誰も、いない。

 誰も、私に「そこは入るな」と言わない。


 しゃがむと、土の色が濃い。

 冬を越えた株がいくつもあって、その間に小さな芽が顔を出している。


 指先が勝手に動く。

 葉に触れて、茎を確かめて、匂いを嗅ぐ。


 これは、ラベンダーに似ている。鎮静、安眠……。

 これは、カレンデュラ。傷の手当、軟膏なんこう……。

 これは、ミント。胃の不快感、吐き気……。


 知っている。

 覚えている。

 私は、ずっと他人の痛みのために覚えた。

 でも——今、胸の奥で跳ねるのは「役に立てる」じゃない。


 ただ、懐かしい。

 そして、嬉しい。


 薬草畑の端に、空いた場所があった。

 土だけが広がって、何も植わっていない。

 そこを見た瞬間、頭の中にひとつの形が浮かぶ。


 円。

 小さな円を作って、真ん中に背の低い花を植える。

 周りを薬草で囲って、香りで守るみたいに。


 私の両手が、もう土を掘りはじめていた。

 スコップなんてなくてもいい。指で、爪で、土を崩す。

 石が出てくれば避けて、固いところは少し湿らせる。


 息が白い。

 でも、頬が熱い。


 私は、何をしているのだろう。

 誰にも頼まれていない。

 命令も、祈願も、治癒ちゆの依頼もない。


 それなのに——止められない。




 土を整えていると、背後で足音がした。

 重いのに静かな歩幅。土を踏んでも、音が暴れない。


 振り返らなくても分かる。

 レオンだ。


 私は、反射で立ち上がりかけて、膝を押さえて止まった。

 立ち上がったら、きっと言ってしまうから。

 「すみません、勝手に……」と。

 そして、やめてしまう。


 レオンは私の横に来て、何も言わずにしゃがんだ。

 視線は、私が掘りかけた土の輪に落ちている。

 眉がほんの少し動いた。怒っているのか、分からない。


 「……何をしてる」


 短い問い。

 責める音ではなかった。ただ、確認するみたいな低さ。


 私は土のついた指先を握りしめて、言葉を探す。

 説明をしようとすると、いつもの癖が首を出す。

 役に立つ理由。許される理由。褒められる理由。


 でも、今の私は——


 「……花壇かだん、作りたくて」


 声が、少しだけ震えた。

 “作っていいですか”ではない。

 “作りたい”だ。

 自分の口から出たその形に、胸がきゅっと縮む。


 レオンは一度、瞬きをした。

 それから、手袋を外して、土の中の石を拾い始めた。

 大きいものだけ、無言で。

 拾っては脇へ置く。拾っては置く。

 私の輪が崩れないように、指の先がすごく丁寧だった。


 私は、それが不思議で、怖くて、でも嬉しくて。

 喉の奥が熱くなった。


 「……薬草の……匂いが」


 言いかけて、言葉が詰まる。

 “前の人生で”という一言が、いつも私の中でひっかかる。

 ここでそれを言っていいのか、分からない。


 レオンは、石をひとつ置きながら言った。


 「分かる。……落ち着く匂いだ」


 それだけ。

 理解したふりじゃない。

 私の言葉を急がせない、待ち方。


 私は息を吐いて、続けた。


 「……これ、カモミールに似てる。眠れないとき……助けになる」

 「こっちは、傷の……」


 言いながら、自分が“教える”側に立っていることに気づく。

 教えろと言われたわけでもないのに。

 役割じゃないのに。


 私は、薬草の苗をそっと掘り起こして、空いた場所の外側へ移した。

 根が細い。切らないように、土ごと抱える。


 レオンが、私の指先の動きを見ている。

 何かを盗むみたいに見るのではなく、ただ、目を離さない。


 その視線が、背中をあたためた。


 私は小さな花の苗を探して、畑の隅に生えていた白い花を選んだ。

 名前は知らない。

 でも、花びらが薄くて、光を抱くみたいだった。


 輪の中心に、穴を掘る。

 土の中は少し冷たくて、湿っていて、生きている。


 苗を置き、土を寄せる。

 手のひらで、そっと押さえる。


 その瞬間、治癒ちゆ魔法まほうが、指先に集まった。

 いつもなら、誰かの傷口に向けて流れる光。

 今は、根に向かって、あたたかく染みていく。


 ——違う。

 これは、命令じゃない。

 誰かを救うためじゃない。

 私が、この苗をここに根づかせたいから。


 光は淡く、すぐ消えた。

 それで十分だと、なぜか思えた。


 レオンが、ふ、と息を吐く音がした。

 笑ったのかもしれない。声にはならないくらいの。


 「……上手いな」


 褒められた、というより。

 私の手の動きが、ここにあっていいと言われた気がした。


 私は、土を払う。

 手は汚れている。爪の間に黒い線が入っている。

 神殿なら、すぐ叱られた。

 “聖女様の手が汚れる”と。


 でも今、汚れが誇らしい。

 自分がここに触れた証拠みたいで。


 「……楽しい」


 言ってから、慌てて口を押さえそうになる。

 楽しいなんて、口にしていいの?

 そんな言葉、私は持っていなかったはずなのに。


 レオンは石を片づける手を止めないまま、低く言った。


 「それでいい」


 その四文字が、胸の奥の固いところを、静かにほどいた。


 私は、もう一度、花壇を見た。

 小さな円。中心の白。周りの緑。香りの壁。

 まだ整っていない。雑で、いびつで、土もこぼれている。


 でも——

 私が作った。

 頼まれたわけじゃないのに。


 「これ、頼まれたわけじゃないのに……楽しい」


 今度は、ちゃんと声に出した。

 言葉が風にさらわれていく。

 消えるのに、怖くない。


 レオンが、拾った石を最後にひとつ置き、立ち上がった。

 そして、自分の水筒を差し出してきた。


 「飲め。……手、冷えてる」


 私が受け取ろうとすると、レオンは視線を逸らしたまま、ほんの少しだけ距離を詰めた。

 指が触れないぎりぎり。

 触れたら何かが変わると分かっていて、変えないようにする、ぎりぎり。


 水筒はあたたかかった。

 喉を通る白湯さゆが、身体の内側に灯をつける。


 私は返そうとして、気づく。

 レオンの手袋が、私の横に置かれている。

 外したまま、土で汚れてもいいと言っているみたいに。


 私は小さく首を振った。

 自分に言い聞かせるみたいに。


 大丈夫。

 汚れても、いい。

 楽しくても、いい。


 花壇を仕上げる間、私たちはほとんど話さなかった。

 でも沈黙ちんもくは、大神殿だいしんでんのそれと違う。

 縛る沈黙じゃない。

 隣に置かれている沈黙だ。


 土をならす音。

 葉を揺らす風。

 水をくときの、ぽとり、という音。

 その全部が、私の心臓のリズムと重なっていく。


 いつの間にか、空の色が変わっていた。


 夕暮れ。

 金色が庭の端からにじんで、影が長く伸びる。

 花壇の中心の白い花が、最後の光を受けて、薄く透けた。


 私は、立ち上がって、膝についた土を払う。

 腕が少し疲れている。でも、それが嬉しい。

 生きている疲れだ。


 レオンが、私の少し後ろに立つ。

 同じ花壇を見ているはずなのに、視線が肩に触れる気配がした。

 振り向けば、目が合うかもしれない。

 合ったら——何かが始まってしまう気がして、私は正面を向いたまま息を飲んだ。


 「……明日も」


 レオンの声が、夕焼けの中で低く響いた。

 続きがあるはずなのに、そこで一度途切れる。

 言葉を探している沈黙。


 私は花壇の土の輪を見つめながら、指先でそっと自分のてのひらを握った。

 ここに根を張るのは、花だけじゃない。

 私も——きっと。


 「……うん」


 短く返事をした瞬間、レオンの肩がわずかに緩むのが分かった。


 夕日が沈む。

 私たちの影が、同じ方向へ長く伸びて、花壇の縁で重なった。


 レオンが、何か言いかける気配がした。

 私の名前を呼ぶのか、それとも——。


 その一音が落ちる前に、風が花の匂いを運び、私は胸の奥が甘く痛くなるのを感じた。



 ——次話「あの子を思い出す」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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