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「もう頑張らなくていい」と言われた聖女は、初めて自分のために泣きました  作者: 歩人


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第1話: 聖女の限界

 ——「代わりの聖女は?」倒れた私に向けられたのは、心配じゃなかった。



 視界が、白く滲む。


 治癒の光が私の手のひらから溢れ出して、倒れていた子どもの傷を塞いでいく。骨が、筋肉が、皮膚が——繋がっていく感覚が、まるで自分の身体が削られていくように伝わってくる。息が、できない。でも、大丈夫。まだ動ける。まだ——


 ——柊木ひいらぎさんなら、やってくれますよね?


 ああ、また聞こえた。あの声が。




 大神殿の広間は、血と消毒液の匂いで満ちていた。


 昨夜、王都ルミエールの商業区で暴走した魔獣まじゅうが暴れ、三十人以上の重傷者が出た。朝から休みなく治癒を続けて——もう何人目だっけ。数えるのをやめてから、どれくらい経っただろう。


「聖女様、次の患者を」


 侍女長マティルダの声が、遠くから聞こえる。まるで水の中にいるみたいだ。私は頷いて——頷いたつもりで——次の担架へと向かう。足元がふらつく。大丈夫、まだ立てる。立てるから、大丈夫。


 翡翠色ひすいいろの光が私の手から溢れ、傷ついた身体を包む。温かい光。でも、私の身体はどんどん冷えていく。生命力が、削られていく。


 ああ、前と同じだ。




 ——柊木さん、今日も夜勤お願いできる? 鈴木さんが急に休んじゃって。


 ——柊木さんって本当に頼りになるよね。いつもありがとう。


 ——あれ、柊木さん、今日も休憩取ってないの? 大丈夫?


 大丈夫です。


 大丈夫ですから。


 私はまだ、動けますから——




「聖女様!」


 マティルダの叫び声で、意識が引き戻される。


 気づけば私は膝をついていた。白い大理石の床が、目の前にある。いつの間に倒れたんだろう。身体が、言うことを聞かない。


「……大丈夫、です」


 口が勝手に動く。この言葉だけは、どんなに辛くても出てくる。前世で何千回も言った言葉。今世でも、何千回も——


「リーネ様、もう限界でございます。お休みに——」


「大丈夫です。まだ、動けますから」


 手を床についた。立ち上がろうとする。でも、腕が震えて力が入らない。視界が、また白く滲んでいく。


 ああ、駄目だ。


 身体が、もう——


「聖女様が倒れた! 誰か!」


「大神官様をお呼びしろ!」


 騒ぎ声が遠くなる。私の意識は、薄れていく。


 そして——聞こえた。


「……代わりの聖女は、いないのか?」


「リーネ様が倒れたら、治癒はどうなる」


「まだ患者が残っているんだぞ」


 誰も、私の心配はしていない。


 誰も、私の名前を呼ばない。


 彼らにとって私は「聖女」という機能であって、「柊木ひいらぎりん」という人間じゃない——


 ああ、やっぱり前と同じだ。




 前世の記憶が、走馬灯のように流れる。


 小児科の白い廊下。子どもたちの笑い声。夜勤明けの、眩しすぎる朝日。


 ——柊木さんならやってくれる。


 ——柊木さんは頑張り屋さんだから。


 ——柊木さん、ありがとう。


 ありがとう、ありがとうって、みんな言ってくれた。


 だから私は、嬉しくて。必要とされることが嬉しくて。休むことができなくなって——


 そして、二十七歳の冬。夜勤明けの朝。私は病院の廊下で倒れた。


 最期に聞こえたのは、同僚の慌てた声。


 ——柊木さん! 大丈夫!?


 大丈夫です、と答えようとした。でも、もう声が出なかった。


 ああ、また。


 また私は、「大丈夫」って嘘をつこうとしていた——




「……おい」


 低い声が、耳元で聞こえた。


 誰?


 意識が薄れかけていた私を、その声が引き戻す。


「死ぬな」


 短い、でも強い声。


 次の瞬間、私の身体が宙に浮いた。誰かが、私を抱き上げたんだ。硬い胸板。黒い騎士服。見上げると、前髪の隙間から灰青色はいあおいろの瞳が覗いていた。左頬から顎にかけて走る古い刀傷——


 ——レオンさん?


 私の護衛騎士。百八十五の長身に鍛え上げられた体躯、装飾のない実戦仕様の黒い騎士服。感情の読めない目。無口で、表情が乏しくて、いつも少し離れたところから私を見守っている人。今まで一度も、必要以上に近づいてこなかった人。


「レオン、何をする」


 マティルダの声。


「連れて行く」


「聖女様はまだ治癒の途中です。患者が——」


「知るか」


 レオンの声に、初めて感情が混じった。怒り——いや、違う。もっと深い、何か。


「こいつは、もう限界だ」


「ですが——」


「退け」


 硬い声。マティルダが息を呑む気配がした。


 レオンが歩き出す。私を抱えたまま。広間の出口へ向かって。


「待て、護衛騎士! 聖女様を勝手に——」


「うるせえ」


 レオンの腕の中で、私の意識はまた薄れかけていた。でも、不思議と安心する。温かい。


 前世でも、今世でも——こんなふうに誰かに守られたことなんて、なかった。


「……どこ、へ」


 か細い声で尋ねた。レオンは答えない。ただ、私を抱く腕に少しだけ力を込める。


 そして——


「……こんな場所に、いる必要はない」


 そう、呟いた。




 大神殿の廊下を、レオンは私を抱えたまま歩いていく。


 すれ違う神官たちが驚いた顔でこちらを見る。でも、レオンは誰にも止まらない。まっすぐに、出口へ向かって。


「レオン……殿が、怒り……ます」


 王太子セドリック。私の——形式上の、婚約者。彼は私を「国の宝」と呼ぶけれど、本当に大切にしてくれているわけじゃない。政治の道具。それが私の立場だ。


「構わん」


 短い返事。レオンの足は止まらない。


「……大神官様も……」


「あいつもだ」


 大神官ヴェルナー。私を「神に選ばれた特別な存在」と言い続けた人。でもその笑顔の奥に、何があるのか——私にはわからない。わかりたくもない。


「リーネ」


 え?


 レオンが、初めて私の名前を呼んだ。聖女名の「リーネ」だけど——それでも、初めてだ。いつも「聖女様」としか呼ばれなかったから。


「……はい」


「もう大丈夫って、嘘つくな」


 胸が、ぎゅっと締め付けられた。


 嘘? 私が?


 ——いや、わかってる。わかってるんだ。


 「大丈夫です」は、嘘だ。


 本当は大丈夫じゃない。辛くて、苦しくて、もう限界で——でも、それを言えない。言ったら、必要とされなくなる。捨てられる。だから、嘘をつく。


 ——大丈夫です。


 ——まだ動けます。


 ——私にできることがあるなら、何でもします。


 全部、嘘だ。


 本当は——


 ——助けて。


 そう言いたかった。前世でも、今世でも。


 でも、言えなかった。一度も。


「……ごめん、なさい」


 涙が、零れた。止まらない。レオンの騎士服が、私の涙で濡れていく。


「謝るな」


 レオンの声が、少しだけ柔らかくなった。


「あんたは、何も悪くない」


 ——え?


「悪いのは……こんな使い方をしてきた、俺たちだ」


 レオンの腕が、私をもう一度抱き直す。今度は、もっと優しく。

 さっきまでと力の入れ方が違う。"運ぶ"腕じゃない。鎧越しなのに、温かかった。


「もう少しだけ、我慢しろ」


 どこへ行くつもりなんだろう。


 でも、もういい。


 どこでもいい。


 このまま、ここから——




「待て! レオン・アッシュフォード!」


 背後から、威厳のある声が響いた。


 大神官ヴェルナーだ。


 レオンの足が止まる。でも、私を降ろそうとはしない。


「聖女様を、どこへ連れて行くつもりか」


「……」


 レオンは答えない。ただ、ヴェルナーを振り返りもせずに立ち尽くしている。


「聖女様はまだ治癒の任務の途中だ。民が苦しんでいる。それを見捨てるというのか」


「見捨ててるのは、あんたたちだろ」


 レオンの声に、鋭い刃が混じった。


「こいつの命を、何だと思ってる」


「聖女様の犠牲は、神の——」


「黙れ」


 レオンの声が、大神殿の廊下に響いた。


 ヴェルナーが、息を呑む。


「これ以上、この聖女を使い潰すってんなら——俺が、あんたたち全員を敵に回す」


 静寂。


 神殿中が、固まったように静まり返った。


 レオンは、私を抱えたまま、再び歩き出す。今度は誰も止めない。止められない。


 回廊を曲がり、また曲がる。祈りの間から遠ざかるたびに、血と消毒液の匂いが薄くなる。


 レオンは大扉のほうへは向かわなかった。

 脇廊下を抜けて、使われていない控えの間に滑り込む。


 扉が閉まる。

 静かだった。


 硬い長椅子の上に、そっと降ろされる。外套が掛けられた。

 レオンの体温が離れて、急に寒くなる。


「……どこ、へ」


「夜になったら動く」


 短い声。でも、迷いはなかった。


 もう、戻れないかもしれない。


 いや——戻りたくない。


「……ありがとう、ございます」


 小さく呟いた。レオンには聞こえなかったかもしれない。


 でも、壁にもたれて腕を組んだレオンの横顔が、ほんの少しだけ緩んだ——気がした。


 意識が、遠のいていく。


 でも今度は、怖くない。


 レオンの気配が、すぐそばにある。

 それだけで——


 ——少しだけ、楽になった気がした。



 ——次話「使い潰される花」――次の一手が、運命を動かす。

拙い文章ですが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

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