第1章 捺鬼覚醒
2025年12月20日。冬の夜が、新東京区を静かに包み込んでいた。現実の秋葉原は、クリスマス前の喧騒に満ち、ネオンと電飾が冷たい空気を彩る街。仮想の「新東京区」——世界最大のVRMMO『Parallel Frontier』内の再現東京は、常時8000万人のアバターが息づく、決して眠らない超巨大都市だった。その夜、均衡が砕け散った。秋葉原エリア、高層ビルの屋上。小さな影が、街を見下ろしていた。身長141cm。淡い桜色の着物に黒の帯、腰に二本の日本刀を差した少女アバター。長い黒髪が夜風に揺れ、着物の裾に散る桜の刺繍がネオンの光を浴びて妖しく輝く。腰の左側には、血のように赤く塗られた一枚の鬼面が紐で括りつけられ、静かに揺れていた。戦闘時以外は、決して顔には着けない。アバター名は「双晴 捺鬼」(ふたば なつき)。現実での彼女——佐倉千歳は、二十歳の大学生だ。だが見た目は完全に中学生以下。身長141cm、小柄で華奢、胸は絶壁。鼻の上には分厚い黒縁眼鏡、頰には薄いそばかすが散り、髪は地味なおさげ。大学で年確されるのは日常茶飯事。コンビニでジュースを買おうとしても「保護者の方は?」と聞かれる。友達はほとんどいない。だから彼女は、Parallel Frontierに逃げた。ここだけが、自分の居場所だった。千歳は屋上の端に腰掛け、足を軽く揺らしながら呟いた。「……なんか、空が重い」その瞬間、空が裂けた。黒い亀裂が無数に走り、そこから這い出してきたのは、異形の魔獣たち——ゼロ・リセットが禁断のコードで強制召喚した「カオス・モンスター」。新東京区と横浜区を結ぶ荒野地帯にそびえる超高層ダンジョン「トライビル」。その名の通り、プレイヤーの腕試しのために作られた90階層の塔。最上階90Fを守る最終ボス「Vorthrax Chaos Drake」をはじめ、各階層の強敵たちが、今、秋葉原の街中に次々と出現していた。青き牙の深淵狼「Azure Fang Abyss Wolf」、
紅蓮の渦巻く九頭蛇「Crimson Vortex Hydra」、
影を縛る海魔「Umbra Bind Leviathan」——特に、トライビルの頂点に君臨するVorthrax Chaos Drakeが、なぜか電気街の中心に降臨しているのは異常だった。あのドラゴンは、ソロ攻略は不可能とされ、トップランカーでもフルパーティで何度も挑戦してようやく倒せる存在だ。同時に、全プレイヤーの視界に巨大な赤いウィンドウが強制的に展開された。【ゼロ・リセット 犯行声明】『我々は警告を繰り返してきた。
Parallel Frontierは人類の怠惰を増幅し、地球資源を無駄に消費する寄生虫だ。
人口八千万超のこの仮想都市は、異常だ。
よって、我々は浄化を実行する。対策として、ダイバーズギアの神経インターフェースにバックドアを仕込み、
モンスターによるダメージ値を電流強度に変換するプログラムを注入済み。
致命ダメージを受けた場合、現実世界で即座に感電死する。さらに、ダイバーズギアの物理解除ボタン(ヘルメット外し)を押した場合も、
即時致命電流を流すトラップを設置済み。
外そうとするだけで死ぬ。メニューバーは完全に改竄。
ログアウト、強制終了、設定変更、フレンドリスト、チャット——全て封鎖。
表示可能なのはアイテムボックスのみ。
抵抗は無意味。
今夜、ここにいる過剰な命を刈り取る。
——ゼロ・リセット』声明ウィンドウが消えると同時に、カオス・モンスターたちが一斉に咆哮を上げた。「EXECUTE PURGE PROTOCOL」捺鬼は慌ててメニューを開こうとした。——表示されたのは、アイテムボックスのみだった。「……こんな……ひどい」逃げ道は、完全に塞がれている。捺鬼の瞳が、静かに鋭くなった。「……許せない。こんな声明を出して、みんなの命を……」彼女は腰の鬼面を手に取り、ゆっくりと顔全体に被せた。赤い鬼面がぴたりと顔に重なる瞬間、桜の花びらが周囲に舞い散るエフェクトが発動し、視界がわずかに赤く染まった。捺鬼は屋上から飛び降りた。落下の途中で二本の刀を抜き、隣接するビルの壁に右の刀を深く突き刺す。火花を散らしながら刃が壁を削り、落下速度を殺す。さらに左の刀を交互に突き立て、ジグザグに壁を滑り降りるように減速。最後に地面まで数メートルとなったところで両刀を壁から引き抜き、軽やかに着地した。電気街はすでに地獄だった。悲鳴、爆発音、プレイヤーが次々と灰色に変わる光景。捺鬼は路地を駆け、最初の敵——Azure Fang Abyss Wolfの群れに遭遇した。三体が連携して襲いかかる。鬼面モードで二刀を交差させ、牙を弾き、一体の前肢を斬り落とす。しかし他の二体が横から飛びかかり、着物を裂く。HPが減る。小型個体をなんとか倒すが、体力は三割減。さらに進むと、中型のCrimson Vortex Hydra幼体が炎を吐く。頭の一つを斬り落とすが再生し、反撃で肩を焼かれる。HP半分を切る。中央通りに出た時、Vorthrax Chaos Drakeが待ち構えていた。鬼面モードでは刃が通らず、ブレスでHPが危険域に近づく。捺鬼は距離を取り、息を整えた。そして、刀を地面に突き立て、円を描くように振るった。地面に黒い紋様が浮かび上がり、桜の花びらが逆巻くように舞い上がる。「——鬼装、解放」次の瞬間、小さな体を真っ赤に燃えたぎる紅色の鬼鎧が包み込んだ。まるで溶岩のように脈動する紅蓮の甲冑が肩、腕、胸、脚を覆い、二本の刀には紅の炎がゆらゆらと立ち上る。視界全体が紅く染まり、周囲の空気が熱波で歪む。この鬼装は、南の島エリアの超難度タワー「桜禍ノ塔」の最上階ボスをソロで倒した捺鬼だけが持つオリジナルアビリティ——プレイヤー一人にしか与えられない、唯一無二のスキルだ。一度クリアされたタワーは入場可能だが、最上階ボスは復活せず報酬も出ないため、オリジナルアビリティを手に入れるチャンスは二度と訪れない。紅色の鬼鎧を纏った刀が、黒い鱗を深く切り裂く。初めて、深い傷が刻まれる。Vorthraxが苦痛の咆哮を上げ、翼を広げる。捺鬼は翼に着地し、刀を交互に刺しながら背中を駆け上がる。首筋に到達し、二刀を交差させて深く斬り込む。黒い血が噴き出し、HPゲージが目に見えて減っていく。ドラゴンが体を捻り、振り落とそうとする。捺鬼は刀を深く刺して耐え、弱点の逆鱗を狙う。連撃、連撃。ゲージが半分を切る。しかし、発動から5分が経過しようとしていた。体に灼熱のような負荷が走り始め、HPがゆっくり削られていく。Vorthraxが首を振り上げ、最大の紫ブレスを溜め始める。直撃すれば即死。捺鬼は逆鱗の前に立ち、二本の刀を高く掲げた。紅蓮の炎が刀身を包み、桜の花びらが炎とともに渦巻く。「Blaze Skill——『紅蓮桜華斬』!!」二刀が交差、紅の軌跡を描きながら逆鱗を一直線に斬り裂く。炎の桜花が爆発的に広がり、ドラゴンの核を焼き尽くす。Vorthrax Chaos Drakeが絶叫を上げ、巨躯が崩壊。システムメッセージが全域に響く。【Vorthrax Chaos Drake 討伐】捺鬼は鬼装を強制解除した。紅蓮の甲冑が炎とともに霧散し、元の桜色の着物に戻る。負荷の余波でHPは残りわずか、膝をついて息を荒げた。そこへ、紺色の鬼面を被った背の高い男性アバターが近づいてきた。長い日本刀を鞘に収め、倒れたドラゴンの残骸を見下ろしながら呟いた。「……まさか、ソロで倒したのか。すげえな、鬼の嬢ちゃん」捺鬼は息を整えながら、その声を聞いた。体が震えた。この声——間違いない。「……お兄ちゃん?」男は動きを止め、わずかに肩を震わせた。紺色の鬼面の下から、驚きと動揺が混じった声が返ってきた。「……千歳? お前……ほんとに千歳か?」捺鬼は鬼面を外し、幼い顔を露わにした。男もゆっくりと紺色の鬼面を外した。現れたのは、現実の兄に似せたアバターの顔。声と話し方、細かな仕草で、捺鬼にはすぐにわかった。「ほんとにほんとに、お兄ちゃん?! なんでここにいるのー?!」千歳はよろよろ立ち上がり、駆け寄って袖を掴んだ。真は照れくさそうに頭を掻き、苦笑いを浮かべた。「俺の方こそびっくりだよ。声でわかったけど……まさかお前があの紅い鎧のランカーだったなんてな」「だって、お兄ちゃんがこのゲームやってるなんて教えてくれなかったじゃん! ずるいずるいー!」千歳は頰を膨らませ、袖を引っ張る。真はため息をつきながらも、優しく千歳の頭をぽんぽん叩いた。「悪かった悪かった。でも、こんなところで声だけで再会するなんて、なんか変な感じだろ」「うん……でも嬉しい。お兄ちゃんと一緒なら、もう怖くないよ」真は周囲の炎と遠くの咆哮に耳を澄まし、すぐに刀を構えた。「嬉しいのは俺も同じだけど、今は話してる場合じゃねえ。他のモンスターが来てるぞ。一緒に抜け出そうぜ、千歳」千歳も二本の刀を握り、笑った。「うん! 昔みたいに、背中預けるね」炎の秋葉原で、兄と妹の鬼が並び立つ。仮想世界で初めて一緒に戦う夜が始まった。




