表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/69

第十五話 グラティアの焦燥

 シューレンブルク公夫人グラティアは、皇帝が皇女とヤーコプ・グラーペンを引き合わせたと知り、衝撃を受けていた。


 皇后が崩御し、ユーリアが出奔した後の四年間も、グラティアの息子ニコラウスはヤーコプ・グラーペンに引き合わされることはなかった。


 ヤーコプ・グラーペンはブルグント財政の要だ。

 帝位を維持するために重要な人間の一人といってもいい。


 ――陛下はユーリア様をそんなにも重用するの?


 グラティアは薔薇の宮殿の自室で、落ち着かぬように歩き回った。

 ニコラウスを生んだ時、グラティアはこの世で最高のものを与えたいと思った。

 皇太子エーミールが薨御し、図らずもその地位が目の前に現れたというのに、嫡子であるユーリアが攫っていこうとしている。


 ――諦めるしかないの?


 グラティアは唇を噛んだ。

 ユーリアは可愛い。今やそれは昔のことになりそうだった。

 遥か昔、ユーリアと刺繍をした日々の記憶が薄れている。


 グラティアは何かを見逃しているという気配を頭の片隅にやった。

 今やグラティアには何も後ろ盾はない。

 グラティアの兄であるクロイ公は失脚した。皇帝の愛人になったのは、兄を引き立てるためであったのに、それは無に帰した。


 皇帝の愛もとうに薄れている。


 グラティアに後ろ盾がないということは、ニコラウスにもないということだった。

 それに、クロイ公は宰相だったが、四年前の皇后の落馬事件以来、臣下をまとめ上げることができていなかった。


 四年前、グラティアたちは皇后の馬に細工をし、落馬させた。

 やったのはそれだけだった。それだけだったのに。

 厩番の小屋は燃え、落馬事故の証人や証拠も消えた。

 兄のクロイ公は修道女に斬り付けられた。皇后付き侍女エルメンガルト・フォン・ゲルツは自害し、女官長ゲッティンゲン女候は急死した。

 厩番の小屋が燃えたのは、グラティアたちが証拠隠滅を図ったとみなされ、クロイ公が斬り付けられたのは、皇后を暗殺せんとしたことへの怒りが理由だとみなされた。

 皇后付き侍女と女官長は皇后の後を追っただとか、実はグラティアたちが殺しただとか、悪い噂ばかりが流れた。


 皇后を殺しただけだった。


 我が子を愛さない、母とは呼べぬ女で、夫を愛さない、妻とは呼べぬ女で、ただ国家と婚姻し、皇后としてしか生きぬ女を殺しただけだ。

 皇后を殺せば、ニコラウスに帝位が近づくと信じたのに、状況は悪くなる一方だった。


 ユーリアがいない四年間は全てが進まず、停滞した日々だった。

 そして、その日々は終わりを告げ、ユーリアだけが勝ち進もうとしている。

 グラティアは自室から飛び出していた。

 ここ最近の日課のように、皇帝の部屋へと向かって行った。慌てて、グラティアの侍女も着いてくる。


 皇宮はグラティアのように、愛人に成り下がり、寵を失った女に冷たい。

 グラティアはすれ違う使用人や貴族たちに冷笑を以て迎えられた。だが、グラティアが気にすることなく、皇帝の寝室へと向かった。


「――グラティア様、どうされたのですか?」


 皇帝の部屋の扉を開けたのは、侍女でもなく、皇女ユーリアだった。

 ユーリアは深緑色のローブを纏っていた。金糸で一角獣が織り込まれ、ローブの色と相まって、眩しいほどに若さを象徴していた。


 ――年々、皇后に似てくるのね。


 グラティアはユーリアの姿を見て思った。ただ、瞳だけは愛する男と同じ色だった。


「陛下にお目通りを願いに参りました」


 グラティアはそう言うと、淑女の礼を取った。


「そうでしたか。今陛下はお散歩に出るところだそうですが……少しならば」


 ユーリアは扉を大きく開け、グラティアを部屋へ入れた。ユーリアがグラティアを先導する。

 ユーリアの背中を見て、グラティアは四年前よりも身長が伸びているな、と思った。


 皇帝は寝台に腰かけていた。皇帝は赤いジャケットを着込んでおり、グラティアは久方ぶりに皇帝の威厳ある姿を見た。


 その皇帝に杖を差し出す女がいた。

 その女は群青色のローブを着ていた。群青色のローブを亡き皇后がよく着ていたことをグラティアは思い出し、心をざわつかせた。

 女はタンプレットから銀髪を覗かせ、青い瞳は大きく、煌めいていた。

 グラティアは衝撃で身体を硬直させた。

 皇帝に話しかけようにも、言葉が出てこなかった。


「――グラティアよ、如何なる用か」


 皇帝マクシミリアンは静かに言った。その声色からは感情が見えなかった。


「陛下のお加減が気になりまして……」

「そうか、余を心配してくれるとはありがたいことだな。これからエルヴィーラ嬢と散歩に行く。来てくれたのにすまないな」


 そう言って、マクシミリアンはエルヴィーラの手を取って、立ち上がった。手を伸ばす皇帝の仕草は、いつもしていることにように自然体であった。かつて、グラティアの手を取ってくれた時と同じように。


 マクシミリアンは少しふらつきながら、エルヴィーラと共に寝室から出ていった。

 グラティアはマクシミリアンとエルヴィーラの背中を見送りながら、視界がぼやけていくのを感じた。目が熱く、己が涙を流す寸前だと気づく。


 エルヴィーラ。エルヴィーラ・フォン・ラーシャウ。

 それはユーリアの侍女を殺した女の名前だった。


 エルヴィーラは皇帝の命で、ユーリアの侍女を殺した。

 グラティアはそう思っているし、その可能性は限りなく高かった。

 グラティアはその事実を使って、急速に皇帝から信頼を得ている摂政皇女ユーリアと皇帝マクシミリアンの仲を裂こうと、コリンナを遣わした。


 だが、それが失敗したとグラティアは判断せざるを得なかった。

 ユーリアとマクシミリアンの仲は拗れることはなく、それどころか、エルヴィーラははっきりと皇帝からの信頼を得ている。


「――エルヴィーラ嬢は多忙な私の代わりに、陛下によく仕えてくださっております。陛下もエルヴィーラ嬢がお母様に似ておられるからか、気に入ってらっしゃる様子です」


 ユーリアの明るい声がグラティアの耳に残酷に響いた。


 エルヴィーラの銀髪も青い瞳も、亡き皇后によく似ていた。

 皇帝の、グラティアに対する寵愛はとっくにない。


 しかし、新たな愛人が、ここ数年は出現していなかったことに慢心していた。


 だが、この状況――ニコラウスの摂政解任とユーリアの摂政就任、クロイ公の失脚、ヤーコプ・グラーペンとユーリアの面会といった、ニコラウスにとってよくない流れの中で、皇后に似た新たな愛人の出現は、グラティアの心を抉った。


 グラティアはユーリアに見えないように、一筋の涙を流した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ