第十五話 グラティアの焦燥
シューレンブルク公夫人グラティアは、皇帝が皇女とヤーコプ・グラーペンを引き合わせたと知り、衝撃を受けていた。
皇后が崩御し、ユーリアが出奔した後の四年間も、グラティアの息子ニコラウスはヤーコプ・グラーペンに引き合わされることはなかった。
ヤーコプ・グラーペンはブルグント財政の要だ。
帝位を維持するために重要な人間の一人といってもいい。
――陛下はユーリア様をそんなにも重用するの?
グラティアは薔薇の宮殿の自室で、落ち着かぬように歩き回った。
ニコラウスを生んだ時、グラティアはこの世で最高のものを与えたいと思った。
皇太子エーミールが薨御し、図らずもその地位が目の前に現れたというのに、嫡子であるユーリアが攫っていこうとしている。
――諦めるしかないの?
グラティアは唇を噛んだ。
ユーリアは可愛い。今やそれは昔のことになりそうだった。
遥か昔、ユーリアと刺繍をした日々の記憶が薄れている。
グラティアは何かを見逃しているという気配を頭の片隅にやった。
今やグラティアには何も後ろ盾はない。
グラティアの兄であるクロイ公は失脚した。皇帝の愛人になったのは、兄を引き立てるためであったのに、それは無に帰した。
皇帝の愛もとうに薄れている。
グラティアに後ろ盾がないということは、ニコラウスにもないということだった。
それに、クロイ公は宰相だったが、四年前の皇后の落馬事件以来、臣下をまとめ上げることができていなかった。
四年前、グラティアたちは皇后の馬に細工をし、落馬させた。
やったのはそれだけだった。それだけだったのに。
厩番の小屋は燃え、落馬事故の証人や証拠も消えた。
兄のクロイ公は修道女に斬り付けられた。皇后付き侍女エルメンガルト・フォン・ゲルツは自害し、女官長ゲッティンゲン女候は急死した。
厩番の小屋が燃えたのは、グラティアたちが証拠隠滅を図ったとみなされ、クロイ公が斬り付けられたのは、皇后を暗殺せんとしたことへの怒りが理由だとみなされた。
皇后付き侍女と女官長は皇后の後を追っただとか、実はグラティアたちが殺しただとか、悪い噂ばかりが流れた。
皇后を殺しただけだった。
我が子を愛さない、母とは呼べぬ女で、夫を愛さない、妻とは呼べぬ女で、ただ国家と婚姻し、皇后としてしか生きぬ女を殺しただけだ。
皇后を殺せば、ニコラウスに帝位が近づくと信じたのに、状況は悪くなる一方だった。
ユーリアがいない四年間は全てが進まず、停滞した日々だった。
そして、その日々は終わりを告げ、ユーリアだけが勝ち進もうとしている。
グラティアは自室から飛び出していた。
ここ最近の日課のように、皇帝の部屋へと向かって行った。慌てて、グラティアの侍女も着いてくる。
皇宮はグラティアのように、愛人に成り下がり、寵を失った女に冷たい。
グラティアはすれ違う使用人や貴族たちに冷笑を以て迎えられた。だが、グラティアが気にすることなく、皇帝の寝室へと向かった。
「――グラティア様、どうされたのですか?」
皇帝の部屋の扉を開けたのは、侍女でもなく、皇女ユーリアだった。
ユーリアは深緑色のローブを纏っていた。金糸で一角獣が織り込まれ、ローブの色と相まって、眩しいほどに若さを象徴していた。
――年々、皇后に似てくるのね。
グラティアはユーリアの姿を見て思った。ただ、瞳だけは愛する男と同じ色だった。
「陛下にお目通りを願いに参りました」
グラティアはそう言うと、淑女の礼を取った。
「そうでしたか。今陛下はお散歩に出るところだそうですが……少しならば」
ユーリアは扉を大きく開け、グラティアを部屋へ入れた。ユーリアがグラティアを先導する。
ユーリアの背中を見て、グラティアは四年前よりも身長が伸びているな、と思った。
皇帝は寝台に腰かけていた。皇帝は赤いジャケットを着込んでおり、グラティアは久方ぶりに皇帝の威厳ある姿を見た。
その皇帝に杖を差し出す女がいた。
その女は群青色のローブを着ていた。群青色のローブを亡き皇后がよく着ていたことをグラティアは思い出し、心をざわつかせた。
女はタンプレットから銀髪を覗かせ、青い瞳は大きく、煌めいていた。
グラティアは衝撃で身体を硬直させた。
皇帝に話しかけようにも、言葉が出てこなかった。
「――グラティアよ、如何なる用か」
皇帝マクシミリアンは静かに言った。その声色からは感情が見えなかった。
「陛下のお加減が気になりまして……」
「そうか、余を心配してくれるとはありがたいことだな。これからエルヴィーラ嬢と散歩に行く。来てくれたのにすまないな」
そう言って、マクシミリアンはエルヴィーラの手を取って、立ち上がった。手を伸ばす皇帝の仕草は、いつもしていることにように自然体であった。かつて、グラティアの手を取ってくれた時と同じように。
マクシミリアンは少しふらつきながら、エルヴィーラと共に寝室から出ていった。
グラティアはマクシミリアンとエルヴィーラの背中を見送りながら、視界がぼやけていくのを感じた。目が熱く、己が涙を流す寸前だと気づく。
エルヴィーラ。エルヴィーラ・フォン・ラーシャウ。
それはユーリアの侍女を殺した女の名前だった。
エルヴィーラは皇帝の命で、ユーリアの侍女を殺した。
グラティアはそう思っているし、その可能性は限りなく高かった。
グラティアはその事実を使って、急速に皇帝から信頼を得ている摂政皇女ユーリアと皇帝マクシミリアンの仲を裂こうと、コリンナを遣わした。
だが、それが失敗したとグラティアは判断せざるを得なかった。
ユーリアとマクシミリアンの仲は拗れることはなく、それどころか、エルヴィーラははっきりと皇帝からの信頼を得ている。
「――エルヴィーラ嬢は多忙な私の代わりに、陛下によく仕えてくださっております。陛下もエルヴィーラ嬢がお母様に似ておられるからか、気に入ってらっしゃる様子です」
ユーリアの明るい声がグラティアの耳に残酷に響いた。
エルヴィーラの銀髪も青い瞳も、亡き皇后によく似ていた。
皇帝の、グラティアに対する寵愛はとっくにない。
しかし、新たな愛人が、ここ数年は出現していなかったことに慢心していた。
だが、この状況――ニコラウスの摂政解任とユーリアの摂政就任、クロイ公の失脚、ヤーコプ・グラーペンとユーリアの面会といった、ニコラウスにとってよくない流れの中で、皇后に似た新たな愛人の出現は、グラティアの心を抉った。
グラティアはユーリアに見えないように、一筋の涙を流した。




