第十九話 薄紅色の薔薇
薔薇の宮殿の庭園管理者は、修道女のブリュンヒルド・フォン・シュターデだが、毎日顔を出すわけではない。
結局は、庭園管理者の手足となって動く者が実質管理をしているのだ。
トーマス・バウワーは、正に薔薇の庭園を維持している者だった。彼は宮廷の庭師であり、薔薇の宮殿専属であった。
彼は、今日も今日とて、早朝から、薔薇の庭園の泉から傷んだ薔薇の花びらを網で掬っていた。傷んだ薔薇の花びらは美しくないからだ。
今、皇宮は皇后の事故の件で、暗い雰囲気を漂わせている。それは、薔薇の宮殿の主も同様だった。
シューレンブルク公夫人グラティア・フォン・クロイは、タンプレットから僅かに覗く蜂蜜のような明るい金髪に森のような深い緑色の瞳が特徴的な、優美な貴婦人だった。
たまにご苦労様、と声をかけてくれる貴婦人をトーマスは尊敬していた。
庭師仲間の中には、時々、シューレンブルク公夫人が皇帝の愛人であることを蔑む者もいたが、トーマスには、シューレンブルク公夫人が愛人であろうが、夫人の優しさとは関係ない、と思っていた。
トーマスが黙々と薔薇の花びらを掬っていると、薄紅色に見える水面を見つけた。
――薄紅色の薔薇なんてあったかな。
トーマスは訝しく思った。
薔薇の宮殿に植えられている薔薇の殆どは赤色か白色で、主に植えられている薔薇は、ここはブルグントだというのに、海を越えた異国の紋章である赤薔薇のロザ・ガリカ・オフィシナリスと白薔薇のアルバ・セミ・プレナであった。
薄紅色の水面を暫し、トーマスは見ていたが、だんだんと心臓が早鐘を打つのを感じた。トーマスは水面から視線を上にやった。
薄紅色の大きな布が、しだれ柳にぶら下がっていた。
その布が布ではなく、貴婦人の衣服のローブであり、人も一緒にぶら下がっていることに気付いたトーマスは、尻餅をついた。
「うひゃあ」
間抜けな声を出して、トーマスは腰を抜かしてしまっていた。
⁂
ケルンテン公ニコラウス・フォン・ホーエンシュタウフェンは皇宮の皇女ユーリアを訪ねた。
本来であれば、皇后、皇帝に目通りを願うべきだが、皇后が重傷を負っている今、皇后はもちろんのこと、皇后の容態を案じている皇帝には、到底話せないことで用があった。
「ユリー、朝早くにすまない。薔薇の宮殿で、皇后陛下付きの侍女が亡くなった」
ユーリアは既に起きていた。ユーリアは既にタンプレットを被り、薄紫色のローブを纏っている。彼女は部屋でリンデンティーを飲んでいた。横にはユラン伯が侍っている。
「侍女が何故、薔薇の宮殿で……?」
ユーリアが尋ねると、ケルンテン公は首を振った。
「わからない。それにどうやら、自害のようだ」
「……自害……どなたがです?」
「ゲルツ伯家のエルメンガルト嬢だ」
「エルメンガルト嬢が?」
ユーリアが驚いた顔をすると、ニコラウスは怪訝そうな顔をした。
「どうかした?」
「…昨日、お母様がエルメンガルト嬢に会いたがっていて、来てもらったのですが、その時は特に様子が変なところはなかったので、驚きました」
「……そうだったのか……ユリー、これから遺体を確認してもらわなくちゃならない。もし気が進まないのであれば、皇后付き侍女一人よこして確認してもらえれば……」
「――いいえ、ニコラ、私が確認しなければ。皇后陛下の状況が状況ですし……」
「わかった、一緒に行こう」
ニコラウスが言うと、ユーリアが半歩遅れてついてきた。彼女の半歩後ろをユラン伯がついてきている。
「――ユラン伯も一緒か?」
ニコラウスが眉を上げると、ユラン伯は事もなげに言った。
「今、宮殿は危のうございますので。二日前には、厩番の小屋が燃え、三人の死者を出し、それにクロイ公が襲撃にあったとか」
ニコラウスは伯父のクロイ公のことを指摘され、複雑な心境になった。伯父を傷付けられて心配な気持ちはもちろんある。
「確かに今、皇宮は揺れている。では、共に参ろう」
と、ニコラウスが言った。
薔薇の庭園のしだれ柳の木の下に、薄紅色のロープを纏った女が横たわっていた。
ユーリアは少し恐れを見せるも、ニコラウスが「大丈夫だ」と言って、そっとユーリアの頭を撫でた。
「……確かに、エルメンガルト嬢です」
「すまない、ユリー、確かめてもらって」
「でも、どうして此処で自害など……」
「――わからない、だけど、エルメンガルト嬢は忠誠心の篤い人だったんだな」
「そうだと思います……この時分に自害なさるなど」
ユーリアがそう言うと、ニコラウスは手で目元を隠した。頬には、涙が伝っている。
「ニコラ? ひょっとして、お母様の侍女のために泣いてくださるのですか?」
「……皇后陛下があのようなことになってから、様々なことが起きただろう」
皇后の落馬から始まり、厩番の宿舎の火事、クロイ公への襲撃、そして皇后付き侍女の死。ブルグント宮廷は、様々な凶事が起こり続けている。
それを皇帝が静かに見守っているのが不気味だ。
ニコラウスには今のブルグント宮廷の状況が理解できなかった。
伯父の通り魔的に斬り付けられた件も犯人が誰かもわからず、恐怖と心配が心を占めていたが、今度は恋人であったエルメンガルトが自害をしてしまった。
白鷺猟の前日までは、朗らかに明るく、美しかったにもかかわらず。
ただ彼は――皇后を殺そうとしただけなのに。
その言葉は、思わず口をついて出てしまった。
しまった、と思ったが、小さな声だったので誰にも聞こえた様子はなかった。
ただ、ユーリアは、自身の後ろに立っていたユラン伯に、ひしと抱き着き、さめざめと泣いていた。
遂に、あれほど気丈に振舞っていた皇女にも限界が訪れたのだと思われた。




