1話
暗い。眠い。それが男の思考の始まりだった。目を閉じ、いや、開けているのかもわからない。ただただ闇が広がっている。
「俺は死ぬのか」
それでも。誰かの気配のようなものを感じた。気配、なんてなにかの達人みたいだ。別に格闘技とかそういうの、やったことはないはずなのに。たぶんない。たぶんないはず。わからない。なんだか、全てが曖昧で。
〈あぁ、死ぬ〉
ふと。男の目の前……だと思われる方向から、若い女性の声がした。冷淡かつ冷静。それでいて鋭く、感情のない。
死。し。シ。それがなにを意味するのかは、男にはわかった。考えが今でもまとまらないが、受け入れる準備ができている。
「そうか……そうだよなぁ……」
死とは結局なんなのか。意識が途切れるだけ? そのあと痛みとか苦しみとか。三途の川とかいうものはあるのかとか。生前とやらでは想像したことがあった。それだけははっきりしている。そして今。くる。
名残惜しそうな声色にも女性は動じず、決まったレールの上を走るように。話を進めていく。
〈なにか最後に残したい言葉はあるか〉
「誰かに伝えてくれるか?」
余裕も出てきた男。怖さ、はない。どこか雲の上で跳ねているような。そんな気分だったから。閉じているのかわからない目が。ゆっくりとしっかりと確実に閉じていく。それがわかる。
〈いや、そういうことはしない。私達はただ、死ぬ瞬間に現れる。肉体はいらない。魂をいただく〉
キッパリと女性は否定。ちゃんと理解できるようにシンプルに。急かすようなこともしない。
魂。その定義は男にはよくわからない。
「みんな、死ぬやつはそうなのか」
〈みんな、ではない。私達は選別している。それだけ。拒否権もない〉
「ないのか」
ほんのちょっとだけ。男は女性に抗ってみたかった。だがどうもダメらしいと悟ると、大きなため息が出た。拒否したら。そのまま落ちていくのだろうか。それも気になる。
数秒、溜め込んで女性はまたもキッパリ。
〈ない。その肉体は我々が与えたものだ。死んだあとは焼くなり埋めるなり、好きにしたらいい。どうせ使い物にならないから。だが魂だけは返してもらう。それは貸したものだから〉
いうなれば取り立て。強制的に。その手段も持ち合わせている。
やれやれ、とでも言うかのように男は『そう』なった時の想像もしてみる。
「怖いな。自分が何十年もいた体がそんな風になるなんて。熱かったり息苦しくなったりしないのか。気にはなる」
〈の割には落ち着いてるな〉
もっと狼狽する……とは女性は思っていなかった。そう。こいつは。そういうやつじゃない。だから。知っている。
諦めにも近い落ち着きを男は得ているが、最後に話す相手がいてよかった。それだけが救い。なのかもしれない。
「穏やかではあるんだよ。死ぬのに。まだやり残したこととかあったはずなのに。少しずつ忘れてしまっているような」
なんだったか。応援してるスポーツのクラブが、その国の一部リーグに上がるところを見たかった……とか。なんかそんなだった気がする。違うかもしれない。もう。なんでもいい。
だが女性には、その凪いだ感覚は理解できる。それはつまり。
〈解放が近い。もうじきだ。諦めろ〉
諦めて。すがりつかないで。お願いだから。
上から目線でものを言われているが、そういえば男にはまだ明らかにしていないことがあった。
「で、俺はどうなるんだ、これから。てか、誰だお前は」
〈私達は——〉
「いや待て。すまん、わかる、わかるぞ。わかってきた。あぁ、そうか。俺は元々——」
女性の回答を遮り、男は心の底から湧き上がってくるものに身を任せた。すると、じわじわと体……らしきものが侵食されていくのがわかる。と同時に。新しい記憶が蘇る。それはいわゆる先ほどまでの『生前』というものとは別で。
〈そうだ。思い出せ。お前は〉
自分の役割が終わりを迎えようとしている。それは女性には喜ぶべきものなのに。なぜか悲しさ、のようなものも込み上げてくる。
足の先から頭の先まで。少しずつ。男は『それ』になっていく。わかる。わかってしまった。女性の正体。自分の正体。
「……そういうことか。お前達は……俺もか。俺は——」
俺は。俺は。おれは。オレは。
初めて。女性の声に。優しい色が足される。
「……あぁ、私達は『龍』だ。おかえり、イサク」
さぁ、踊ろう。終わらない龍の舞を。
†