第26話「打切」~線が途切れたその先に~
※このエピソードで第1部は完結します。
※第2部の構想はすでに進行中です。
いつもお読みいただきありがとうございます。
ここまで続いてきた『描線眼鏡 または師匠の異常な情熱』、その第1部がいよいよ一区切りを迎えます。眼鏡とペン、そして仲間たちの線で描かれてきた戦いと日常。その終着点は、ある意味で“新たな始まり”なのかもしれません。
文潮の記事に続報はなかった。
テレビも新聞も沈黙し、文潮自身さえ何も伝えない。
一部ネットニュースが取り上げただけで、内容は野田の記事の転載にすぎなかった。協会も政府も、釈明も反論も示さないまま、街には異様な静けさが流れ込んだ。
記事が消えたわけではない。ただ、誰かが“その先”を見せまいと、現実ごとぼやかしてしまったような曖昧さが漂っていた。
──それでも、「知ってしまった者たち」の視線は、確かに変わっていた……。
*
空は重く、湿った雲が垂れ込める。雨のにおいが街にしみこむようだった。
ランは商店街の文房具店を訪れ、新しく入荷されたカラーペンを買おうとしていた。
店主は小さくつぶやく。「……まいど。いや、お姉ちゃんたちが悪いとは思わないんだけど……やっぱり、普通とは違う世界の人なんだねぇ……」
ランは曖昧に微笑み、ペンと釣り銭を受け取って店を出た。
外では小雨が降り出していた。傘を差す人々の足取りは重く、街全体に言葉にならない沈黙が沈殿しているようだった。
*
その頃、別の街角でも似た空気が流れていた。
マナセは交差点で信号待ちをしていた。リュックを背負い、スタジオへ向かう途中だった。
ふと、向かい側の女子高生たちの視線を感じた──いや、「見られていた気がした」だけかもしれない。
彼女たちはスマホを覗き、何かを囁き合っている。視線がマナセをかすめて、戻ってくる。
心臓が一度、強く脈を打った。
信号が青に変わり、マナセは背を伸ばして横断歩道を渡った。振り返らないようにして。
*
翌朝も、住宅街にはしとしとと雨が残っていた。
舗装道路の端を、ぬかるみを避けながら歩くサチハの足取りは、わずかに重い。
空は灰色に染まり、路地の向こうから子供の声が遠ざかる。通学時間は過ぎ、大人の姿もまばらだった。なのに、耳の奥で何かが鳴っている気がしていた。
──見られてる?
それは視線というより、気配だった。
すれ違う人の目が、自分に注がれている気がする。そんな疑念が、冷たい膜のように背中に張りついて離れなかった。見たわけじゃない。ただ、感じるのだ。視線も、囁きも、雨と一緒に背後から染みこんでくる。
傘を持つ手が少し震えた。
道の向こうから来た老婦人が、ほんの一瞬だけ傘越しにサチハを見た──ような気がした。そのまま目を逸らされただけなのに、それすら胸の奥に沈んだ。
──気のせい。……たぶん。
歩きながら、サチハはスマホを取り出す。画面には通知アイコンと数字のカウント。恐る恐る指を滑らせると、タイムラインが音もなく流れ始めた。
最初は何も考えず、スクロールする指だけが動いていた。
《こんな疑惑を抱えた漫画家が、いけしゃあしゃあと作品を発表するなんて、社会的に許されるわけないでしょ。読者なめてんの?》
《眼鏡って夢を見せてくれるものだと思ってた。まさか、あんな人が使ってたなんて……がっかりです。》
《なんかもう、日本の協会ごと腐ってない? 外国勢のスパイなんじゃないの、あれ? さっさと取り締まってほしいわ。》
《“想像力で戦う”とか言ってたけど、現実見えてないのはお前らのほうだろ(笑)》
《#科学漫画協会終了のお知らせ #眼鏡と魔の癒着 #キズナって誰得》
──ああ……。
指が止まる。
スマホが急に鉛のように重くなった。表示された言葉の数々が、肌を突き刺し、喉に絡みつく。
SNSではまだ、話題が燻っていた。
いや、そう見えるのは、サチハ自身が無意識にフィルターバブルの渦に巻き込まれていたからなのかもしれない。
目がじわりと見開き、口元が引きつる。震える指が端末を強く握った。
──ごめんなさい……。
心の奥で、誰かが呟く。
──わたしが、もっと……ちゃんとしてれば……
──夢を見せるって、思ってたのに……
涙が一滴、スマホの画面に落ちた。滲んだ文字の向こうで、自分が信じていたものが揺らいでいく。
サチハは画面を消した。それは、ここにも現れた「憎悪の可視化」だった。
スマホを胸元にそっと押し当てると、深く息を吸い込む。
そして、小さく──でも確かに口を動かす。
「大丈夫……。大丈夫……」
「ちゃんと、スタジオ行かなきゃ……」
雨が袖口を濡らす中、彼女は一歩、また一歩と前へ進む。
戻れる保証はなかった。それでも、進むしかなかった。
*
その日も朝から雨だった。夜明けから続く灰色の空が、街を静かに包んでいる。
前日、協会で臨時理事会が開かれたという情報が入っていた。おそらく、キズナの処遇が議題だったのだろう。
ケンは早朝から愛車を走らせ、キズナの自宅へ向かっていた。
フロントガラスを雨が流れ、ワイパーの軋みが消しては、また新しい線を描く。車内には、単調な機械音と遠くの水音だけが満ちていた。
「──なあ、こういう日はさ」
ハンドル越しに、ケンがぽつりと口を開く。
「いつも以上に、人恋しくなるもんだろ? ……だから、迎えに来たの、勘弁な、先生?」
助手席のキズナは、濡れた傘を丁寧にたたんでいた。すぐには答えず、小さく息をついて言う。
「……ありがとう。歩く気には、なれなかったから」
その声は淡く、どこか遠くの空気をまとっていた。
ケンはちらりと彼女を見やり、何も言わず前へ向き直る。速度は抑えめ。雨の舗装路を確かめるように走らせる。
「そっか……なんか、そんな気がしてたんだ」
それきり、ふたりの間に沈黙が落ちた。だがそれは気まずさではなく、言葉を選ばない静けさだった。雨音が刻むリズムの隙間を、ワイパーがゆっくりと埋めていく。
やがて、キズナがスマホを取り出す。ロックを解除すると、通知がひとつ震えていた。
《新着:盛沼サキ「処分通知(至急確認)」》
指がわずかに止まる。
ひとつ深呼吸して、キズナは無言でメールを開いた。表示された文面は冷ややかだった。
「近時のメディア報道および戦闘記録の監査結果を鑑み、当該班に対する活動ライセンスを一時停止とする。眼鏡・ペンの使用権限も保留される。なお、状況の改善・再監査により処分の見直しは可能とするが……」
キズナの目が細められる。表情はほとんど変わらず、唇だけが静かに結ばれる。視線は、窓の外の濡れた景色へと流れていった。
「……来たのか?」
ケンが横目を送る。
キズナはわずかに首を傾け、ぽつりと答えた。
「うん。……止められた」
それだけで、すべての意味が伝わった。
ライセンス停止。眼鏡の権限喪失。描線の断絶。
しばらくして、キズナはメッセージアプリを開いた。サキとのやりとりが表示される。すべて短い文面のみだが、淡々と情報が交わされていた。
サキ:《受け取りましたか。状況は想定通りです。》
キズナ:《読んだ。ありがとう。》
サキ:《谷保博士が反証データを提出済み。改善の可能性あり。》
キズナ:《わかってる。……でも、遅いかもね。》
(その行は消され、書き直される)
キズナ:《了解》
「サチハちゃんは?」
ケンがふいに口を開く。さきほどより柔らかな声だった。
「……連絡、ない」
キズナは短く答え、スマホを見つめた。
画面には、既読のつかないチャットが残っている。最後のやりとりは、サチハからのスタンプ。それも、数日前のものだ。
ケンは何も言わず、再びワイパーの音が静寂を満たした。 外の世界では、まだ雨が降り続いている。
*
「A station」──スタジオに着いても、雨はしとしとと降り続いていた。窓を打つ音は、遠くの拍動のように冷たく、重く、沈黙を誘う。
いつも通り──いや、それ以上に静かに、メンバーは席に着き、それぞれの作業台に向かっていた。
だが、誰も線を引こうとはしない。紙の上にも、ディスプレイの中にも、まだ何も描かれていなかった。
その中心で、キズナは黙って椅子に腰を下ろし、何かを待っていた。
チャイムが鳴る。協会からの正式な通知を携えた使者だろう。
「……来たな。おれが出る」
立ち上がったのはケンだった。だがドアを開けると、そこにいたのは意外な人物。フクハラだった。
濡れた傘を折りたたみながら入室する。その顔には、決意と諦念が交じっていた。
「悪い。今日は“編集者”として来た」
その一言で、空気が凍りついた。
マナセのペン先が止まり、ランの視線は紙の端へ逃げ、サキはゆっくりと眼鏡を拭う。ケンは唇を固く結び、アツは茫然と立ち尽くしていた。
フクハラは無言でカバンから書類の束を取り出す。
「集談館の上層部の判断だ。……『眼鏡の女の子』は、来週号で打ち切りになる」
卓上に置かれた紙の束が、鈍く音を立てた。雨音にも埋もれないほどには、はっきりと。
「理由は……?」キズナの声は変わらなかったが、その指先がわずかに震えていた。
「公式には“読者動向とブランド保護”。でも実際は、例の報道の影響だ。スポンサー筋が騒ぎ始めててな……編集部も、もう盾にはなれなかった」
「……ふざけんなよ」ケンが低く呟く。
「わかってる。でも、それだけじゃ済まない」
と、またチャイムが鳴った。
「……また?」ランがぼそりと呟く。
ドアが再び開く。立っていたのは、星野と谷保五郎だった。どちらも険しい表情をしている。
星野は一礼し、黙って室内に入る。五郎は濡れたジャケットの内ポケットから書類を取り出し、掲げた。
「協会からの正式通知だ。“日本科学漫画協会”は、君たち班の活動ライセンスを無期限で停止する」
誰かが息を呑んだ音が、雨音に混じった。
「……取り消し、じゃないんですか?」マナセが絞り出すように問う。
「除名ではない。だが“戦闘時記録の監査”で、疑義が見つかったとされた」星野が視線を落とす。「……つまり、しばらくは雌伏だ」
「……私たちは、“魔”とも、“描くこと”とも、距離を置くんですね」
キズナは、宙を見つめていた。
「だが、見ている者はいる」五郎が静かに言う。「君たちがどう耐えるか、どう描こうとするか──その“線”が、また世界と繋がる」
マナセはそっと瞼を閉じ、ランは深く息を吸う。サキは、机に置いた眼鏡に視線を落とした。
しばしの沈黙。
ふと、フクハラが顔を上げ、五郎の顔を見つめた。そして目を見開く。
「……アレ? ゴロー、ゴローじゃないか? 久しぶり。ここに何しに来たの?」
「……って、エリックか~い? いい加減上青石先生に会わせてくれよ! そっちこそ何故、戸隠さんのスタジオに? ……まさか、集談館で担当している作家さんって戸隠さんだったのか!」
その瞬間、空気が一変した。
フクハラが続ける、
「いや~直接会うのはコーネル大学以来だよね~。あの時の“おにぎり重力場理論”は、結局どうなったんだい?当時の君の発表、すごくユニークだった。何しろ“おにぎりの三角形は、重力場の局在と非対称応力分布の最適解”とか言い出して──」
五郎(即答)
「頂点部にかかる応力が、具材の位置に微小重力偏差を生むことはシミュレーションで確かめられていた。海苔の巻き方すら、量子状態の固定に影響を与える!」
「僕も参考にさせてもらったよ。“鮭おにぎり”を模した擬似重力環境で、認知判断速度と情動傾向を測る実験、結構成果が出たんだ」
「え、それ、査読通ったの!?」
「Natureに……は落ちた。でも学内紀要には採録された!」
ケンがぽつりと呟く
「……こいつら……なに言ってんだ?」
フクハラはさらに続ける、
「平行して研究していた、重力波検知によるダークマター観測と、それに伴う魔の事前予測は何処まで進んだんだい?」
「予測モデルがだいぶ正確化して、電磁波・素粒子観測までだった時代に比べて、場所の特定や分単位の予測技術が各国の対応チームに提供されている……って君、戸隠さん達から聞いてないの?」
「? ? 各国の創作家がチームを作って、“魔”の対策に当たっていて、日本では漫画家チームが任務に就いているとは聞いていたけど……」
「現時点で戸隠さん達が日本で最高のチームなんだ! だからなおさら失う訳にいかない……って、まさか知らんかったの!?」
「“魔”の対策は人類にとって最大の課題だと思うけど──まさか、キズナさん達が当たっていたとは……ハッハッハ意外だな~」
今度はケンが叫ぶ、
「元々知ってたとか! 今までのオレ達の苦労は何だったんだよ!」
と、盛大にズッコケた。
そして全員も、
「「「ズコーーーーッ!」」」
一斉に崩れ落ちた。
椅子が倒れ、紙が宙を舞い、「ちょ、どんだけ~!?」という声がスタジオ中に響きわたった。
──でも。
その笑いが、閉じかけていた空気をほぐした。
スタジオに、ほんの少し、あたたかい空気が戻っていた。
*
その夜、アツはサチハに電話をかけた。
長いコールの末、ようやく彼女の声が返ってくる。
「……アツ……?」
「うん、オレだよ。……あのさ、辛い時に全てを投げ出したくなる気持ちも、すげぇ分かる。けどさ、試練って尽きない。でも絶対、どこかに道はあるんだ。……サチハと、みんなと一緒なら、オレはそう思える!」
「……アツ……ありがとう……! アツと、みんなと一緒なら……サチ、変わる。もう、泣いてばっかじゃいられないもん!」
アツはそのまま、スタジオでのフクハラと五郎の珍妙なやりとりを再現し、皆のズッコケっぷりも伝えた。
通話の終わりには、サチハも声を上げて笑っていた。
*
締切の日の朝。長い雨がようやく上がっていた。
濡れた路面に陽がちらちらと反射し、午後の光がスタジオの窓から差し込んでいる。張り詰めたような空気が、作業机の上に静かに流れていた。
カウントダウンの終わりを告げる音が、ひときわ静かに鳴る。
カチリ。
『俺たちの戦いはこれからだ!』
『戸隠先生の次回作にご期待ください!』
フクハラの後書きが添えられた原稿。
キズナがペンタブを置き、軽く伸びをしながら呟いた。
「……よし。これで、最後の一コマもアップ完了」
その言葉に、ランが目を伏せる。
「……これが、本当に最後なんだね」
細いが、確かな声だった。
サチハがヘッドフォンを外し、もぞもぞと身体を起こす。
「今日で……締切も最後なんですね……」
その問いには誰も答えず、サキがモニターを静かに閉じた。
アツがぽつりと呟く。
「終わった、んですね……」
スタジオを満たす沈黙は、達成感でも後悔でもない。
それは、あまりに静かな“終わり”の気配だった。
その時、椅子を引く音がした。
フクハラが立ち上がり、一枚の茶封筒を掲げる。
「これ……この原稿と一緒に出すつもりだったんだけど……もう、編集局長の机に置いてきた」
小さなざわめきが走る。誰もが、そこに込められた意味を察していた。
フクハラは続ける。
「このままでは終わらせない。……僕は、集談館を辞める。ここから、もう一度始めたい。君たちと一緒に」
その告白に、空気がわずかに揺れる。
「フクハラさん……本気なんですか?」
キズナの声が微かに震える。
フクハラは真っすぐうなずいた。
「ああ、本気だ。これは僕自身の決断だよ」
その瞳には、編集者ではなく、一人の人間としての覚悟が宿っていた。
ケンが立ち上がり、フクハラの肩をぽんと叩く。
「……じゃ、うちの仲間ってことで、“例の儀式”やらないとね?」
ランが目を見開く。
「まさか……あれ、やるの?」
「いや、今こそやるべきでしょ」
ケンがにやりと笑う。
マナセがサキを見ると、彼女も珍しく、軽くうなずいた。
「……よし、なら」
ケンが手を差し出し、フクハラがためらいがちに重ねる。
「エリック!」
「ケン!」
「マナセ!」
「ラン!」
「キズナ!」
「サキ!」
「サチハ!」
「アツ!」
順に手が重なっていく。
戦いの直前のような緊張と高揚が、スタジオを満たす。
そして──
「せーのっ!」
誰かが声をかける。
「Save your peace!」
全員の声が重なった。
拳を掲げたまま、誰もが泣きながら笑っていた。
──この瞬間だけは、未来と線が繋がっている。
そう、信じられた。
そして、キズナは心の中で静かに呟く。
> この世界に線を引く力は、たしかに奪われた。
でも、描くことはやめない。
ここからは──私たちの物語だ。
第1部、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
本作はここで「第1部・完結」となりますが、物語はまだまだ続いていきます。
すでに第2部の構想も進行中であり、そちらの準備が整い次第、新シリーズとしてお届けする予定です。
それに先立ち、これまでの物語の補足や裏設定などをまとめた「設定資料集」を、当面はこれまで通りの更新頻度で順次投稿していきます。
具体的には、
「眼鏡」「ペン」「魔」などの用語解説
登場人物・組織の内部構造
世界観の科学的/文化的背景
そして、裏側で動いていた“伏線”たちの断片
などを、1話ごとに整理・公開していく予定です。
引き続き、設定資料集もよろしくお願いします。
そして――また、第2部でお会いできることを楽しみにしています。




