第17話「眼鏡」~透明なものの記憶~
本作『描線眼鏡 または師匠の異常な情熱』は、想像力で武器を描き出し、眼鏡を通して“見える世界”と戦う、そんな物語です。
漫画スタジオを舞台に、日常と非日常が交錯する──
青春・バトル・SF、そしてちょっとだけ陰謀めいた物語を、楽しんでいただければ嬉しいです。
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金沢の朝は、雪解けの音とともに始まった。
夜まで降り続いていた雪はようやく止み、路面にはシャーベット状の水たまりが残っている。ホテルの駐車場では、出発の準備が進んでいた。
「やっと晴れましたね。気象班的には朗報です」
寝ぐせを気にしながら湧口マナセが荷物を積む。
「国道八号線、通行止め解除です。高速も問題なし」
盛沼サキが淡々と報告する。濡れたスーツも意に介さない。
「勝山って、あれですよね。恐竜のとこ……」
まだ眠そうな村上サチハの呟きに、館山ランが元気に反応する。
「そう! 化石の聖地! 野外で発掘体験できるとこも──」
「……元気があってよろしい」
キズナがコーヒー片手に微笑む。
その横で、エンジンをかけた上迫ケンが顔をしかめた。
「またエンプティだ。昨日の渋滞のせいで……」
「まぁ無事着けたし、精算もできるから……」
ガソリン食いの車に、キズナはこめかみを押さえた。
予報と道路状況を見てチェーンを外して出発する。
北陸道に乗った頃には、すっかり道は乾いていた。
*
福井方面へと南下していくと、やがて左手に巨大なオブジェが現れる。
《メガネSABAE》
「でかい看板だな」
ケンがぼそりと呟く。そこは日本国内における眼鏡フレーム生産の約九五パーセント、レンズの約半数を担う“めがねのまち”だった。
「鯖江インターで降りて、会長宅へ送っていく。俺らは少し戻って勝山を目指す」
「うん。こっちは時間が読めないから、勝山の調査次第で」
サキがタブレットを確認しながら頷く。
「了解。私たちは予定通り、地磁気の観測を進めます。範囲がやや拡大傾向にあるようですが……」
*
やがて、鯖江市の中心から少し外れた丘の中腹の目的地に着き、キズナだけが降りる。
日本家屋と洋館の様式を折衷した、大きな建物。門柱には「谷保」の名が刻まれており、隣にはYAHOの研究支所らしき建物も見える。静かな空間の奥から、微かに機械の研磨音のようなものが聞こえてくる。
*
谷保三郎の屋敷に通されたキズナは、すぐに小さな作業室へと案内された。
「どうぞ、気にせず靴のままで。元々、病院の処置室を改装した部屋なんでね」
古い白衣にカーディガンを重ねた三郎が、そう言って笑う。 部屋には器具棚と検査台、視力表、数台の旧式モニター。奥には削り出し機やレンズの研磨機材が並ぶ。確かに医療というより「診療所」と呼んだ方がしっくりくる。
キズナは、自らの眼鏡を取り出した。 片方のレンズは粉々に砕け、もう片方も大きくヒビが入っている。フレームにも焦げ跡があり、全体的に煤けていた。
「……申し訳ありません。せっかく調整していただいたのに、こんな形で」
キズナが深々と頭を下げると、三郎はわずかに目を細めた。
「いやいや。この部屋を使えるのが嬉しくてね。今は眼鏡も電子制御になって、令和になってから発注してきたのはお嬢さんだけだ」
「歴代の師匠達や祖母が見ていた、影の中のひかりを自分も見たくて……」
「電子制御も悪く無いが、視覚に入るのはひかりだからね。眼鏡は、“視る”ための道具。だが、“どう視るか”は、使い手にしか決められん」
三郎は、破損状態を確認したあと、スキャナにかけてレンズデータを呼び出した。
「さて……まずは検眼からだ。今の君の“視え方”を、きちんと調べないと。この眼鏡はな、単に度を合わせるだけじゃない。人によって光の歪み、色の揺れ、魔の像の輪郭──全部違う」
キズナは頷き、検査機材の前に座る。 視標が次々と切り替わるなか、彼女は静かに応答していった。
やがて一通りの検査が終わると、三郎は検眼結果のチャートを眺めながら、ふと懐かしむような口調で言った。
「谷保家がこの道に入ったのは、祖父の一郎からだ。大阪の職人に弟子入りして、鯖江の増永五左エ門先生に招かれて来たのが明治の末期。町の時計屋の裏で眼鏡を削って売っていた」
「じゃあ、百年以上前から……?」
「そう。戦後には二郎──私の父だが、東京に出て協会と関わるようになった。父の代から“特注品”の研究が始まった。科学者と漫画家と職人、みんなが力を併せて」
「……“眼鏡”自体の始まりって、どのくらい昔なんですか?」
三郎は、その問いに目を細め、言葉を選ぶように応えた。
「文明の遥か昔、人は滝の水の向こうに“違う像”を見ることから始めたらしい。水晶や石英、そうした天然石に“見えない現実”を見つけた。レンズの加工が始まったのは、古代エジプトやギリシャの時代だ」
「そんなに……」
「光を屈折させることで世界の見え方が変わる──水晶、鏡、レンズ……東洋では鏡が神事に使われ、西洋では水晶球が悪魔払いとされた。透明であることは、神聖さと同時に異界との通路でもあった。昔から、神か悪魔の道具とされてきたんだ」
「レンズが眼鏡として使われるのは、もう少し後なんですよね?」
「アレキサンドリアのイブン・ハイサムが“光学の書”をまとめ、13世紀のイタリアで“視力補正用の眼鏡”が誕生した。制作者の名前は残っていないがね。神に与えられた老いを拒む道具なんて、当時は“異端”扱いだったらしい。魔に通じるものがあるな。見えることで救われることもあれば、取り憑かれることもある。眼鏡は、そういう“境界”にある道具なんだよ」
キズナは静かに頷き、改めて三郎の仕事ぶりを見つめた。
「……人の目が“世界”を定義するなら、眼鏡は“世界の定義そのもの”なんですね」
「名言だな。座右の銘にしよう」
三郎は笑い、フレームから割れたレンズを丁寧に外した。
「さあ、次は素材の選定と削り出し。君の“世界”に合わせて、新しい眼を作ろう」
*
キズナがそっと眼鏡を外すと、三郎はそれを両手で受け取った。
机上の柔らかい布にそっと置くと、彼は白手袋をはめ、慎重にフレームとレンズの状態を確認する。
「ふむ……片方は完全に砕けてますな。もう片方も、ヒビ。――ここまでやったのは、よほどの衝撃でしょう」
「はい……実戦中に。申し訳ありません、大切なものだったのに……」
キズナが少しうつむいて言うと、三郎は笑って手を振った。
「……かつて、あなたのような若き師匠がたくさんいた頃は、こういう修理がしょっちゅうあったものです。特に石森くんなんかは、年中レンズを割っては、『またやっちまいました』って頭を下げに来てた」
「石森……って、石ノ森章太郎先生ですね?」
「ああ。私と同い年でね。あの人は無茶するタイプで……戦場でも、日常でも。戦う漫画家の中でも、とびきり“絵に生きる”人でした」
キズナは息を呑んだ。石ノ森章太郎――仮面ライダーやサイボーグ009を生んだ天才。その名を、こうも自然に口にする人物が、いま自分の眼鏡を修理しようとしている。
三郎は棚から、片方のレンズが欠けた古い眼鏡を取り出した。
「これは、あいつの眼鏡。描きながら、戦いながら、よく笑う奴だったよ。壊れても何度でも作り直して、“線”の向こうに挑んでいった」
「……私も、割ってしまいました。会長に作ってもらった、前の眼鏡を」
「気に病むことじゃない。形あるものは壊れる。だからこそ、立て直せるように作っておく。それが職人の仕事さ」
「トキワ荘の偉大な師匠達の時代からなんですね?」
「昭和三十年代の話です。当時の《協会》は今とは比べものにならないほど小さくて、トキワ荘もごく普通のアパートでした。私は中学から高校に上がるころで、父に連れられて東京へ。手塚先生や湯川博士と、眼鏡の光学補正をどう進めるか、夜通し議論していたのをよく覚えています」
「湯川秀樹博士ですね?」
「はい、ノーベル賞の。あの人も、若き漫画家たちの熱意に動かされていました。『この子たちは、ただ描いてるだけじゃない。世界を“見よう”としてるんだ』ってね」
三郎は、引き出しの奥から、色褪せたスケッチブックのようなノートを取り出した。
そこには、手書きの図面と数式、そして“魔”と記された小さな注釈。光学レンズの屈折角と、虚像・実像の重なりを記した頁。
「このあたりは、父・二郎が書いたものです。眼鏡職人といっても、ただの技術者ではなかった。数学と心の距離を計ろうとしたんです」
キズナはそのノートを、そっと覗き込んだ。
そこに記されているのは、確かに──線ではない。だが、どこか漫画の設計図のようでもあった。透明なレンズの裏に、もうひとつの世界が宿るような、そんな構造。
「……線じゃないけど、これはこれで、“世界を定義”してる」
「気づきましたか」
三郎は目を細め、嬉しそうに頷いた。
「線は君たち《描き手》が引く。けれど我々《職人》は、その線が届く“視野”を作る。君たちが世界を描くための“見え方”を、我々が整えるんですよ。だから私はずっと、眼鏡の仕事を続けてきたんです」
「――ありがとうございます」
キズナの声には、震えるような敬意があった。
それは、師匠・星野に対しても抱いたことのある感情に、少しだけ似ていた。
*
「当時のトキワ荘はね、絵と夢と、寝不足のにおいに満ちていた」
三郎は、静かに語り始めた。ガラス戸越しに差し込む午後の光が、彼の横顔をくっきりと照らしている。
その声に促されるように、キズナは湯呑を手に、背筋を伸ばして耳を傾けた。
「手塚先生が出た後も、藤子不二雄のおふたり、それから寺田さん、清水さん。赤塚さんは眼鏡を逆さに掛けて皆を笑わせたり。そして石森章太郎。彼は少し後だったかな?同い年で私ともすぐ打ち解けてね。『おい、こっち来て一緒に魔を描こうぜ』なんてからかわれてさ」
懐かしそうに笑う三郎。偉大な師匠達との日常を、自然に語るその笑みに、キズナも思わず頬をゆるめた。
「夜になると、皆が一室に集まって、漫画のネームを交わし合いながら、レンズ越しの“世界”を議論していた。魔が“見える”かどうかは個人差があったけど、それでも全員が“見よう”としていた。たとえ直接は見えなくても、感情の軋みや、街の片隅の異変には誰よりも敏感だった」
「それって……今の私たちと、変わらないですね」
「そうだね。ただし違ったのは、眼鏡も、ペンも、まだまだ未完成だった。量子干渉も、重力波も、ましてや人工視界なんて概念もなかった時代だ。皆、体ひとつと、紙と、想像力だけで戦ってた。命懸けでね」
三郎の指が、卓上の古い万年筆をそっと撫でる。
「ある晩、強い“魔の気配”がトキワ荘全体に押し寄せたことがあった。近くの建設現場での事故が関連していたらしい。歪んだ憎悪が、空気に“線”のように走った。あれは忘れられない」
「……そのとき、誰が対応したんですか?」
「石森くん。まだ十代なのに躊躇なくペンを取って、絵を描いた。いや、描くというより、“線を引いた”んだな。世界を分けるために、恐怖と、それを超える想像力のあいだに」
キズナの手が、ゆっくりと胸元のシャツを握る。
「でもね。誰かが“線”を引けるのは、誰かが“見えている”からなんだよ」
三郎は静かに眼鏡を拭いながら続ける。
「私たち眼鏡職人は、線は引けない。だけど、どこに線を引くべきか、どこが“歪んでいる”のか、その輪郭を浮かび上がらせることはできる。それは、戦いじゃなく、観測の仕事。ときには、そこに“意味”が宿ることもある」
「……じゃあ、その夜、会長は……」
「私はただ、震えながら眼鏡越しに“視ていた”だけです。でもね、あれが最初だった。“この世界には、見えない何かがある”と、はっきりと確信したのは」
窓の外で、風がそっと庭木を揺らす。
キズナはその音に目を細め、静かに頷いた。
「……世界を見ようとしてたんですね。あの人たちは、ほんとうに」
「君たちもそうだろう? それは何十年経っても、変わらない。見ようとする者の“眼”は、いつだって、未来の線を導いてくれる」
三郎の声は、まるで遠い過去と、キズナの現在をひとつなぎにするような、柔らかい響きを持っていた。
*
――カチリ。
新たな眼鏡が、キズナの鼻梁にそっと収まった音が、小さく室内に響いた。
幾重にも研磨された透明なレンズ。その奥で、視界が一気に収束し、再び世界が輪郭を取り戻す。
「……やっぱり、凄いですね」
キズナが感嘆まじりに言うと、隣の作業机で道具を片付けていた三郎が、手を止めて微笑んだ。
「驚くほど透明に見えるでしょう。でも、本当に“見えている”のは、光じゃない。これは“歪み”を捉えるためのレンズだから」
彼の声は柔らかいが、言葉の一つひとつに研ぎ澄まされた重みがある。
「谷保家は代々、“歪み”を見る家系なんだ。祖父・一郎、父・二郎、そして私……三代にわたって、“眼鏡を通して世界の底を観る”者が出てきた」
「ただ……それは、受け継がれなかった?」
三郎はふと静かに目を伏せた。
「ああ。私の息子──四郎は、“見えない”人間だった。でもね、彼は別の才能に恵まれていた。眼鏡を“製品”として昇華し、電子工学や素粒子制御技術と融合させ、YAHOを今の姿にまで育てた」
「社長ですよね」
「そう。父や僕の谷保メガネはただの眼鏡屋だったが、今や彼の方が有名だ。まあ、それもいい」
それは自嘲ではなく、どこか安堵を含んだ笑いだった。
「孫の五郎も“見えない”が、研究の目は確かだ。KAGRAによる魔=重力波の観測ラインは、あいつの設計した補正理論が支えてる。意味を“見る”代わりに、意味の“位置”を特定する方法を探した男さ」
「神岡でお世話になってきました」
「私のように手で作る者もいれば、数字で組む者もいる。“眼鏡”の意味は、そうやって何通りにも枝分かれしている」
キズナは目の前のレンズに指先をそっと添えた。
「私は……まだ、見えてるって言えるほどじゃないです。でも、見ようとしてます。ちゃんと、見ようとしてる」
三郎はしっかりと頷いた。
「それで十分さ。見ようとする意志が、世界を映す面を整える。君の眼鏡は、もう世界を捉えているよ。あとは、君自身が“意味”を選び取るだけだ」
静かな作業室に、また一つ、眼鏡が完成した音が響いた。
いつもご覧いただきありがとうございます。
本日は第17話「眼鏡」~透明なものの記憶~を投稿しました。
金沢を出発した一行が向かうのは、眼鏡の聖地・福井県鯖江市。
かつて多くの“描き手”たちと時を過ごした谷保三郎の屋敷で、キズナは壊れた眼鏡を修復し、もう一度「世界を視る」ための準備を整えます。
視線とは何か。眼鏡とは何か。
そして、かつての師匠たちが見ていた「魔」とは──
次回、舞台は恐竜の眠る地へ。
引き続き応援よろしくお願いいたします!




