第16話「観測」~憎悪の可視化~
本作『描線眼鏡 または師匠の異常な情熱』は、想像力で武器を描き出し、眼鏡を通して“見える世界”と戦う、そんな物語です。
漫画スタジオを舞台に、日常と非日常が交錯する──
青春・バトル・SF、そしてちょっとだけ陰謀めいた物語を、楽しんでいただければ嬉しいです。
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下呂温泉の朝。
天気予報では晴れのはずが、細かな雪がちらついていた。
「……思ったより降ってるな」
ミニバンの前でケンが腕を組む。昨晩けっこう飲んだはずだが、妙にしゃっきりしている。
「マナセ。やっぱ天気予報はあてにならん」
そう言いながらチェーンを取り出すケンに、叩き起こされたマナセとアツが付き合う羽目になる。
「……気象班として言っとくけど、それと魔由来の気圧湿度変動は別問題」
寝ぼけたマナセは、手袋を逆にはめたままぼやいていた。
キズナとサチハは早起きして朝風呂へ、ランとサキは朝食ギリギリまで夢の中だったらしい。
一行はチェックアウトを済ませ、神岡へと出発した。
高山までは快調だったが、山に入ると雪が勢いを増し、神岡が近づく頃には視界も次第に白んでいた。
*
神岡の町が目前に迫る頃、雪はしんしんと降り続き、山道はすっかり白く覆われていた。舗装された道路も、轍がなければ区別がつかないほどに。
車内でルートを確認していたサキが、ふと顔を上げた。
「……あの杉、ちょっと揺れてませんか?」
「風か? いや……」
キズナの目の端に、白い空間に薄く“線”が浮かび上がる。
「……出てる、線。あの木の周囲に……揺らいでる」
キズナが助手席から降りる。片方が割れ、もう片方もヒビの入った眼鏡をかけ、周囲を確認する。
「全員、展開して。これは魔――ただし、R級未満の“影”。実体はない。でも……見える」
仲間たちは各自の装備を確認し、雪を踏みしめながら車外へ出る。
山の傾斜に立つ一本の古木。その根本から、黒い影のような“揺らぎ”が滲み出していた。
雪がわずかにその揺らぎに沿って渦を巻き、地面に触れる枝がぎしりと鳴っている。
アツが刀を描き、手元に実体化させる。
目を細め、その揺らぎの中心にある“交点”を探し、深く息を吸った。
「……そこだ」
一閃。
静かに、しかし確かに、空間が“切断”された。
波紋のように、揺らぎが広がり、空気が一瞬だけ澄む。
「ナイスカット、アツ」
キズナが目を細める。
しかし、安堵は束の間だった。
「支柱が……倒れる!」
サキが叫ぶ。雪に押されてバランスを崩していたガードロープの柱が、軋みを上げて傾きかけていた。
「マナセ、いける!?」
「いく。ここで止める!」
マナセが創造の斧を構え、踏み込んだ。
振り下ろされた斧は、影の構造の要点を見抜いたように、支柱の基部に力を与えるような角度で打ち込まれる。
「破壊」ではなく、「再支点化」。
雪の重みで崩れかけていたガードロープが、その力を受けてわずかに立ち直る。斧が振動を吸収したようにも見えた。
「すご……あんな振り方、あり?」
サチハが呟く。斧の振るい方が、まるで筆のようだった。
「マナセの斧は、“支える”ための武器だから」
キズナがそう言いながら、ゆっくりと眼鏡を外す。揺らぎは、もはやそこにはなかった。
車内に戻りながら、アツがぽつりと呟く。
「魔って、眼鏡無しだと見えないことが多いけど……
今日のは……人の過失っていうか、ちょっとした歪みが形になったみたいだった」
「その“ちょっとした”が、重なってくのよ」
キズナが頷く。
「魔は、自然に棲むんじゃない。人の中に、積もるの」
*
神岡の町が見えた頃には、雪は細かな粉雪に変わっていた。
「……着いた。あそこかな?」
ケンが大きく息を吐き、町のハズレにある管理施設の前で車を停める。外にはすでに誰かが待っていた。
オレンジのタオル(東京の某人気球団では無い)を肩にかけ、手を振る男。白衣ではなくネルシャツにジャンパー、片足の靴は泥だらけだった。
「戸隠さん、ご無沙汰です! ご足労感謝~」
満面の笑みで駆け寄るその姿に、アツは思わず「え、あの人が?」とつぶやく。科学者というよりお笑い芸人のようだ。
「協会・科学部門の技術責任者、谷保五郎博士。こう見えて、重力波観測の第一人者よ」
「“こう見えて”聞こえてますからねー。オレは見た目通りですって」
2人は旧知のようだった。
博士は握手を交わしながら一人ひとりに声をかける。
「盛沼さん、お久しぶり。湧口くん、館山さん……ああ、村上さんに加藤くん、有望な新人だって聞いてます」
タオルをくいっと直しながら言った。
「今日は特別に、車ごと地下までご案内。ここで準備して、一緒に坑道へ行きましょう」
*
「この車、坑道に入れるんですか?」
「大型車両も通れる仕様だから問題なし。KAGRAまでは一直線で約30分──ただし、曲がると迷子確定」
「RPGみたい!」
ランがはしゃぐと、博士は笑ってうなずいた。
「ま、物理的な異常もたまに起きるけどね」
「……それが怖いんだけど」
ケンのつぶやきを聞き流しつつ、博士がゲートを確認し手を叩く。
「じゃ、行きましょう。神岡の地下、世界の最深部へ!」
*
ミニバンが緩やかな坂道を抜け、コンクリ壁の坑道へ入る。鉄扉や排気ファンの影が、ヘッドライトに浮かび上がる。
「ここの旧・神岡鉱山の坑道は、観測施設への主要ルート、見学コースの帰路にも使われてるね。手掘り時代のものをベースに整備されてる」
助手席の博士が振り返りながら語る。
「目指すのは“東3000坑道”の終点、重力波望遠鏡KAGRA。カミオカンデは別の“北の又坑道”──そっちは観測の老舗、“スーパーカミオカンデ”。建設中の“ハイパー”もあっちだね」
道幅は広く、ミニバンも余裕で進む。
「着いたら、ぜひ皆さんの“目”で見てほしい。たぶん、これまでで一番“静かな戦場”だと思うよ」
「……静かな戦場」
*
坑道を抜けた先、やがて視界が開ける。
その奥に現れたのは、まるで要塞か宇宙船のような巨大な構造体だった。
KAGRA。地下200メートルに広がる、全長3km以上のレーザー干渉型大型低温重力波望遠鏡。直線状に伸びたトンネルの中、レーザーが真空パイプを通して照射されている。
ミラーを吊るす巨大な真空トンネルが延びる光景は、美しい“線”が地中に描かれているようだった。
ランが、「構造物の美しさもだけど……これ、数値でゆらぎを測ってるの? ロマンというより理詰めだね」
「だからこそ正確なんです。……でも、意味を持たせるには、別の視点が必要になる」と、サキが返す。
「この装置、直角に交わる2本のアームを使って、レーザーの“ほんのわずかなズレ”を観測してる。アインシュタイン博士が予言していた重力波。通常物質ではブラックホール同士の合体や、中性子星の連星が融合するキロノヴァのような大質量のものしか観測出来ない」
「それがダークマターつまり魔の集積では観測出来るんですね?」
とキズナが答える。
「そう、通常では考えられない質量集中によるのか? 局所的時空の異常を生むためなのか? 今でもわからないけど、重力波に似た“微小な揺らぎ”を観測できる。湯川博士や小柴博士といった先人が眼鏡の実証実験を通して、予言してきた事なのだけどね」
「歴代の、偉大な科学者達の積み重ねによるものなんですね」とサキ。
「ここは山体の地下に設置された、世界で唯一の重力波干渉計。余計なノイズを廃し、極低温に冷やされたサファイアの鏡が“微小な揺らぎ”を捉える。通常物質はともかくダークマター=魔の揺らぎに対しては世界最高の施設だと思っている」
「もっとも……今年の初めの地震で、ズレてしまった。だから、例の羽田事故——」
キズナの瞳が鋭く光る。
「……それでSSR+級の魔を、察知できなかった?」
「多分。常に確実な検知が出来るわけでは無いけど、もう少し早く警報を出す事は出来たはずだ」
博士の声が、坑内に反響して消えた。
*
KAGRAの見学を終えると、一行は再び坑道に戻り、南西方向の分岐路を進んでいった。途中、天井から滴る水を避けながら、谷保博士が前を歩く。
「さて、お次はカミオカンデ方面へ。こっちはね、重力波じゃなく“粒子のきらめき”を観測する場所」
分岐を抜けると、坑道の空気が一気に冷たくなった。やがて、大きな防水扉が現れ、重厚な音を立てて開かれる。
「こちら、スーパーカミオカンデ。さらに拡大したハイパーカミオカンデも建設中。この下にはでっかい水槽があります」
高く切り取られた空間の中に、皆が足を止める。
「ニュートリノ……素粒子の中でも、特に捉えにくいやつ。こいつが水とぶつかると、ごくわずかに“光る”。その光を検出器で捉える。だから、この空間には5万トンの超純水が満たされているんですな」
ランがぽつりと呟く。
「物質じゃない、揺らぎでもない。“気配”を読むってこと……」
谷保博士は、構わず続ける。
「ここは、KAGRAの“数値化された揺らぎ”とは違って、光が波紋になって現れる“感覚に近い読み取り”の世界。言ってみれば、相手の呼吸を感じるみたいなもん。機械だけじゃ、足りないんですよ」
サキ「見えないはずの粒子が、光の波紋に……これって、気配を見るのに近いかも、感覚的なものですね。」
ラン「感覚を数字にするのは無理だけど、こうやって“跡”が残るのが好きなんだよね。kKAGURAが揺らぎを数値で出すのもすごい」
谷保が頷く。
「いい観点だ。大事なのは“どちらも必要”ってこと。感覚と数値、詩と理性。魔は、どちらか一方では見えない」
ランとサキが、そっと視線を交わす。
「……ありがと」
たった一言のその声に、ふわりと坑内の空気が和らいだ気がした。
スーパーカミオカンデの見学を終えた一行は、さらに坑道を進んだ。谷保博士が立ち止まり、何気なく坑道脇の小さな扉を指差す。
*
「……ついでに、こっちも寄ってみましょうか」
非常灯の下、ぽつんと佇む錆びた鉄扉。そのプレートには「XMASS 実験施設 ― 閉鎖中」とある。
「XMASS。液体キセノンでダークマターの“直接観測”を試みた施設です」
「閉鎖中……なんですか?」
アツの声に、谷保は肩をすくめた。
「公式には、ね。予算打ち切り、老朽化、人材不足──建前は色々。だけど……実際は、こっそり続けてます」
博士がテンキーにコードを打ち込むと、扉が音もなく開いた。
中は薄暗く、円筒状の装置が整然と並ぶ。無音に近い空間。だが、壁際のモニターには淡い波形が脈打っていた。
「ここでは“ぶつかる前の気配”──つまり魔、人間の深層の陰と呼応する未確定エネルギーを探ってます」
サキが波形に目を凝らす。ランが不安げにその背中を見守っていた。
「これ、観測できてるんですか?」
「ええ。ただ、“意味があるか”は別。普通の解析じゃ、ただのノイズです」
谷保はタオルをくいっと直しながら言った。
「でも“眼鏡”を通す観測者──君たちのような存在がいれば、そこに“意味”が立ち上がる。影の密度、揺らぎの継続、感情の構造……。数値では見えない世界が、姿を取る」
少し間をおいて、サキが問いかける。
「……今回の眼鏡へのバックロード現象と、以前ここで観測された“干渉体”の件。関連は?」
谷保は目を細めた。
「いい観察眼ですね。偶然とは思ってません。ただ、証拠も──まだ不十分……でも、次は“注視”が必要になります」
ふっと口元を曲げる。
「使い方次第では、これは“集団心理の計測器”にもなり得るんですよ。だからこそ、こうしてこっそり──ね」
*
神岡の管理施設、見学を終えて戻った一行を待っていたのは、薄暗い会議室の大型モニターだった。
「さて、……これが俺たちの“観測結果”なんだ」
谷保五郎が指先でモニターを操作し、壁面の大型スクリーンに二枚の画像を並べて表示した。
「はい、これ。まず一枚目──“経済の可視化”って言ってる」
画面に現れたのは、衛星合成の夜の地球。おおむね世界の人口数と発展度合いに比例して光っている。
「いわゆる夜間光画像。人間がどこでどれだけエネルギー使ってるかを光で示したやつ。光が集まって、まるで“文明”の分布図って感じ。良く見ると富山湾のイカ釣り漁船みたいなのも写ってるけどね。基本、明るいとこほど経済が動いてカネが流れてる」
「上が“いつもの”夜の地球。で、下が……ちょっとだけ変わった観測画像」
キズナが歩み出て、画面を見上げる。
「じゃあ、下の画像は……?」
サキが一歩前に出て、下段のスクリーンを凝視する。
それは、上の都市・文明の明かりと概ね重なりあっているが、所々で激しい光の点滅が、そこかしこで光っていた。
「これはね、KAGRAとXMASS、それから衛星観測の補正データを組み合わせて処理した画像。……ある期間内の“微細な重力波とダークマターの揺らぎ”を積算して、発光に似せて可視化してある」
「発光……?」
ランが不思議そうに首を傾げた。
「ダークマターの高濃度な集積――つまり“魔”は、通常ではノイズとして除外されるレベルの揺らぎを、局所的に発生させるんだ。それがKAGRAのような重力波干渉計では“意味のあるノイズ”として拾える」
五郎はそう言って、片目をつぶってみせた。
「で、XMASS側で検出されたダークマターの総量的反応もあわせて、意味づけ処理を加えると……こういう“地図”ができる」
アツがぽつりとつぶやいた。
「つまり……“人間の感情”みたいなものが、光るってこと?」
「そう。影が光る――なんて、ちょっと皮肉な話だけどね。“光の地図”は経済の分布、“影の地図”は感情の堆積。つまり、文明の結果とその副作用とも言える。原爆を創って、ついでに眼鏡の原理を発見したオッペンハイマー博士がこれを見たらどう思うか」
五郎はにこりと笑い、背後の画像を一瞥した。
誰かが昨今ニュースで良く聞く地名の辺りが、激しく光っている事に気付き息を飲む。
「俺はこれを“憎悪の可視化”って呼んでる。KAGRAで計った線を、XMASSのデータで面に変えて、表示している。人の怒りや恐れなどの負の精神波の集積がこうやって“ゆらぎ”として世界に刻まれる」
「……でも、これって公開できるんですか?」
キズナの声が硬い。
「できるわけないでしょ? 政府にも、協会にも、“極秘資料”として止められてる。でも――」
五郎は静かに皆の方を振り返る。もう、冗談っぽさは消えていた。
「現場に立ってる君たちには、見てほしかった。君たちが戦っているのは、ただの怪物なんかじゃない。人の感情が、影になって世界を蝕んでるってことを、ちゃんと知っててほしい」
「でも……どうすれば止められるんです?」
アツの問いに、五郎はふっと笑った。
「俺は科学者だよ。止め方なんてわからない。だけどね――」
五郎は目を細め、後ろの壁を指差した。
そこには古びた写真。かつてのトキワ荘の仲間たちが、机に向かってペンを走らせている。
「昔の人たちは、“描く”ことで世界を変えようとした。戦争、差別、災害、哀しみ……。全部、物語にして、人に見せた。考えさせた。……俺は、そういう力を信じてる」
キズナが静かに頷く。「それを、私たちが継ぐんですね」
「そう。だからこそ、次の世代の眼鏡は、“もっとたくさんの人に見える”ようにするべきだと思ってる」
ふと、サチハが顔を上げた。
「……私にも?」
「もちろん。誰にだって、想像力があれば“見る資格”はある。眼鏡はその補助にすぎない」
その言葉に、サチハがゆっくりと目を伏せた。
五郎は最後に、再び画面の“光る影”を見つめる。
「もしも“憎しみ”が可視化できるのなら、“希望”だって、描けるはずだ。……そう信じてる」
*
施設を出る時博士に、鯖江にいる家族に向けたメッセージを託された一行が、神岡の施設を後にしたのは、すでに夕方16:30を回っていた、外に出ると雪は勢いを増していた。
「だいぶ遅くなったが、俺の腕とデリカがあれば、加賀温泉まで一直線だ!」
言葉通りに雪の山道を駆け抜け、あっという間に猪谷から富山まで出た。
が、しかし市街地に入ったところで、スリップ事故が相次ぎ、通行止めの情報が次々に更新されていく。
高速道路は完全に閉鎖。主要な国道も部分的に通行止めが続き、予定していた加賀温泉の宿への道はすべて断たれていた。
キズナは即座にスマートフォンを取り出し、宿に丁重なキャンセルの連絡を入れる。
「申し訳ありません、今日中の到着が難しくなりまして……またの機会に、ぜひ」
なんとか通れる裏道を選びながら、ケンはハンドルを握り直した。
やがて、金沢市街の外れにある古びたビジネスホテルに辿り着く。予約サイトで空室を確保できたのは、まさに幸運だった。
玄関の灯りがぼんやりと滲む中、一同はそっとため息をついた。
「豪華な温泉旅館とはいかなかったけど……屋根があって、あったかいだけで充分だよ」
アツがそう言うと、皆が黙って頷いた。
ご閲覧ありがとうございます。
今回のエピソード16「観測」は、岐阜県飛騨市神岡鉱山に拡がる**地下観測施設群(KAGRA、カミオカンデなど)**を舞台に、人間の感情と“魔”の観測可能性について掘り下げる回です。
描写にあたっては実在する観測施設の科学的データと、それを小説世界の魔や眼鏡の設定に繋げることを意識しました。
エンタメとしての異能バトルの中に、ちょっとだけ科学のロマンを感じていただけたら幸いです。
次回は遠征編後半、眼鏡の故郷福井県鯖江市に到着。「眼鏡」編に突入予定です。引き続きどうぞよろしくお願いします!




