円
器用と脆弱性、そしてやる気。
器用であることは、当然脆弱性を孕んでいる。薄く広く。いや、おそらくこの物言いは正確ではない。脆弱であるから器用であろうとするのだ。順序が逆だ。脆弱であるが故に、器用でなくては生きられなかったのだ。弱いものはすぐ群れる。群れるからさらに弱くなる。本当にそうだろうか? 群れに擬態することはそんなにも良くないことなのだろうか? 器用さの発現であるとは言えないだろうか? 弱いものは集団になる。群れることで自分をいわば液体のように溶かし、集団の動きにピッタリと同化させる事が出来る。この場合、その個体が属する集団が最小の要素となり、弱さを緩和する事が出来る。その点でこの個体は充分に器用であると言える。自分を液体上に溶かす事の欠点を集団を自分の手足のように扱える利点が上回っているとみなせばそれは理にかなっている。こんな面倒なプロセスを踏まなくても、弱い個体が孤立することはまさしく死に直結する事を思えばこのことは直感的に理解されるだろう。そして弱者の取り得る形態は円を描くように段階を踏んで移行する事が予測される。溶解。同化。分離。離脱。融合。脆弱性というのはその段階特有の問題であると言うことが出来るが、それでも付かず離れず我々の背後にひたひたと着いて回るであろうことは想像に難くない。屍を足蹴にし、道を譲られたと思ったら、足に爪弾きにされ、ミートパイを投げつけられる。割れた地面から生えた明日葉を眺め、ほっそりとした指先に従属する。どこまで行っても円を描く。誰のか分からない足跡を永遠に辿りながら。
やる気を出そう出そうとするよりも、やる気がなくったって上手くやっていく方法を模索する方がまだ生産的である。やる気は基本的に後付けに過ぎないのだから。誰にでも分かるように話しなさい。やる気を持ってハキハキと。はぁ? それが何を意味しているか分かりません。分かっても分からなくても何も変わりやしないのに。円環。ループ。輪投げ。ならば、貴方が分かるように話せない私は、私が分かるように話せない貴方は一体誰なんですか? 言葉は適当な言葉で装飾され、実態を覆い隠す為の、自己欺瞞のための装置になり変わる。隠されたものを見失い、ものを忘れ、先送りにし、それが何であったかなんて思い出すことすら無くなるだろう。そういうものだ。正のやる気と負のやる気。つんのめって池にぽちゃんと落下する。明日はきっと雪が降る。起点は常に後ろにあり、道は前にしかない。前へ前へ。それでも前へ。栄光への道行き。……はあ。そんなことだからいつまで経っても自分の尻尾を追いかけている事に気付きすらしないのだ。体たらくにも程がある。本当に? やる気に頼ろうが、頼らなかろうが、行き着く先はどれも似たようなものだ。同じような景色。同じくらいの長さの箸。同じような屏風に描かれた金色の模様。やる気が我等昨今の肝要な主題全てに意味を与えてくれる。そうに違いない。分厚い雲から漏れ出る微かな陽光に照らされる柳。門出を祝福するのは何も自分の尻尾でなくともいいのに。
"going in circles chasing your own tail"