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柴犬との日常のお話です。基本的に犬視点。
恋愛要素は少しだけ。異世界要素はありません。
よろしくお願いします。
わたしの名前はハナチャンという。
どうして分かるかというと、ハナチャン、と呼ばれることが一番多いからだ。だけど、もしかしたらハナコかもしれない。そう呼ばれることも多いから。
「ハナちゃん、今日はいい天気ね」
わたしの名前が聞こえて、歩きながら振り向いて見上げた。彼女はひまり。わたしとずっと一緒にいる人だ。
「やっとゆっくり歩けるようになったね。先週はひどい人だったもんね」
ひまりは目線を上げた。少し前までは並んだ木からひらひらと花びらが落ちてきていたけれど、今はなんだか様子が変わった。花が葉っぱになったみたい。
「桜は終わっちゃったけど、まだ菜の花は綺麗。見て、川の中にカモがいるよ」
わたしはひまりが何を言っているのか、ほとんどわからない。だけど指差す方向には鳥がいる。きっとそれを知らせようとしているんだろう。水に浮いている時には手が出せないけれど、陸で休んでいる鳥を追いかけるのは面白い。わたしに驚いてバササッと一斉に飛び立つの。わたしには羽根がないから空に逃げられてしまうともう追えないけれど、わたしはあれが好き。
ここはわたしたちの散歩コースだ。毎日のように、わたしとひまりはここを歩く。だから道は覚えている。
わたしは草むらに入って用を足した。いつもだいたいそうする。そのあとでなんとなく土をふみふみする。ひまりはわたしを少し遠ざけて、わたしが出したものを包んでいる。
「すっきりしたね」
何を言っているのかはわからないけれど、いつも同じリズムの言葉だ。ひまりは笑っているから、きっと褒められたと思う。
散歩道に戻ってしばらく歩くと、前からお友達がやってきた。嬉しくて駆け出すと、首についているものが引っ張られて、少しぐえっとなる。ひまりとわたしは離れられない。
「あら、タロちゃん。久しぶりね。元気だった?」
タロチャンはわたしより少し大きくて、少しお兄さんだ。いつもおじいさんと一緒にここをゆっくり散歩している。だけど今日は久しぶりだ。わたしは嬉しくて、自然と尻尾が動いてしまう。タロチャンも尻尾を振って、会えて嬉しいって示してくれるんだ。
「こんにちは」
「あぁ」
「桜が終わってしまいましたね」
「そうさね」
ひまりとおじいさんが何かを話している間、わたしとタロチャンは匂いを嗅ぎ合ったり、じゃれたりする。とても楽しい。
「桜の季節はお会いできませんでしたね。どこか別のところを散歩してたんですか?」
「そうだったかね」
ひまりはいつもニコニコしているけれど、おじいさんはあまり話さないみたい。だからわたしがタロチャンと遊べる時間は短い。
「では、また。お気を付けて」
「あぁ」
「ハナちゃん、行くよ」
嫌だよ、まだ遊びたい。
わたしはその場でふんばってみたけれど、タロチャンとおじいさんはゆっくり逆方向に歩いて行ってしまった。寂しい。
仕方なく歩き始めると、少し進んだところでまた別のお友達に会った。わたしよりも小さくて、毛がふさふさのお姉さん。名前はマロン。一緒に歩いているおばさんと同じでいつもツンとしてるけど、本当は一緒に遊びたいんだってわたしは知っている。
「こんにちは、ひまりさん」
「佐藤さん、こんにちは。さっきタロちゃんに会いましたよ。おじいさん元気そうでした」
「あら、それはよかった。ここ数日見なかったから心配してたのよ。体調崩しちゃったのかしらと思って。認知症が進んできちゃったって噂も聞いてたしね」
「私も会えて安心しました。桜の時期は人が多いから、この辺りの散歩を避けてたんですかね? 聞いてみたけれどよく分からなくて。以前と変わらない様子で、ゆっくり、ゆーっくり歩いてましたよ」
おばさんが屈みこんでわたしをそっと撫でる。優しいおばさんで、たまにお菓子をくれる。今日はないみたいでちょっと残念だけど、わたしはおばさんが大好き。
マロンはわたしがおばさんに撫でてもらうのが嬉しくないみたい。またツンとしちゃった。
「おじいさんと老犬、どちらもずっと元気でいられたらいいけどねぇ」
「そうですね、本当に。おじいさんたちに会ったのはついさっきでこの先だったので、佐藤さんも追いつくかも」
「行ってみるわ。じゃあ、またね、ハナちゃん」
おばさんは最後にわたしをひと撫ですると、相変わらずツンとしたマロンと歩いていった。
「さて、私たちも帰ろうか」
まだそんなに歩いていない気がしたけれど、いつもの散歩コースはもうおうちに近い。
「タロちゃんは何歳なのかしら? いつもトボトボ歩いているように見えるから老犬なんでしょうけど、でも毛艶はいいのよね。ハナちゃん、どう思う?」
ひまりがわたしを覗き込んでくるけれど、わたしはひまりの言葉が分からない。どこか寄りたいのかな。わたしはお店の前でも、イイコで待っていられるよ。クリッと首を傾げると、ひまりは優しく微笑んだ。
「ひまりさん、聞いて! 私、見たのよ。タロちゃんがね」
別の日。いつもの散歩コースで、わたしとひまりはおばさんとマロンに会った。マロンは相変わらずツンとしているけれど、今日は気分がいいらしい。遊んであげてもよくてよ? とでも言うように、匂いを嗅いできた。
「こんにちは、佐藤さん。タロちゃんがどうかしましたか?」
「この前の日曜日なんだけどね、私と夫とマロンで青空公園に行ったのよ」
「あの公園、広くていいですよね。私は車がないので、頻繁には行けないんですけど」
「今度乗せてってあげるから、一緒に行きましょうよ。でね、そこにタロちゃんがいたんだけどね、なんと、走ってたのよ。元気よく!」
「えぇっ?」
わたしはお返しにマロンの匂いをくんくんした。マロンは良い匂いがする。おうちの匂いだろうか、わたしとひまりのおうちにはない、お花みたいな匂い。あと猫の匂いがする。マロンの家には猫もいるみたい。
「あのタロちゃんが?」
「そうなのよ。てっきり老犬だと思ってたんだけどね、いつもののんびりトボトボした足取りじゃ、全然なかったの。一緒にいたのはお孫さんかしら、ひまりさんと同じくらいの年代の男の人で、一緒に走ってて。あっという間にいなくなっちゃったの」
「タロちゃん、老犬のわりには毛艶がいいなと思ってたんです。もしかして、実は若いんですかね?」
「そうかもしれないと思ってるの。いつもはおじいさんに合わせてるのかしらね? ちょっと距離があったけど、あれはタロちゃんだったよ。うちの夫もタロちゃんだったって言うから、見間違いじゃないはず」
ひまりが驚いた顔をして、首を傾げている。よくわからないけれどわたしもいっしょに首を傾げると、なぜかマロンも首を傾げていた。
「あっ、噂をすれば」
向こうからタロチャンの匂いがして、わたしは嬉しくて尻尾を振った。タロチャンも気が付いてくれた。いつもと変わらず、のんびりペースでおじいさんと歩いてくる。わたしは早くタロチャンと遊びたくて、そっちに向かおうとして、また首がぐえっとなった。
「こんにちは、おじいさん、タロちゃん」
「あぁ」
ひまりが屈んでタロチャンを撫でている。おばさんが他の子を撫でると嫌がるマロンと違って、わたしはひまりが外で他の子を撫でても別にかまわない。だって家ではわたしだけを抱きしめてくれるから。
「マロンちゃんも撫でさせてくれる?」
ひまりがそっとマロンを撫でる。マロンは、触らせてあげてもよくてよ? とでも言うようにツンと上を向いている。本当は嬉しいんだって、わたしは知っている。
「こんにちは。おじいさん、先日タロちゃん青空公園にいませんでした?」
「そうだったかね」
「私ね、若い男の人といるのを見たんですよ」
「あぁ、孫がね、たまにね、連れてってくれるんだよ」
「やっぱりお孫さんでしたか。いつもと違ってタロちゃん走ってたから、びっくりしたんですよ」
タロチャンはいつも通り穏やかにわたしの匂いを嗅いだ。それから軽くじゃれてくる。今日はじゃれ方がちょっと弱い。たまに強い時があるのだ。たぶん動きたいんだと思う。でもタロチャンの方が大きいから、本気で来られると困ってしまう。普段は優しいんだけど。
「あの、おじいさん。タロちゃんって何歳なんですか?」
「さぁ、どうだったかな……。いつの間にか桜が散ったんだねぇ。この道は桜がとても綺麗なんだよ。ずっと先まで続いててね。若いころはもっと人も多かったんだけど、今はずいぶん減ったよねぇ」
「……そうですね、今年も綺麗でしたね」
ひまりとおばさんが微笑み合っている。こういうときは、もうすぐ「行くよ」って言われるのだ。
「じゃあ、またね。タロウ、行こうか」
「えぇ、また」
いつものことだけれど、もうちょっと遊びたかった。タロチャンは「まぁまぁ」とわたしを宥めるかのように、ゆっくりおじいさんと歩いていってしまった。寂しい。
「おじいさん、今日はよくしゃべってましたね。無口なのかと思ってました」
「普段はあまりしゃべらないんだけど、たまにお話してくれるのよ。どこまでが本当か分からないし、話題がいきなり変わったり何を言っているのか理解できないことも多いけどね」
「タロちゃん、本当は走れるとしたら、いつもはおじいさんに合わせてるんですかね。偉い」
「飼い主のこと、ちゃんと分かってるのね。さっきおやつあげればよかったわ」
おやつ、という言葉が聞こえて顔を上げた。マロンも一緒だ。だけど、残念ながらおやつが出てくる気配はなかった。
「さて、私たちも行きましょうか、マロン」
マロンがおばさんに尻尾を振った。散歩再開の合図なのだろう。
「あっ、そうそう」
おばさんがひまりに顔を寄せ、ニコッと笑った。
「あのおじいさんのお孫さん、なかなかイケメンだったわよ。会えるといいわね」
「えっ?」
「じゃあ、またね。ふふっ」
おばさんは軽く手を振ると、マロンと歩いていった。
「もう、佐藤さんったら……。でもそうね、ハナちゃんも会ってみたいわよね?」
なんとも言えない顔をしたひまりと共に、わたしはおうちに向かって歩き出した。