7
ノエルが昼も夜もなく、ユリを抱えてぼうっとし始めてからもう3日は経つだろうか。
案外にもユリは順調に成長している。
通常、ノエルが管理の難しい植物を扱う時は、幾重にも術式を重ねた研究室で、様々な薬品や魔力を惜しみなく与えて管理する。
だが、べスのやり方はちがう。
植物の持っているその力が最大限に発揮できるように、植物の声を拾って惜しみなく世話するだけだ。
「あ、二番目の根っこにヒゲがでてきましたね。もうすぐ土に植え替えましょう」
べスに叱られてばかりだった魔術院の面々も、少しずつベスの指示に慣れてきたらしい。
今温室にはうつくしい青い蝶が飛び交い、神仙ユリの為に、エズラの手によって藁で編まれたゴザの上にはドラ猫が昼寝中だ。
このゴザは夜にタライの上に被せるために編まれたものだが、昼は使わないので、猫の昼寝に貸してやっても別にかまわないらしい。
ナーランダの頭の上に、熟れた木の実がぽこん、と音をたてて落ちて、べスに大笑いされている。
己のポンコツ具合を苦笑いをしているナーランダは、実に幸せそうだ。
「離れててよ! 見てなさい」
一日に何度も井戸を大急ぎで往復するのがバカバカしくなった横着娘は、その正確無比な事では王国で右に出るものはいないと言われている攻撃魔法を発動させて、温室の真横に、なんと井戸と水源を同じくする小さな泉を掘ったのだ。
「すごいわね、エロイース様。横着も極めると芸術です」
そう目を輝かせて、べスは新しい冷たい水の満たされた泉に足を浸して喜んだ。
「これで汲みたてほやほやの冷たい美味しい水がいつだってあげられるわ。もう二度とべスに横着だとか、トロイとかいわせないわよ」
どうだといわんばかりに、エロイースは自信満々だ。
みな、神仙ユリの人工栽培という大仕事に当たっているようには見えないほど和気藹々と楽しそうに温室の周りでくつろいでいる。
こんな生き生きとして楽しそうな魔術院の皆を、ノエルはこの魔術院を預かってから見た事がない。
いつも皆顔色が悪く、競って成果を争って、いつもギスギスした空気が漂っており、誰もが心と体の不調を抱えていた。
そんなノエルも、神仙ユリの栽培の大仕事だというのに、発芽以来、神仙ユリのはいったタライをかかえて、ロッキングチェアに揺られてぼうっと日の光を追う事しかしていない。
時々べスが様子をみにきて、窓を開けて風を通してくれたり、新しい水を与えたりと、実に細かく世話をするのだが、ノエル自身は何もしていない。何をすべきかわからない。
このユリに己の魔力をなじませる事がなによりも最優先の重要事項であるとわかっているのだが、じっとしていると気持ちは焦り、心は平穏を保てなくなる。
ぼうっと日に当たりながらノエルは目をつぶり、物思いにふける。
(ユージニア王女の命は、この開花に掛かっているというのに)
頭を空っぽにしていると、魂の奥から、いつもは封印している叫び声がゆっくり首をもたげてくる。
急に恐怖と不安、そして呪いのように魂に張り付けられた言葉がノエルの胸に、嵐のように到来する。
この恐怖と不安の魂の奥からの声から逃避する為にも、ノエルは毎日身を粉にして働いていた。
ーお前が死ねばよかったのだ
ーお前は不幸を呼ぶ
ーお前など、なんの価値もない
封印してきた過去の呪いの言葉は、未来の不安を運んでくる。
(もしも花が開花しなければ、ユージニア王女は二度と目覚めない)
過去からも未来からも、苦しみが襲ってくる。胸に穴の開いたような渇きの苦しみでノエルはもだえた。
ノエルが短い睡眠から目覚める時に、明け方に襲ってくる目覚めの苦しみと、同じものだ。
(しばらくしたら、消える)
脂汗が流れる。
一人で歯を食いしばって苦しみに耐えていたノエルの胸が、急にふと、軽くなった。
この発作は、始まればいつもは2刻ほど続く。
だが、今回の発作は実に早く治まった。
(…何が起こった)
ノエルが目をあけると、そこにいたのはべスだった。
べスは窓際に立ち、窓辺にかざっていた水晶の位置を調節しながら温室中を小さな虹で一杯にしていた。
小さな虹は風にあわせて踊り、神仙ユリの上にも七色の光を落として踊る。
べスのいたずらっぽい目線にふと、急に温かく、楽になった胸元をみてみると、そこにはべスの作ったひときわ大きな虹が優しい日の光の温かさと共にうつしだされていた。
「ノエル様。虹ってきれいですね」
べスはからからと、幸せそうに笑っていた。
ノエルの胸にぽっかり空いた穴には、べスによって胸いっぱいに、温かい七色の虹が詰め込まれていた。
「・・ああ、そうだな」
ノエルはもう一度目を閉じた。
呪いの言葉も、不安も恐れも、もうやってこなかった。渇きは、満たされていた。
ゆっくり、遠くから穏やかな波のようにやってきたのは安心感だ。
(大丈夫だ。きっとうまくゆく)
なぜだかは分からない。だが、べスが笑っている。
ノエルは海に身をひたした時のような、絶対的な安心感に身をまかせた。




