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その夜、ノエルはどのようにして温室にたどり着いたのか、記憶にない。
侯爵家の訪問で、魂をえぐられるような思いをしたその帰路、疲労困憊したノエルには、どうしても温室が必要だった。
夜も深い時間であったが、ノエルは侯爵家には泊まらずに、真っ直ぐに暗い温室に向かった。
父の言葉が、ノエルの魂の奥底までえぐりとる。
深く心の底に封印していた呪いの言葉がノエルを襲い、そして命を刈り取ろうとする。
水中にいるかのように、息ができない。
喘ぎながら外套をようやくの思いで投げ捨てると、ふらふらと倒れ込むように、ノエルはソファに倒れ込んだ。
温室の天から、やさしい月明かりが差し込んで、ノエルの頬を撫でる。
ソファから立ちのぼるいつもの薬草の匂いで、ノエルはようやく深い息をはいた。
ー生きているー
深夜だ。ベスは当然もう寮に帰って、今は眠りの世界にいるのだろう。
ベスどころか、人の気配も全くしない。
月明かりだけ差し込む真っ暗な温室だが、ノエルは孤独は感じなかった。
温室にはたくさんの植物が、思い思いに息づいていて、温室は生の喜びで満たされている。
植物の呼吸を感じる。小さな生き物の命の営みを感じる。
夜行性の小さな魔獣が、一匹、二匹、ノエルの横を掠めて行った音がした。
貴重な薬草の葉の部分を食するので、駆除するようにベスに言ったことがある魔獣だ。
ベスは、少し齧られた事がある株の方が植物にとっては良いから、と言って全てを温室から駆除する事は拒んだ。
そして、ベスの言う通り、齧られた箇所のある薬草は、齧られていないものと比べて質が上がった事は驚きだった。
ノエルは体を翻して、空を見あげた。
空には月と、そして満天の星空が広がっていた。
(あの魔術の、ようだな)
ノエルは目を閉じて、ベスに魔術を披露したあの夜を思い出した。
ノエルにとってはただの信号魔術だが、星空が降ってきたようだと、歓喜の涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたベス。
大きな目は涙でいっぱいで、鼻水まで流して感動していた。実にみっともない、だが世界で一番宝石のように美しかった、ベスの泣き顔。
ノエルはベスの顔を思い浮かべて、微笑みが溢れる。
闇は、いつの間にか溶けてゆき、ノエルはいつの間にか、深い眠りに着いていた。
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「ノエル様、おはようございます、朝ですよ」
ノエルがゆっくりと目を開けると、そこには満天の星空ではなく、柔らかな朝日で生まれた小さな虹と、小鳥の囀りと、満面の笑みのベスがノエルを待っていた。
(…そうか、俺は生きて戻ってきたのだな)
闇の世界からノエルはまた、帰ってきたらしい。
ノエルが重く苦しい夜と一人で闘っていた事などまるで無かったかのように、のんびりとベスは続けた。
「今日は天気がいいですね!あの子見てたらなんだかバナナマフィンが食べたくなって、今日は焼いてきたんですよ。後でハーブティーと一緒に持っていきますね」
ベスが満面の笑みで指をさす薬木の若木の足元には、ちょっと見ないほどに大きなバナナなめくじが気ままに這いずり回っていた。
ノエルはベスの指差す方向を見てギョッとしたが、田舎娘のベスにとって、虫などどうと言うものではないものらしい。
バナナなめくじは、魔虫の一種類で特に害はないが、熟れたバナナのような見目で、見た目が良くない事から花園では駆除対象だ。
ベスは構わずそのままにしている。
それどころか、何やらベスはなめくじに赤い実を与えて、なめくじは身をよじって、赤い実をもらった喜びを全身で表して、好き放題巨大に育っている。
なめくじであろうが、植物であろうが、多少害のある魔獣であろうが、この温室では皆幸せそうにのびのびとしている。そして薬草の仕上がりは皆、S級ばかりだ。
ーここでは、私もなめくじも、ただの命だ
ノエルはなめくじを眺めながら、この醜いとされる生き物に、柔らかな共感を覚えた。
心の何かがゆっくりと、溶けてゆくのを感じていた。
ここであれば、ノエルを苛んでいた言葉の呪いから自由になれる。
ー無駄に高い魔力は全て家の役に立たねばならぬ。
ーお前は優秀でなければ生きている意味がない。
ー決して努力を怠るな。国家のために殉じよ。
ーお前が生まれた罪を、償え。
魂に刻まれていた呪いの言葉は、ベスの笑顔の前にかき消されてゆく。
この温室に言葉は必要ない。ベスにとって、言葉は重要なものではない。
ベスであれば。この温室であれば。
本当は少女のように花を愛でるのが大好きだった少年時代のノエルも、雷が恐ろしくて、部屋のすみで怯えて泣いていた意気地なしのノエルも。
ーベスなら、きっと笑って受け入れてくれるのだろう。
ベスの入れてくれたハーブティーが、五臓六腑に染み渡る。
そういえば昨日から何も口にしていない事に今、気がついた。
(ベスの元で、我々は幸せだ)
遠くからバナナマフィンの香ばしいか漂ってくる。




