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ついでに一緒に食事を終えたベスとノエルは、もう真っ暗になった魔術院の廊下を二人で歩く。
月明かりが二人を照らし、長い影を形どる。
(そういえば、最初にここに放り込まれた時以来ね、夜にここを二人で歩くの)
あの日はべスの方を振り向きもせずに、勝手にすたすたとベスの先を歩いていたノエルだが、今日はべスに歩調を合わせて、二人は横に並んでゆったりと歩いている。
少しべスはその距離にくすぐったい思いがわいてくる。
(横顔・・とっても綺麗)
整ったノエルの横顔を見上げて、べスはなんとなく、あの夜をふと思い出し、赤面してしまう。
あの夜。ノエルはベスを強く抱きしめて、長い間闇の世界に二人きりだった。
お互いの存在が、世界の全てだったあの夜。
それ以来、二人ともその夜のことにまだ触れずにいる。
言葉にするには淡すぎる、そして二人の間に芽生えたばかりの、大切な何か。
闇に誘われて、あの日の夜がベスの心の柔らかい部分を掠めていった。
ゆっくりと、その思いが育って、形になって、そして言葉になっていくのを待っている。
二人は焦って言葉を探したりしない。
廊下を越えて曲がり角を曲がると、競技場はすぐそこだ。
魔術の模擬試合に利用されているその場所は、空中や観客席に幾重もの対魔法の結界が張られており、新種の魔術の実験にもよく利用されている、魔術的には実に贅沢な場所だ。
数世代前に隣国と戦争があった際に、魔法部隊が編成された時の魔法軍の修練場所の名残だという。
「危ないから少しそこにいてくれ」
それだけいうと、ノエルはべスを広場の観客席に残し、一人ですたすたと競技場の真ん中に歩いていくった。
そして競技場の中央にいくつかの魔石を転がした。
魔石を媒体に、大掛かりな魔術を展開するとか言っていたのだが、ベスには何一つノエルの言っている事がわからなかった。
「そこで見てろよ」
小さくノエルは微笑むと、ゆっくりとなにかを詠唱しはじめた。
ノエルは体の中の魔力を紡いでいる様子。
銀の髪は光を帯びて宙に舞い、ノエルの黒いローブは魔力によってかき起こされた風によってはためく。
整ったノエルの横顔が光を帯びてくるのが見える。
ノエルの美貌は青白い魔力に照らされて、まるで月の女神のように輝く。
ベスがその美しい姿に見惚れている間に、競技場全体が光に覆われて、ノエルは魔術を発動させた。
「ドン!!!!!」
耳をつんざくような大きな音の後が競技場一面に響いた
思わず頭を低くして丸まっているベスに、ノエルは近づいていきその肩をそっと抱くと、
「ほら、みてみろ」
そう言って、ニコリとほほ笑んで、空を指さした。
「すごい・・すごいわノエル様!!」
そこに見えたのは、空一面の流れ星だ。
擦り切れるほど読み込んだ、大切な物語のシーンがべスの心に浮かび上がってくる。
べスは産まれて初めて見る、大がかりな魔術の想像を超えた美しさに涙が止まらない。
ベスの想像力という名の小さな井戸からは、汲み切れる事のないほどの、美しさだ。
(そう、この後魔術師様と姫君の心が通じあって、二人は恋に落ちて、それから・・)
口のきけない、耳の聞こえない祖父と、言葉の通じない外国の赤ん坊や子どもたちとの生活。
日々の生活でベスは言葉に飢えていた。
忙しい日々。何もない田舎での、何もない暮らし。
決して不幸ではなかった。だが。そこには言葉はなかった。
ベスの暮らしの中でのたった一つの喜び。
それが言葉という宝石の織りなす本の世界がくれた、想像の翼だった。
紡がれる言葉を読み解くと、そこには田舎者のベスには見たことも聞いたこともない美しい世界が、美しい言葉で綴られている。
この世の光という光を集めたような美しさであるという魔術を使い、物語の魔術師は縦横無尽に世界をかけ、美しい姫君と恋に落ちる。
ベスは時には物語の主人公である魔術師に思いを馳せ、時には姫君になりきり、小さな粉挽小屋の片隅から想像の翼を広げ、広い世界へ冒険に出ていた。
どんな辛い朝が来ても、どんな悲しい夜が来ても、ページを捲ればそこには別の世界があった。
強く美しい魔術師が、冒険の旅にベスを誘ってくれた。
この魔術が使われる場面。
魔族の王に攫われた姫君の命を守るために、魔術師の、一か八かの命を賭けた大魔術を発動させた、物語のクライマックスだ。
たった一人の祖父が天に召されたあの日。
葬式が終わってベスはたった一人で粉挽小屋に帰ったあの日。
沈黙する暗い家で、孤独に泣き崩れた、一人ぼっちになったベスには、だがページを捲ると、そこにはいつも通り、勇敢な魔術師がベスを待っていてくれた。
「さあ、勇気を持って人生に立ち向かうんだ。世界は恐ろしい場所ではない。世界は美しい。私はあなたを決して一人にはしない」
絶望する姫君に、魔術師がかけた言葉。
そして恐ろしい魔族に立ち向かって、魔術師が命をかけて放った大魔術。
魔術で作られた星々は流星のごとく魔族の王に振り、姫君を救う。
そして自らの為に魔術師が命を賭して放たれた大魔術を見て、百合のように美しい姫君は、人生に立ち向かう勇気を得るのだ。
「「私はもう、恐れません。貴方が私と共にいてくれるから」」
べスは思わず、姫君の言葉を口にしていた。
たった一人で塔に囚われていた不遇の姫君。
孤独な姫君は、魔術師の真実の愛を知り、そして恐れを手放した。
その瞬間に姫君は内なる聖なる力を覚醒させ、魔族を消滅させて、国は救われるのだ。
うっとりと、ベスは涙をこぼす。
「空気中の魔素が、私の魔力に反応するように仕掛けたものだ。信号魔法の一つの、大がかりなものだがそう難しい仕組みではない・・ってお前、泣いてるのか??」
ベスはビリビリとまだ魔術の影響で空気が電気を帯びているノエルの胸に真正面から飛び込んで、そして大粒の涙を流して、言った。
「ノエル様、ありがとう。私と一緒にいてくれて、ありがとう」
(世界は・・きっと、美しい場所なんだわ)
目の前の銀髪の魔術師の姿が、ベスに寄り添い続けた物語の魔術師の姿に重なって見える。
どんな孤独な夜も、どんな悲しい朝でも、ページを開くと、ベスを冒険の世界に誘ってくれた偉大な魔術師。
ベスは物語のお姫様のように、美しくもなければ、尊くもない、ただのベスだけれども。
「おい、泣くなよ・・ただの信号魔法だ・・」
ノエルはノエルのローブにしがみついて泣くべスに困惑しながらも、そっとその手をべスの肩に回して、優しく抱きしめた。
競技場の夜空には流れ星のように美しい魔術が広がる。




