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「べス、か」
すっかり夜になっている。
額には、濡れた布がおかれていた。
よい香りがする。ラベンダー水だ。ゆっくりとノエルが体を起こす。
昼も休んでいたソファの上でそのまま夜まで眠っていた様子だ。
口の中にまだ甘味を感じる。
同量の黄金より貴重だと伝えたばかりのはちみつを、全くの躊躇なくノエルの口にねじ込んだ、べスの顔が思い出される。
ハチミツは臨時収入として数えると、伝えているはずなのに。
(こんなに眠れたのは、思い出す限りはじめてだ)
ノエルはじっと手を見る。
ノエルは完全に心も体も満ち足りた事を感じ取った。
魔力も完全値まで回復している。さきほどのはちみつの威力だろう。
この数年苦しんできた不眠の苦しみの全てが、たったこの数時間で溶けて行った。
力がみなぎる。頭がはっきりと、世界を認識する。
「ノエル様。目が覚めましたか。大丈夫ですか」
遠慮がちに温室の扉が開かれ、ひょっこりとホットミルクとビスケット、それに明かりを手にしたべスが顔を出した。
眠る前に様子を見に来たのだろう。
べスの姿は寝間着の上にガウンをひっかけたような、簡素な恰好だ。
いつもおさげにしている髪もおろされていて、一つにまとめられている。
「・・・ありがとうべス。よく休めた。こんなに休めたのは、生まれて初めてかもしれない」
夜の温室に足を運ぶのは初めてではない。
だが、こんなに夜の植物の吐息を身近に感じた事はないし、こんなに植物が心を近くに近づけてくれたように、感じた事はなかった。大きく息を吸い込むと、ノエルは生き返った気持ちになる。
べスの並べてくれたホットミルクに手をのばす。
やさしいホットミルクの味が、ノエルを慈しんでくれる。
「ありがとう」
ノエルはべスの目を見て、礼をいった。
べスは少しほほえむと、小さく蛍光に発光する蛍草の花をちょん、とさわって、
「この子達が、ノエル様を休ませてくれたんですよ」
そう愛おしそうにつぶやいた。
蛍草は魔方陣を敷く際に印として利用する塗料として、栽培している。
ノエルにとってそれ以上でもそれ以下でもなかった、このどこにでもある植物の事が、急に尊く感じる。
そういえば、この小さな草には、とても小さな催眠効果があったような気もする。
ノエルは、座りなおしてべスに向かっていった。
「べス、本当に助かった。私に食べさせてくれたはちみつの量と同じ量の黄金をお前に用意する。そもそもあのはちみつはお前の臨時収入にする予定だったものだ」
べスはあまり興味がなさそうに、自分用のホットミルクを飲みながら言った。
「お気持ちは嬉しいですけど、あの温室にある全てのものはノエル様のもので、私の仕事は元気にみんなが育つのを助けているだけです。だからあのはちみつは、そもそもノエル様のものですよ」
「だが・・それでは私の気がすまない」
大匙にして3杯もの魔蜂の蜜だ。
同じ量の黄金は、べスの読み込んでいる大切な冒険譚の全シリーズを揃えても、大きな額のお釣りがやってくるほどの額となる。壊れかけの水車を外国製の最新のものに替える事だって、できるだろう。
だが、べスはなにもいらないわ、と言い、そして続けた。
「ノエルさまが元気になってくれて、私嬉しいもの」
はにかんだように照れるべスの嬉しそうな顔をみてしまい、ノエルはなんだか遠い所に気持ちが飛んでいくのを感じた。
そして。
言葉にならない思いが遠いところから、込み上げてくる。
心の奥の、魂の奥の、もっと向こうの、遥かかなたから湧き出てくる思い。
言葉では掴まらない、もっと淡い思い。もっと不確かで、そして輪郭を持たない思い。
青い月明りが温室の中を照らす。
月の明かりを喜ぶ植物たちの息遣いが聞こえてくる。
夜行性の蛍草が、小さく光を放ちながらそのすずらんのような花びらを震わせている。
「ねえノエ」
言葉にできない衝動に駆られて、ノエルは思わずベスを胸に引き寄せると、力一杯抱きしめた。
心の中にインクのシミのように小さく広がっていた小さな思いは、もう気のせいでは済ませられない。
インクのシミは大きな巨大な大きな渦となって、ノエルの心を飲み込んでゆく。
驚いてノエルの腕の中で、ノエルを見上げるベスの大きな瞳に吸い寄せられて、ノエルは氷の魔術に囚われたかのように、ベスの瞳から目を離すことができない。
息ができない。苦しい。そして、甘い。
二人は迷子の子供のように、たった二人で夜の世界に立ち尽くしていた。