67
それからしばらくしてからの、ある秋の日の、遅い朝。
ノエルとベスの館にて。
今日はとても天気が良い。
抜けるような青い空には雲一つない。
今日は久しぶりに仕事は完全に休みだ。来客も断った。
誰も勝手に館に入ってこれないように、玄関には魔法でしっかり鍵までかけている。
(ようやく久しぶりにゆっくりできる)
ノエルは大きなあくびをした。
庭の木々は黄色や赤の美しい色合いを纏い始めた。
冬ごもりの準備で忙しいリスたちが、ノエルの前を忙しく走りゆく。
ノエルは寝坊をした寝巻きの姿そのままで、着替えもせず庭に出て、ベスの入れてくれたコーヒーを飲んでいた。
ずっとここしばらく目が回るほど忙しい日々を過ごしていたのだ。
今日くらいはゆっくりと可愛いベスと二人で怠惰な1日を過ごそう。
べスを独り占めにできたのは、もう思いだせないくらい前だ。
そう思ってノエルは新聞を片手に、庭の椅子に座っていた。落ち葉がひらりと、新聞に音もなく落ちてくる。
新聞にはフェリクスの活躍が日々大々的に報じられている。
アビーブ身分制度の撤廃の宣言の後、今度は貴族院に、身体や精神の状態が完全には整っていない人材に対する人材発掘の法案の原案を出したらしい。
(・・危うくラッカのような人材を見逃すところだったからな)
懐かしいラッカの顔を思い出す。
ラッカは結局は村の居心地がよすぎて、そのままあの村でゆっくりと余生を過ごそうとしていたのだが、そうは問屋がおろさない。
いきなり高級リゾート地した村には、観光客の為の娯楽が圧倒的に足りておらず、みな忙しい。
そういう訳で演劇にも音楽にも造詣が深いラッカは、急遽あちこちから人材を集めてきて発足した、「アビーブ・アーク演劇団」の芸術総監督を村人からおしつけられてしまっているそうだ。
人手不足の劇団の事、時々役者が足りなくなると、ラッカは自分でも舞台に役者として上がったりもしているらしく、これがどうしてどうして。実に悪役の演技の評判がよいとかなんとか。
しかも、メイソンによるとラッカはただ今なんと劇団員の外国から来た美しい女優の一人といい感じになってるらしく、しっぽりと温泉を二人で楽しんでいる所がよく村で目撃されているらしい。
「私も王太子について王都に帰らずに、村に残っていればよかった」とメイソンは一人ごちているそうだ。
ノエルがゆっくりと新聞でフェリクスの活躍を読んでいると、庭の垣根の外に、見慣れぬ影があるのが見えた。
「郵便でーす」
庭の垣根の外側に、大きな郵便物を手に持った愛想の良い郵便夫が気配もなく訪れていた。
ノエルの眉がピクリと動いた。
一見するとなんの変哲もないこの男は、人間ではない。
人造人間のオート・マタだ。何かがあったのに違いない。
「やあ、ありがとう」
ノエルは穏やかに郵便夫に笑顔を返してその後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、すぐに魔術を展開して、防音・視覚撹乱・防御の三重の結界を張って郵便物を開封した。
郵便は、王家の紋の蝋封が押されていた封筒だった。
「ベスの出自に関する報告書」
中に入っていた報告書の表紙にはそう記載されており、エズラと、フェリクスの二人の連名のサインが入っていた。
ノエルは何事もなかったかのように椅子に座りなおすと、太い束になった書類をパラパラとめくってゆく。
幾つもの項目に分かれている立派な報告書は、随分とアビーブの国力を割いて作成したものである事が伺える。
最初の項目は、多肉植物に関する報告。
(あの黄色い実の植物の名はエリザベス、と言うのか)
報告書によると、最後までよく正体がわからなかったあの黄色い実をつける植物は、エリザベスという名前の東の国からの外来種だという。
一人の女性によって彼の地にもたらされたといい、その女性の名がそのまま植物の名になったが、東の国ではすでに絶滅しているそうだ。
魔術院にも持ち帰ったが、魔術院の植物の専門家をもってしても、よく正体が見えない植物なのだ。
ノエルは報告書を読み進めてゆく。
報告書は、ジア殿下の鏡の映像に写っていた、ジア殿下の隣にいた女性についての項目に移った。
女性の名が判明した。
メアリーアン。当時アビーブよりも国勢が強かった、東の国の高位貴族の娘だ。
ジア殿下とメアリーアンは当時結婚を誓い合った恋人関係にあったという。
報告書によるとメアリーアンは、アビーブでジア殿下の子供を産んだ後東の国に帰って別の貴族の男と結婚したらしい。
当時の貴族女性には、それ以外の生きる道は用意されていなかったのだろう。
泣いてジア殿下を探し森を彷徨うメアリーアンの姿を思い出し、ノエルの胸は痛くなる。
ジア殿下とメアリーアンの関係は、婚約の破棄という形で公文書上処理されていた。理由の項目には、別の縁談の決定とあった。
次の項目には、ジア殿下とメアリーアンとの間にできた子供のその後の消息が記されてあった。
ノエルはゴクリ、と唾を飲み込んでページをめくった。
ジア殿下の忘れ形見の子供はその後、アビーブ王国で養育された訳ではなく、メアリー・アンと共に東の国に帰ったらしい。当時のメアリーアンの出国手続きの書類に帯同する子供の存在がうかがえる記載があった。
名前も不明。消息も不明。
性別だけは当時のアビーブの雑貨屋の記録から判明した。
その年のその時期だけ、赤ん坊の女児用の服やぬいぐるみが相当数販売されている事から、子供は女児だと思われる。
当時のアビーブ王族は、よほどジア殿下の存在を歴史から抹消したかったのだろう。
通常であれば、王族の貴顕はどのような形であれども王家で大切に保護されるものだ。
だがメアリーアンが産んだこの子供の記録はアビーブ王国にはどこにも存在しなかったと、報告書に書いてあった。
そこでノエルは思い至る。
(・・もしもベスがこの赤ん坊の子孫だとしたら・・。まさか、チェンジリングの子供達の共通点とは)
チェンジリングの被害に会う子供の共通点はよくわかっていない。
金髪碧眼で、見目の良い子供が被害に遭う確率が高い事は有名だが、ベスの場合はその限りではない。
何度かオベロンに聞いてみたのだが、「妖精達の気まぐれだ」とだけしか答えなかった。
ノエルは長い報告書を一度閉じた。
(少し心を落ち着けて考える必要がある)
ため息をついて椅子に腰掛けなおすと、封筒の中には報告書とは別に、美しい紙の封書が入っている事にノエルは気がついた。
封書を開けてみると、そこにあったのは、それはフェリクスからノエル宛の長い私信だった。
(・・・)
読み進めるうちにどんどんとノエルの機嫌が悪くなってゆく。
イライラとノエルのこめかみに青筋が立って、冷たい魔力が漏れ出す。
殺気を帯びたノエルの魔力に怯えた庭の小鳥たちが、一斉に庭から空へ飛び立ってしまった。
そして最後、全ての内容を読み終わると同時に、ノエルはそのまま魔力で指から炎を出して、忌々しそうにアビーブ王国の王太子からの私信を灰にした。
フェリクスはノエルに私信が灰にされる事は想定内だったのだろう。
灰の中からグルグルと転移魔術が発動して、東の国の王へのフェリクスからの紹介状と、新しい白いカードが出てきた。
「一度考えてみてくれ。F」
カードにはそれだけ書かれていた。
ノエルは灰の中から東の国の王への紹介状を拾うと、チ、と高位貴族にあるまじき舌打ちをして、今度はカードを黒い炎で焼き払った。
(ベスは俺の婚約者だ。ベスはやらん)
せっかくののんびりした秋の日の遅い朝を楽しんでいたと言うのに、フェリクスのせいでノエルのイライラもは最高潮になってしまった。
こういう時はベスの顔を見るに限る。
ノエルは台所で昼ごはんを作っているベスの鼻歌まじりの後ろ姿を、眩しく眺めた。
トントン、と良い音を立ててベスが切っている野菜は、さっきノエルが庭で収穫したべスが育てた野菜だ。
ベスは手元の料理で忙しいらしい。ノエルに振り返りもしないで、のんびりと言った
「ノエル様、さっきは郵便屋さんですか? 今日はお休みの日なのに、珍しいですね」
先ほどまでイライラが最高潮だったノエルの頬が、ゆっくりと緩む。
(幸せだなあ・・)
アビーブでの仕事がこれほど長くなるとはノエルは予想だにしていなかった。
お陰でアビーブでの長い仕事から帰ってきたら、魔術院の仕事は相当溜まってしまっていたのだ。
その後処理だけでも多忙を極めていたのだが、温泉の話が羨ましくなったロドニーやエロイースがぶうぶう文句を言うので、この館の風呂をベスに整えてもらって存分に入らせてやったり、他にもユージニアに事の次第の報告書を出したり、アビーブからなかなか帰ってこないエズラの妻のご機嫌を伺ったりと、帰国後も二人はなんだかんだで大忙しの日々だったのだ。
こうしてようやく二人だけの静かな一日を過ごす事ができて、ノエルは幸せを噛み締める。
(ああ、俺はやっと愛しいベスを独り占めできる)
ノエルはそっと料理をしているベスに近づいて、後ろから抱き締めると、言った。
「なあベス、今度は落ち着いたら、二人きりで東の国に旅行に行こうよ。イー・ハンの母のモン・リンの親族が秋祭りでエズラ様の山車を見たらしくて、エズラ様に連絡してきてくれたらしいんだ。挨拶がてら、今度は二人でゆっくり東の国を観光旅行しようよ」
少しだと思って旅行に仕事を入れてしまったから、今回はこんな大変な目に遭ってしまったのだ。
2度と同じ過ちは犯さない。
「あ、よかった! 山車を見にきていたのね」
ベスは顔を輝かせた。
「ああ。イー・ハンが大切に葬られている事を知って、モン・リンはとても喜んでるそうだ」
ノエルは、ポケットにあるフェリクスからの東の国の王への紹介状の存在を感じながら、べスをそっと抱きしめた。
「東の国はね、海がとても綺麗で、海の幸が最高に美味しいんだ。ベスは蟹はサワガニしか食べた事はないだろう? 海にはサワガニの10倍は大きな蟹がいて、他にも棘だらけの石のような生き物もいる。見た目は悪いが中身はねっとりしてとても美味いぞ。モン・リンに会いにいくがてら、たくさん海の美味しいものを食べに行こうよ」
「へえ!海は聞いた事がありますけど、生きてる生き物も川とは違うんですね。大きなカニも食べてみたいです。行ってみたいな!」
ベスは筋金入りの田舎娘だ。海など見たこともないし、海の生き物など、本でしか読んだことはない。
キラキラと目を輝かせている可愛いベスの笑顔に、ノエルは心が温まる。
(今度は絶対に、仕事は入れんぞ。誰も連れて行かん。俺は次の旅行は、ちょっと調べものが’終わったら、ベスと二人っきりで海の美味いものを食べ回るだけの観光旅行にしたいんだ)
心で色々誓っているノエルの鼻腔に、良い香りが漂ってきた。
「ノエル様、お待たせしました。お腹空いたでしょう。お昼ご飯できましたよ。今日は卵焼きと野菜炒めですよ」
ベスの作る素朴な庶民の昼ごはん。
だが、それは贅沢でこそないが、絶妙すぎる焼き加減と絶妙すぎる塩加減の最高の卵焼きと、さっき収穫したベスの育てた最高の品質の野菜で炒めた絶品の野菜炒め。
ベスは緑の指を持っていると言われているが、ノエルは、ベスが持っているのはもっと素晴らしものだと思う。
(ベスは、黄金の手を持つ娘だ)
ベスが触れると、日常の何気ない全てが黄金のように輝きだす。
ベスが入れればその風呂は癒しの泉に早変わりし、ベスが卵を焼くだけで、この世で一番うまい食べ物となる。
ベスが植物を育てたら、どんな植物も命の喜びに溢れ、ベスが整えた空間は、魂の安らぎの場に生まれ変わる。
ベスがそばにいるだけで、ただ生きている事すらが掛け替えのないものだと感じるようになる。
己の運命を呪って生きてきたノエルは、ベスと結ばれた今、ベスと一緒に歩む未来の幸福への期待でクラクラするほどだ。
手続きが終わったら、ベスは、正式にノエルの妻となる。
魔術院の温室で、ごく身内だけで小さな式を挙げる予定だ。
べスは子供が好きなので何人でも欲しいといっているし、この旅行が終わったらゆっくり二人になる事も少なくなるだろう。
庭に走り回るノエルによく似た元気な子供達と、幸せそうにそんな子供を追いかけまわしているべスの顔を思い浮かべて、おもわずノエルの顔はだらしない笑顔になる。
(全ての憂いは、先に全力で潰す)
ノエルは、寝巻きについてしまった先ほどの手紙の灰をパンパンと払うと、
「ありがとうベス、愛してる。君と婚約出来て、君の作ったご飯を食べる俺は世界で一番の果報者だよ」
「いつも大袈裟ね、ノエル様! はいはい私も愛していますよ。さあ冷めないうちに早く座ってください」
ベスに呆れられながら、いそいそとベスの昼食が待つ幸せなテーブルにノエルは何事もなかったかのように歩いて行った。
ー緑の指を持つ娘 温泉湯けむり編 了ー