62: 閑話休題1
閑話休題:料理人イワンの独白 1
「私は料理が好きすぎて、料理をするのではなく私自身が料理そのものになりたいのです」
王都の憲兵の取締室でのイワンの発言は、王都を揺るがした。
パンとして焼かれる気持ちになってみたいと、裸でパン屋の釜の中に忍び込んで、イワンが憲兵の御用となった際の発言だ。
それ以前にも娼館という娼館で、女達と戯れるより自分の身体中クリームだらけにして、女達に頭の上にさくらんぼの蜜漬けを載せてほしいと懇願しては、きみ悪がられていた、筋金入りの変態だ。
他にもありとあらゆる奇行を重ねて王都にはもう住めなくなって、追われるようにこの僻地にたどり着いた。
元々は王都の大貴族の邸宅でのお抱え筆頭料理人だったイワンは、そういうわけで、流れに流れて現在では離宮の通いの料理人をしている。一応腕は間違いはない。
こんな鄙びた田舎で、フェリクスの為だけに料理をする日々が始まってからどのくらいになるだろう。
イワンは、自分の嗜好のせいで、家族から勤務先から、ありとあらゆる方面で迷惑をかけてしまった。
老いた両親は今は肩身が狭そうに後ろ指を指されながら引きこもって暮らしている。
嫁いだ妹は嫁ぎ先からは大切にしてもらっているので、決して兄にも両親にも会うなと言い含められているという。
イワンは、懲りた。
心底懲りた。
料理になりたいなどと言う歪んだ欲望は墓まで持ってゆく、そう誓って、死ぬまでひっそり生きていくつもりで、この田舎の鄙びた温泉の村で静かに暮らしていたのだ。
(2度と、やらないと決めていたのに)
変態という生き物は、どれほど強く自らを戒めても、どうしても抗えない欲求に逆らえないから変態と呼ばれる。
変態につける薬は存在しない。
ある日イワンがいつも通りに王太子の昼食を作っていると、離宮の温室で、ここのメイドの恋人のロベルトが、小さな蒸し風呂を作っているのが見えた。
この男はいつも親切な男で、一人暮らしのイワンの家に自宅で作った漬物を持ってきてくれたり、親戚の集まりに呼んでくれたりする。
その日はいつもの親切のお礼のつもりで、イワンはロベルトに海からの粒子の荒い塩のつぼを台所から持って行ってやった。
蒸し風呂の中で、体を擦るのに気持ち良いだろうと、そう思ったのだ。
ロベルトは嬉しそうに受け取ってくれた。
蒸し風呂はほとんど完成しているらしく、中はもう蒸気を出す試運転を始めた模様。
オリビアも中にいる様子だ。仲の良いことは良いのだが、仕事はいいのだろうか。
そんな心配をしていると、中から二人の楽しそうな笑い声と、そして声が聞こえた。
「まるで料理にでもなった気分だ」
思わず蒸し風呂の中を覗くと、蒸気に蒸されながらオリーブオイルを体を塗りたくったオリビアと、塩で体を擦ったロベルトが、お互いのみっともない姿を見て可愛らしく笑い合っていたのだ。
その一言でイワンは振り切れてしまった。
(料理になりたい)
心の奥に封印していた思いが頭をもたげ、死霊のようにイワンの心に蘇ってきてしまう。
蒸し蒸しした蒸し風呂はまるで上質の木のせいろの如くで、イワンの目には眩しかった。
ご丁寧にとても良い薬味になりそうな上等の薬草を吊るしてあって、実に旨い蒸し料理になれそうなのだ。
最近ここにやってきた魔術師の婚約者の娘が中で色々植物の世話をしているのだが、あり得ないほどこの娘が作った野菜も薬草の類も良い出来になるのだ。
(こんな良い薬草で、低温でじっくり蒸されたら)
その日、フェリクスのために作った夕食は、海藻で包んだ魚の蒸し焼きだった。
海藻の旨味がしっかり魚に移って実に旨い。
行商人が背のたけほどある大きな海藻を干したものを、売れ残りとかで安価で大量に譲ってくれたのだ。
この辺りではあまり海藻は売れないらしく、行商人は当てが外れたらしいが、代わりにこの地の特産物である軽石を大量に仕入れて帰っていった。王都では高く売れるそうだ。
フェリクスは珍しい料理を喜んで食べてくれて、その日イワンはいつも通り帰宅の途についた。
(眠れない)
眠る前に少し飲みすぎたのが良くなかったのかもしれない。
頭から、あの温室で、あの薬草に蒸されて旨そうな料理になりたいという欲が離れないのだ。
我慢が限界点を超えたらしい。
真夜中だというのにイワンは自宅から飛び出して、ふらふらと幽鬼に憑かれたように離宮の温室にたどり着くと、ロベルトが今日試運転していた蒸し風呂にたどり着いて石を温め蒸気でいっぱいにした。
(ほう・・ただの石かと思えば、これは溶岩を使っているのか・・)
実に旨いものの事を分かっているではないか。
イワンの心は沸き踊る。
蒸し風呂の中は、毛穴から全ての悪いものが出そうな実に良い薬草の香りでいっぱいになる。
(ああ・・俺は実に旨い蒸し焼きになりそうだ・・)
イワンはもう、何も考える事はできなかった。
料理を愛するがあまり、料理になりたいこの一流の変態料理人は、海の町から仕入れた荒い塩を自分の体に揉み込んでみた。
そして己の仕事場である台所に忍び込むと、その日の夜にフェリクスに出した料理で使った大きな海藻を引っ張り出してきて、この日の魚のごとく自分の身体中に巻き付けて、蒸し風呂で自分を低温で蒸していた。
(ああ・・なんと心地よい・・なんと旨そうな・・)
イワンはじっくりと汗ばむほどの低温の蒸気にむせながら、幸せだった。
そして酔いが回ってきたらしい。そのまま、イワンは蒸し魚になった気持ちのまま、蒸し風呂で眠ってしまったのだ。