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遠くで水しぶきの音と、女の声がきゃあきゃあと上がったのが聞こえた。
「ああ、フェリクス様向こうのお風呂も見えますか? 藤の四阿の所にヒノキ風呂も作ってもらったんです。ナーランダ様がどうしてもヒノキ風呂が必要だと力説するので作ってみたら、村のお母さん達に大人気です」
フェリクスが立ち上がってべスの指差した方向を見てみると、べスが藤棚の四阿にしようと手入れをしていた場所の地面を掘削して、かなり大きなヒノキの湯舟が設置されていた。
(いつのまに・・)
藤は順調に、よく育っている。
春になれば満開の藤棚の満開の紫の花の下で花見風呂が楽しめるのだろう。
(春になったら、この温室はなんと美しい光景になるだろうか)
春どころか、明日がやってくる事にすらも今までなんの感慨も抱いていなかったフェリクスは、今、藤の咲く春が待ち遠しく、満月の月の夜が待ち遠しくて、心が震える思いだ。
「ええ、この国の豊かな風呂文化にヒノキ風呂が含まれていないなど、国家の損失だと思いましてね」
ナーランダが少し恥ずかしそうにそう言った。
どうやらフェリクスにここを最初に案内しなかったのは、ナーランダに多少の照れと遠慮があったらしい。
ナーランダに促されてフェリクスがヒノキ風呂に歩いていくと、そこには先ほどの声の持ち主の先客がいた。
(皆が口をそろえてここの温泉はすぐに混み合うと言っていたのは伊達ではないらしいな)
少し前まではこの離宮には、給金を目的に勤めているオリビアと、子供の頃からの家令であるメイソン以外はだれも気味悪がって近づきさえしなかったのだ。
フェリクスは信じられない思いとなる。
声の持ち主の先客は、ノエル達が滞在している宿のおかみさんと、オリビアの母のミリアの二人の女性だった。
子供が成人しているような年齢の女性の二人だというのに、大きなアヒルの形の浮き輪を纏って湯に浮かばせて、実にきもちよさそうにプカプカと浮かびながら、緑の藤の天井を眺めながら飲み物を飲んでいた。
いたずら心が湧いたフェリクスが、風呂の上からにょっと顔をつきだして二人の女の顔を覗き込むと、二人はびっくりして浮き輪から大慌てでひっくり返ってしまい、二人顔を見合わせて若い娘がするようにクスクスと楽しそうに笑った。
二人でいると娘時代に心が帰るのだろう。
娘の頃からの二人の長い友情が感じられて、フェリクスの顔がほころぶ。
「フェリクス殿下。ビックリさせないでくださいよ!ハハハ!ああ、その前におはようございます、やっとお目覚めなんですね」
「ああいやだ、本当にびっくりしたわ。さあさあフェリクス様。折角お目覚めになったのだし、私達と一緒に浮き輪で浮かびませんか。ここのお風呂は最高ですよ。オリビア!浮き輪もってきて!」
はーい、とオリビアが炭酸風呂から出る事もなく、横着に浮き輪を魔術で飛ばしてきた。
「い、いや・・私は・・」
フェリクスは二人の女性からの湯の誘いにたじろいだ。
(このような肌の状態の人間と、同じ湯につかるのは汚いと抵抗があるのではないだろうか)
そう逡巡しているフェリクスに、女将さんたちは容赦なくアヒルの形の浮き輪をつけて、右と左でフェリクスの両手をそれぞれ握って、湯の真ん中に身を投げた。
「おおい、ちょっと待ってくれ、私は溜まっている仕事を片付けないと・・」
女将さんはそんなフェリクスに諭すように言った。
「ほら、殿下。今日だけはゆっくりしましょう。こうやって体をただ浮き輪にあずけて、天井の元気な緑が生い茂っている様子をぼうっと眺めているんです。目をつぶってヒノキの香を感じてもいいですし、浮き輪の下の体は、お湯のすばらしさを感じているだけでいい。私はこのお風呂なら一日中時間を過ごしていられます」
「なにも考えずに、ただ気持ちよいと、心地よいと感じるだけでいいんです。殿下は苦しみの年月を過ごされて、やっと今お元気に目覚められたばかりです、お仕事も大切ですが、今日だけは、ゆっくりご自分を労わってあげませんか」
ミリアが続けた。
フェリクスは尻込みしたが、こうも右と左の手をしっかりと掴まれては逃げられない。
観念して、恐る恐る体をアヒルに預けて、そして、天井を眺めてみた。
(・・木漏れ日が、なんと美しい)
天井からの風が木々を撫でてゆき、ざわざわと葉擦れが耳に心地よい。風が葉をなでる度に光がキラキラとフェリクスの顔をなでてゆく。小鳥がぴょんぴょんと枝と枝の間をはねて遊んでいる。枝が揺れて迷惑そうな顔をしているのはアビーブ狸だ。夜行性のこの動物は、眠っていたのだろう。おおきくあくびしているのが見える。
藤はとても元気に成長している。あちこちに元気に枝葉を伸ばし、これからどんどん成長して、春には美しい花を咲かせるのだろう。美しい春への期待と予感が、温泉の湯に満ちているような気持ちになる。
ヒノキの湯は先ほどの温泉に比べて温度は低めで、肌あたりはとても優しく、湯に包まれているような優しい感触がある。
(・・たしかに、いつまででも、ここでぼうっとしていられるな)
蝶々がフェリクスの鼻先をかすめていった。
フェリクスはぼうっと、白いちいさな蝶々の姿を目で追うともなしに眺めていた。
白い小さな羽根は、上に下にひらひらと飛び、緑と遊び、花を訪ねて、そしてやがて、現れた時と同じように、いつのまにやらひらひらと空に消えていった。
ミリアが言った。
「・・殿下、このお風呂に浸かっているだけで、私は生きている事の喜びを思い出します。今日という一日を迎える事ができたという奇跡に、この美しい緑と光の中で、生を感じる事のできる幸運に、毎日感謝の思いがあふれてきます。生きているとはこんなに素晴らしいだなんて、べスのお風呂に出会うまで、気が付きもしませんでした。私は毎日この身の不幸を嘆いて生きていたんです。本当に愚かでした」
フェリクスはミリアに言葉を返した。
「・・私もそうだ。ただ生きている事がこれほど素晴らしい事だったなんて、私は恥ずかしながら、今やっと知った気がするよ」
王太子として、この国の最も尊い人間としてフェリクスは生を受けた。
もう幾年月という歳月をこの国で最も尊い者として時間を重ねてきたというのに、フェリクスは、それを当然だと思い、感謝する事もなかった。
病気によってその全てを失ってから、今度はようやく己がいかに恵まれていたのかを知ることとなり、それを全て失う事となった我が身を恨み、運命に怒り、自分を憐れんで、ただ生きていたと思う。
フェリクスは今、平民の村民と一緒に、ぼうっとただ蝶を眺めて幸せな緑の下で良い風呂を楽しんでいる今、心から湧いてくる思いがあった。
(私は、心から幸せだ)
しばらくして気が付くと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたミリアがぎゅっとフェリクスの手を握っていた。
ミリアは娘のオリビアから、数年にもわたる離宮での、フェリクスの肌に与えられたその激しく厳しい生の試練をずっと聞い伝えられてきたのだ。
まだらの肌のフェリクスの手を、大切そうに、大切そうにミリアは握りしめて、振り絞るように言った。
「フェリクス殿下。よくぞ今日まで生きていてくださった。あなたは生きている。それだけでもう十分です」