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フェリクスはもう、混乱の極みを乗り越えてしまった。
人間の心は混乱を極めると、壊れるか凪に入るかのどちらかであるが、フェリクスの場合は後者のようだ。
「説明してくれ、まず」
ナーランダはフェリクスの言葉に頷くと、微笑みながらフェリクスが一番聞きたいであろう事から説明を始めた。
白い白粉岩の美しい岩風呂の中には、揃いの緑の入浴着の、大陸の貴人たちが真剣な顔をして円座を組んでいる。
一緒に風呂を楽しんでいたベスは岩風呂まわりの植物が気になり始めたらしい。
一人湯船から上がると、陶器でできた剪定鋏を取り出してきて、ぱち、ぱちと手入れを始めた。
「まずは、最初に殿下のご活躍によってアビーブ山の大噴火は抑えられて噴火警報はひと月前に解かれた事をお知らせしましょう。殿下が火山性の雷の最大級のものを噴火口で誘発させて、内部爆発を起こし噴火は発生前に鎮静となりました。こちらが細かい魔力の計算式になりますが・・こまかい事はまた風呂から上がってからにしておきましょう」
水面に魔術を張って、大陸に存在する計算式の中で最も複雑な数式を書き出そうとしたナーランダは、馬鹿馬鹿しくなったらしく途中で展開を引っ込め、こほんとひとつ咳をして、途中で書き出すのをやめた。
いつでもあたりかまわずに妙な場所で数字の展開をし出すのは、魔術院では皆そうするので当たり前なのだが、普通の人間たちにとってはかなりおかしな行為である事をこの村に来てからナーランダも学んだのだ。
「・・そうか。それであるのなら、私は王太子として何も言うことはない」
この国を統べるベく生を受けたものとして、これ以上の良い知らせはない。
命をかけてこの国の民の命を守ったのだ。
少しずつ実感が湧いてきて、涙がその瞳に浮かび上がってくる。
「殿下は一体どこまで覚えておられますか」
ノエルの言葉にフェリクスは、
「ああ・・ラッカとベスと一緒に人外の温泉にたどりついたところまでは覚えている。途中でジア殿下の幻に出会ったような気もするが、確かではない。そしてその後の記憶が曖昧なんだ」
「ベスによると、ですが」
ノエルは少し言葉を置いて、言った。
「王家の森からしばらくすると、すぐに人外の温泉にたどり着いたそうです。ベスは一度あの温泉に入った事があるのですぐ分かったそうです。フェリクス様は湯の中に入ると、すぐに酩酊状態に陥ったそうです。そして次にベスが気がついたら、フェリクス様のお姿は白い亀の姿に変わり、三羽のカラスに先導されて火口に向かっていった、と」
聞き伝えの話だしベスは説明は下手くそだ。
おそらくノエルもよく事情は完全には理解していないのだろう。所々理解が及ばないながらも説明してくれているらしく、時々ノエルは不思議そうな顔をしていた。
ラッカが話を補った。
「ええ、温泉の中でフェリクス様の魔力が爆発的に解放されたのが感じられたので、おそらくベスの言っている事で間違いはないのでしょう。魔力が遠くなってからしばらくして火口からフェリクス様の合図が降りてきましたので、僭越ながら私の最大の雷魔術をフェリクス様の頭に落としました。そのすぐ後に噴火口で雷の大爆発がありました」
「温泉で私とベスは殿下のお帰りを待っていたのですが、気絶した傷だらけの白亀のお姿のフェリクス様を抱えた貴人の幻が現れて、今すぐ帰れ、私とベスにフェリクス様を託してくれたのです。ですが幻だったのか、本当に起こった事なのかまでは・・・あの温泉で見た物も、経験した事も、まだ本物であるのか幻であるのか、よく区別がつかないのです」
そうラッカはそっとその目を触った。
「・・残念ながら殿下がお帰りになったのは源泉の湯がここに引き込まれて、2日後の事でした。源泉の成分を頼りに成熟する実だと、ナーランダの鑑定魔法で確信を得ていたのですが、この離宮にたどり着いた殿下に与えた実がまだ完全には実りきっていないものだったため、お姿は完全には元には戻りませんでした」
ノエルは残念そうにそう唇をかみしめた。
「・・ああ、それで、私の皮膚は治癒されたが、未だに肌にはマダラが残り、頭もハゲたままなのだな」
一同、口をつぐんだ。
この国の、しかも王太子という立場に置いて健康ではあるが美貌を完全に損ねたという事、それは政治的には失脚を意味するのだ。
「・・白亀の殿下を抱えていたあの貴公子は、マレージア殿下のお姿だったのですね」
ポツリとラッカがつぶやいた。
「ああ。殿下はこの離宮の初代の持ち主で、私の前にその身をアビーブの火山に捧げたお方だ」
ジア殿下には、フェリクスにとってのノエルのように共に戦ってくれる友も、メイソンのように信じて付き従ってくれる従者もいなかった。
それゆえに火口に身を投げたジア殿下は、フェリクスのように火口から人として戻ってくる事はできなかった。
ジア殿下はこの国の神の一柱となって、愛おしい女とは二度と交差する事のない命の輪に入ってしまったのだ。
(私もここにいる人々が手を差し伸べてくれなければ、ジア殿下と同じ運命であったかもしれない)
フェリクスは、ジア殿下の飲まれていった運命の渦に胸が潰れるような思いがした。
そんな時だ。
「あらクロちゃん、今日は随分早いのね」
植物の世話をしていたはずの、ベスの声がした。
「ああクロちゃんが来たのか?」
「そうですノエル様。いつもは夕方にお風呂に浸かりにやってくるのに、今日は随分早いですよね」
ベスの声を後ろに、草むらを分けて、ぬっと温泉に顔を出したのは大きな黒い亀だった。
亀はノシノシとこちらに歩いてくる。
ベスは慌てて、
「だめよクロちゃん、今はフェリクス様が入っているのよ。あなたは後からにしてちょうだい。失礼よ。こらこらクロちゃん、ダメだったら!」
そう制止したが、黒い大きな亀はベスの言葉に聞く耳を持たず、そのままフェリクス達の入っている岩風呂にぽちゃん、と入ってきた。
黒い亀はフェリクスのところまでゆっくりゆっくりと泳いでいくと、フェリクスの顔をじっと見つめた。そしてしばらくすると、もうフェリクスには興味などなくなったかのごとく、悠々とフェリクスの前から泳ぎ去ってしまった。
(・・あの目の色)
奇妙な黒亀の目は、まるでジア殿下のごとくに美しい紫色の瞳をしていたのは、気のせいだろうか。
(・・まさか)
「さあクロちゃん、温泉はきもちよかった?いい子の亀には美味しいキャベツをあげましょうね。こっちに上がっていらっしゃい」
歌うようなベスの声に導かれて、温泉を後にする黒い亀の後ろ姿をフェリクスは目で追ってみた。
べスがきれいな緑色のキャベツを割って、愛おしそうに柔らかい葉を亀に与えているのが見える。
亀はべスに食べ物をもらって、満足そうに咀嚼していた。
黒亀は、とても幸せそうに、見えた。