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その頃。
フェリクスは、いやフェリクスという名であった一つの命は、3羽のカラスに誘われ、森の奥から続く火口への入り口への道にゆっくり、ゆっくりと歩みを進めていた。
人という存在ではなくなったフェリクスの心には、今やもう、なんの考えも思いも浮かんでこない。
ただ本能に誘われるように、まっすぐに火口の入り口まで、ゆっくりと、ゆっくりと歩みを進めていった。
暗い森の中、歩みを進めてゆくと、ぼうっと、フェリクスの行く手の前に朧気な光が見えた。
光の中に、一人の若い男の姿が浮かび上がった。
あの鏡の映像が見せてくれた、美しい貴公子の姿だ。
(ジア殿下)
「やあフェリクス。ここまでよく来たね」
憂いを帯びた青いほほ笑みを浮かべて、フェリクスは言った。
ジア殿下はカラス達と一緒に、死出の旅立ちの共をしに来たらしい。
カラス達はジア殿下の周りを少し飛び交うと、そのまま山頂までフェリクスを案内するつもりでいるらしい。
カラスは順に、前に後ろに、上に下にとフェリクスの先を飛びかいながら、ゆっくり、ゆっくりとなだらかな傾斜を歩んで行く。
そうして歩いている間に、どれほどの時間が実際に経過したのは、想像もつかない。
ほどなくカラス達は、がああ、がああ、と鳴き声をあげて、赤茶色の不毛な平原にたどりつくと、ようやく止まった。
アビーブ山頂の、火口だ。
広々と広がる赤茶色の大地には、火口が地獄の門のごとく穴を開けており、大噴煙を噴き出している。
大地には草の一本も生えていない。
火口からは白と灰色の煙が猛烈な勢いで空の高みに怒涛の勢いで噴出して、定期的に爆発を繰り返す火口の、細かい地震の振動で足元がしびれる。
大爆発の予兆なのだろう、激しい轟音を起こしながら立ち上がる煙の柱は電気を帯びて、火山性の雷が噴煙の内部で発生している。純粋なる暴力的なまでの大自然の力の前に、フェリクスは体が動かなくなる。
火口から少し離れた平原には、エメラルドグリーンの温水の湖が発生しているのが見えた。
温水は地熱を受けて、灼熱に沸騰している様子だ。
ゴボ、ゴボと大きな白い泡を滾らせて、水面は、まるで邪悪な意思を持つ一つの命のごとくに、おおきなウネリをみせている。
ジア殿下は、ぼんやりと光りを放ちながら、憂いを帯びた瞳でじっとフェリクスを見つめた。
そして何か声にならない言葉をつぶやいた。
するとフェリクスを先導していた3匹のカラスはフェリスの目の前でぼんやりとした光につつまれて、地にとろりと溶けてゆき、溶けた光の中から、むくりと三頭の鬼が姿を現した。
現れた鬼達はゆっくりとフェリクスを囲むと、急に雄叫びをあげ、フェリクスの周りで一つの輪になって旋回し、振動する大地を大きな足で力強く踏み鳴らし、ひらりと宙に身をひるがえし、太鼓をかき鳴らし、ぐるぐると頭を振る、見た事もない力強い踊りを舞いはじめた。
輪になって踊る鬼達。
鬼達の踊りは激しさと早さを増してゆく。
鬼達の奏でる太鼓と、奇妙な拍子をとる足拍子と手拍子の旋回で、フェリスくの目は回ってゆく。やがて太鼓の音に乗せられて、フェリクスの意識はどんどん巻き取られてゆく。
ぐるぐると旋回する景色の中で、鬼達の雄叫びが遥か遠くに感じてゆく。
フェリクスは、薄れゆく意識の中、最期の時がやってきた事を感じた。
フェリクスは麓の温泉でべスと一緒に待っているラッカに大きな合図の雷を打った。
そして、小さな雷がラッカからの返答として帰ってきた。
ほどなくすると、フェリクスの頭上に、非常に強力な衝撃を感じた。雷が落雷したのだ。
ラッカの雷魔術だ。
フェリクスの硬いその体は、ラッカの大型雷魔術の落雷による衝撃に耐えて、その体にビリビリとラッカの魔力を帯電させる。
体に受けたラッカの雷の魔力が呼水となり、フェリクスの体の中の、出口を求めて渦巻いていた、強大な雷の魔力が、竜巻のような渦となって外に溢れ出す。
先ほどまでフェリクスを囲んでいた鬼達はその魔力に怯え、恐れ、平伏した。
そうしてフェリクスは、そうする事をまるで本能で知っていたかのように、鬼達の間をくぐり抜けて火口の際まで歩んでゆく。
フェリクスは、今やもう、頭の中で人の言葉を構築する事も、言葉を認識する事もなかった。
ただ本能の衝動に突き動かされて、その体を火口にひらりと一葉の木の葉のように真っ逆さまに投げて、赤い溶岩の中に落ちてゆく。
落ちゆくその中で、フェリクスは、己が持ち得る全ての魔力を、何一つ残らずに火山の煙の中に放出した。
雷を吐き出しながら溶岩に真っ逆さまに落ちてゆくフェリクスの脳裏には、一瞬だけ火口の台地のように赤茶色の髪の色をした人の娘の顔を思い出していた。
胸が一杯になったような、切なくなったような、痛くなったような。そんな気がした。