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固く、重い蓋が開かれた。
ラッカの盲いたその眼裏に、ラッカが光を失う直前の最後の映像が鮮やかに映し出される。
美しい女が、金色の豪華な髪を振り乱し、紫色の美しい毒の瓶を持ってラッカに襲い掛かってくる。
ラッカが人生でたった一人、心から愛していた女だ。
この顔は、あの女が、ラッカを殺しにきたあの日のあの時の、あの顔だ。
油断していたところを急襲されたラッカは、命を落とすことはなかったが、毒によって永遠に光を失った。
ラッカの雷で返り討ちにあった女は、ラッカの腕の中で命を散らした。
(・・泣いていたのか)
覚えていたあの瞬間のあの顔は、憎しみに満ちていた表情だったと思っていた。
だが、先ほど鮮やかに映し出されたその美しい顔は、苦悶の表情で、涙で濡れていた。
(あの女の顔を思い出す事は、生涯無いと思っていた)
特殊騎士団時代に、ラッカには将来を誓い合った女がいた。
女は、戦争難民としてアビーブに流れてきた流民の一人だった。
無頼ものに絡まれていた所をラッカが助けたのが二人の出会いだった。
二人はすぐに深く愛し合うようになり、ラッカは真実の愛を見つけたと信じて疑う事はなかった。
ラッカは女を慈しみ、大切に扱い、言葉を尽くして愛を伝えた。
だが、難民の居住地区で出会ったはずのその女の正体は、難民などではなかった。
女の正体は、ラッカが命を奪った他国の将の妻で、ラッカに復讐するために難民に身をやつして近づいてきた女だった。
女は実に美しかった。聡明で、優しかった。
日々殺伐とした世界に身を置いていたラッカは、喉の渇きを鎮めるが如く、この女の与える柔らかな愛にずぶずぶとのめり込んでいった。
真実愛し合っていたと、ラッカは信じていた。
女と過ごした日々は、ラッカの暗く厳しい灰色の日々に、黄金のような煌めきを放っていた。
二人で共に暮らし始めるようになってすぐ、ラッカは女に、結婚を申し込んだ。
女は嬉しそうに頬を赤らめて、そして頷いて、ラッカの渡したアビーブ火山の守護の緑の石のついた指輪を受け取ってくれた。戦争が終われば、慎ましくも薔薇色の生活が待っていると、そう信じて、愚か者のようにラッカは浮かれていた。
(苦しい・・)
光を失ってもう数十年となるのに、痛みは昨日の出来事のようにラッカの心を苦しめる。
ある秋の日の夜、月の夜。
なんでもなかったそんな日に、女は前触れもなくラッカを後ろから短剣で突き刺した。
それでも死ななかった、倒れたラッカの顔に、女は毒をぶちまけた。
ラッカの目は毒によって光を失い、女はラッカの雷に打たれて死んだ。
後で調べた所、その日は女の夫の命日だったそうだ。
愛し合っていると信じていた女が、自分を死ぬほど憎んで、復讐の為にわざわざ隣国からラッカを殺しにやってきていたと知ったのは、女の死後、ラッカの光が2度と戻らないものであると知ってからだ。
(なぜ、未だに苦しいのだろう)
心から愛して信じた女に裏切られたのが悲しかったのか?
光を失い、魔術師としての未来が絶たれた事が悲しかったのか?
愛した女を手にかけてしまった事が苦しいのか?
愛おしい女の夫を殺し、女を追い詰めて苦しめる事になった自分が赦せなかったのか?
戦争か?王家か?運命か?
女は自分の抱える数多な痛みを、決してラッカに分けてはくれなかった。
痛みを全て自分一人で抱えて、夫の元に旅立っていってしまった。
ー違う。
あの女は、ラッカの腕の中で息を引き取った。「ごめんなさい」そう言って。
ラッカの見えるはずもない視界の、永遠に続く暗闇の彼方に、あの女の美しい横顔がチラリと見えた気がした。
暗闇の中の女は、涙を流して、血を吐いて、そして身が八つに裂ける苦しみに耐えて、暗闇の中を彷徨っていた。
(輪廻の輪に入る事を拒んで、人外の世界を一人、ただ苦しみ彷徨い歩いていたのか)
「なぜだ!」
ラッカは腹の底から叫んだ。
「なぜ彷徨う理由などある。私を置いて、お前の愛おしい夫と共に、輪廻の輪に戻れば良いではないか!」
ラッカの叫びに呼応するように、大きな衝撃波のような女の魂の叫びが、直接頭にぐわん、と響く。
(ラッカ、貴方を愛していたのよ。貴方を憎んでいたのと同じくらい、私は貴方を愛してしまったのよ)
女の指には、二つの指輪がはまっていた。
夫から貰ったのであろう金の指輪。ラッカが送った緑の石のついた指輪。
二人の男の間の愛と憎しみで、この女は輪廻の輪に入る事も叶わずに、身が裂けるような苦しみに耐えて、未だ人外の空間を彷徨っているのだ。
(・・・セーラ!セーラ、セーラ、セーラ!!!!!)
ラッカは声の限り、愛しい女の名を叫んだ。
光の失われた両方の瞳から、滂沱の涙が溢れていた。
そして涙は温泉の水に溶けてゆく。
(流そう、セーラ。もういい。喜びも悲しみも、愛も、憎しみも、苦しみも。全てをこの湯に流して忘れよう。そしてまた赦されることがあればいつか、平和な世界でまた巡り会おう)
セーラは、ラッカの顔を真っ直ぐに見た。
もつれた髪を振り乱し、苦悶の顔をして苦しんでいたセーラは、ラッカと初めて出会ったあの日のように美しく、可憐な姿に戻っていた。
セーラは悲しそうに微笑むと、一粒大きな涙をその瞳から流した。
涙は温泉の水面にぽちゃりと音を立てて吸い込まれ、ぼんやりとしたセーラの姿はそのまま幻のように、消えていった。
ラッカはゆっくりと目を開いた。
(私は・・幻を見ていたのか?)
ラッカの体は力がみなぎっていた。
小さくあちこちに抱えていた不調も、細かい傷も、まるで最初から存在しなかったかのように癒えていた。
心の底にいつも重苦しくへばりついていたヘドロのような苦しみも悲しみも、どこかに消えていったように、ラッカの心も魂も今、生まれたばかりのように静かで清浄なものだった。
(まるで、全ての罪が流されて、新しく生まれ変わったような気分だ)
そして、信じられないことに気がついた。
ラッカの光の失ったはずのその目には、ぼんやり、ゆっくりと、だが確実に視力が戻ってきていたのだ。
ぼんやりとした視界は徐々に晴れて、白い岩肌の美しい、水色の温泉が見える。
そして目を凝らすとそこには、水色の温泉に身を預けている、赤茶色い髪をした地味な田舎の娘の姿が朧げに見えてきた。
(なぜ、私の目は光を取り戻している・・?)
目の前の娘は、ラッカの顔を真っ直ぐ見ると、ゆっくりと近づいてきて、にっこりと美しい笑顔を見せると当然のようにこう言った。
「ラッカ様、とても良いお湯でしょう。何もかも全てが溶けていくような、素晴らしい温泉だと思いませんか」