51
小柄な若い娘のはずのベスの腕からは、信じられないような力でぐいぐいと、ほとんど引きずり込まれるようにラッカは温泉に引き込まれた。
明らかにこれはベスの力ではない。
だが、目の前のベスの気配は、同じ。鹿や蝶と同じ、ただの生き物の気配だけ。
攻撃の気配すらない。
(な・・何者だ、何が目的だ)
ラッカはぐいぐいと温泉の奥に引きずりこまれ、水深の深い場所まで連れてゆかれる。
途中で魔物の気配がする。
横切った所にいたのは、おそらくケルピーだ。
だが攻撃してくる気配はない。ただ温泉に身を任せている様子。
その隣にいるのは、爬虫類の魔物化したものの類だろう。
そして他にも大小の魔物や人外の気配がする。だが誰も、攻撃どころかラッカに関わろうともしてこない。
高位の魔物であればともかく、下位の魔物というものは、弱い個体を見るとすぐに襲いかかってくる習性がある。
だが、この温泉では、誰もが皆、静かにただ体を温泉に預けている。
実に不思議な場所だが、ここはひとまず、安全な場所ではありそうだ。
「ね、気持ちいいでしょう?」
ラッカは、ベスの優しい声で、ふと我に返った。
そして、魔物の気配に緊張していた己の意識を、自分の身を預けている温泉の湯に委ねてみた。
「・・本当だ、ベス。これは・・ああ、気持ちいい・・」
溶けてゆく。
体の緊張や、頭の緊張が全てゆるゆると溶け去ってゆく。
長年頭を悩ませられていた腰の痛みや、足の裏のつっぱりなど、小さく不快に感じていた全てが、溶けてゆくのだ。
溶けて湯に流れて、そして体はあるべき形になってゆく。
湯は肌にとても柔らかく、人肌よりも少し温かいような気がする。肌にとても柔らかいが、何か強い、強い力が含まれている。何かの魔力ではない。神殿で使っている神力かもしれないが、神力よりももっと重い力。
温泉の水面にひいては返す波に身を預けて、ラッカの頭はもはや何も考えられない。
ラッカの背中にあるひきつれた刀傷が溶けて、流れていった。
ラッカの体は、ゆっくりと、だが確実に少しずつ湯と一つになって境界線を失う。
どこからがラッカで、どこからが湯なのか。
どこからが世界で、どこからが暗闇なのか。境界線が全てが消えゆく。
生と死。光と影。希望と絶望。過去と未来。
全ては湯に溶け入り混じり、湯はゆっくりとラッカの心の中にも侵食してゆく。
ラッカの心の奥にこり固まっていた思いや、手放せなかった思も全て、湯はスルスルと引き摺り出して、明るみにしてゆく。
(・・忘れていた。こんなものが心にまだ残っていたとは)
ラッカは不思議な思い出、自分すら覚えてもいない心の奥から浮き上がってきた古い記憶を見つめた。
浮かんできたのは子供の頃のラッカの姿。兵隊の衣装姿で、何かを演じている姿だ
ラッカは若い頃、演劇に情熱を注いでいた。
ほんの小さい子供の頃から役者になる夢を持っていたのだ。
もう思い出すのも難しい、遠い母や祖父母の笑顔が浮かぶ。ラッカはお芝居が上手だね、と。
お芝居を愛していた少年は、10代になってますます演劇にのめり込んでゆき、役者になる夢を持った。
騎士の家系であったラッカには、それは許される事ではなかった。
当然のごとく演劇を禁止されて、それでも溢れる情熱を抑える事ができないラッカは、ある日自分の部屋でこっそり戯曲の台本を読み込んでいたところ、父に見つかって拳で張り倒された。
気高い騎士だった父は、戦争が始まって、気が立っていたのだ。
騎士の男が女々しい事をするな。そう言って、ラッカの宝物だった外国の戯曲はラッカの目の前で、父の手によってビリビリに破かれた。
ラッカは悲しみ、父を恨み、そして憎しんだ。
父が死ぬまで、父子の関係は元に戻ることはなかった。ラッカはその後、騎士となり、高い魔術の才能を買われて、特殊騎士団の所属となる。
(・・いいだろう。もう過去の事だ。この感情は、もう流そう)
ラッカの心の奥で固く仕舞われていた演劇への思いも、父との許せない確執も、湯の中に溶けてゆく。
残ったのは、ただ懐かしい若い日の思い出。
次に浮かんだのは、初めて人を手にかけたあの日の自分の顔だ。
王の、国家の命令を遂行する為、人の命を自分の手で初めて摘んだあの日。
人の命ををその手にかけた直後、猛烈に吐いて、そして酒場に駆け込んで、猛烈に肉を食らった覚えがある。
自己嫌悪と、達成感と、だがそして死を前に、恐怖に震えたあの人間の顔。
忘れる事のできないあの日。
次々と心の奥底に仕舞い込んでいた、固く冷たいものが浮かんでくる。
信頼していた上司に、己の手柄を盗まれたあの日の出来事。
叶わなかった貴婦人との恋。
一番の友人だった男に、出世競争で負けてしまったあの日。
己の作戦の穴で、味方の一部隊を壊滅させてしまった忌まわしい日の鮮烈な思い出。
仲間を見捨てて逃げざるを得なかった、北方占領戦。
次々と心の中で悔いや、後悔、そして赦せなかった過去が次々に、泡のように浮かび上がっては、湯に流れていく。
(もう、流そう。全てを湯に流そう)
心の奥で固く仕舞い込まれていたラッカの思いは、湯に誘われて心の外に出てきて、それは溶かされて、洗われて、ようやく忘却への旅立ちに出発する事が赦される。
一つ、また一つと思いを手放すたびに、ラッカの魂は軽くなってゆく。
そして、やがてさざ波のように押しては返す水色の湯は、ラッカの心の一番奥で、しっかり蓋をされていた思いにまで次第に伸びてゆく。
(・・・・それは無理だ、頼む、その蓋は絶対に開けないでくれ)
ラッカは必死で頭で止めようとするが、心も体も、湯の誘惑に抗う事をしようとしない。
やがて温泉の湯は、ラッカの心の一番奥にたどり着いて、固く封印されていた重く忌わしい思い出の蓋を、容赦なくこじ開けた。
(頼む!やめてくれ!)