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悪い事というものは、起こると想定していたものよりよほど早く起こるのが世の常だ。
それはアビーブ王国でも、まさに同じ事。
フェリクスがその運命を受け入れ、ノエルが果敢にその命を守ろうと動き出したその翌週には、王立火山研究所から火山の噴火の一斉避難警報が出たのだ。
アビーブ火山は、警報がでた直後から小爆発を繰り返し、黒い噴煙をモクモクと空に上げていた。
いつどの時点で火山が大噴火してもおかしくない段階に入った。
実に三百年ぶりの大噴火の兆候に、アビーブ王国は混乱の渦に突き落とされた。
離宮のあるこの村の人々にも王命で一斉避難の勧告が出て、日々相当の数の近隣の住民が、派遣されてきた王都の避難施設として避難民に開放された神殿行きの辻馬車に揺られる。
宿の女将さんも、オリビアも、村のすべての住人は皆フェリクスの指示を受け避難勧告に従って王都に下っていった。
もちろん、フェリクスにも、ノエルにも、王家から避難警告が出された。
だが、フェリクスはジア殿下の棺に収められていた王家の紋章の刻まれた鏡を王に転移魔法で送って、そしてそのまま離宮から退避する事はなかった。
少なくとも父王は、鏡に収められていたジア殿下の映像を見たのだろう。
ただ一言だけ、王家の紋章の入った手紙に「愛している」という短いメッセージしたためられていたものが転移魔法でフェリクスの手元に届いたのみだった。
アビーブ王は王として、国民を守る義務がある。
その命を持って国民を守るべきが息子の定めであるとすれば、逃げろ、死ぬなとは言えないのだ。
どうしてもフェリクスと離れないといって頑として避難を拒否したメイソン以外の村民はすべて皆この村を退出した。
「殿下、貴方様が何をお考えかなど私のような矮小な身には何も分かりかねますが、どうぞお命を大切に」
王家の森に出立する準備をしているフェリクスに、何かを勘づいているらしいメイソンは、涙を隠すことなく、ただフェリクスの足にすがった。
遠い昔に家族をすべて亡くしているメイソンにとって、フェリクスはたった一人の家族のようなものだ。
フェリクスをも失う苦しみに耐えるくらいであれば、この男は自分の身を火口に投げるだろう。
「こんなに早くに山の状態が悪くなるとはな」
ノエルは急速に、一定の間隔で頭上に降り注ぎ出した火山灰に不機嫌を隠さない。
もう目の前でも灰色の粉塵でよく見えないし、有毒なガスも発生しているのだろう。
王家の森の一部が黄色く変色を始めていた。
ノエルは自身の計画が大幅に狂ってしまい、焦りを隠せないでいるのだ。
(エズラ様に温室に源泉を引き込んでいただいて、あの黄色い実を神々の温泉で育成されたものと同じ状態に整え、その実を食していただいたら、亀から人のお姿に戻すことができると仮定していた)
ベスのその緑の指であれば、植物の持つ最大の可能性を引き出す事ができる。
温泉の源泉を引き込んで、べスの手であの黄色い実の世話をすれば、早くて数ヶ月以内にはよい状態の実が実るだろうとノエルは踏んでいた。
それが、火山がこれほど早くに活発化するとは。
ノエルはぎりりと歯を食いしばる。
「火山というものはそういうものだ。恩恵も計り知れんが、その苛烈さは人知の及ぶところではない」
ノエルの計画を先に聞いていたフェリクスは、焦るノエルにそう言い含めた。
ここまでの大爆発の予感は過去三百年ないものの、アビーブ火山の小爆発に、この地の人々はその恩恵を受け、そして苦しんでもきていた。
山の機嫌を伺いながら、灰の多い日は人々は洗濯物を諦め、山の機嫌の悪い日は、結婚式でも躊躇なく延期する。温泉を楽しみ、火山の実りである緑の宝石は名産品として広く愛されている。
この地は、火山の国だ。人々は火山を愛し、憎み、そしてともに生きてゆく。
そして、この火山の国の王太子としてフェリクスは生まれたのだ。
(もう、覚悟は決まっている)
すっかりとフェリクスと王家の森に入る為の身なりを整えて、メイソンの涙が落ち着くのを待っているラッカと、そしてベスの二人にフェリクスは告げた。
こうしている間にも灰は降り注いで、昼だというのに、まるで夜の入り口のようだ。
「二人とも、危なくなったらすぐに転移魔法を発動させてくれ。決して私を待つことのないように」
ラッカ自身では転移魔法は使えないが、フェリクスに落とす雷の魔力を温存していれば、ナーランダが紙に込めた転移魔法を発動させるだけの力は残る。
いざとなればフェリクスを見捨てて逃げろ、とそう言っているのだ。
ラッカほどの雷魔力の使い手が、最大の出力でフェリクスの体に雷を落としていれば、おそらくフェリクスの体から発する雷魔力と反応して、瞬間的に雷の大爆発が火口で起こるとノエルは踏んだのだ。
雷の大爆発によって火山の噴火が落ち着けば、フェリクスには防御に利用できるだけの魔力が残る。
神々の温泉まで無事、死なずに逃げおおせることができるかもしれない。
大きな怪我なく逃げおおせたら、フェリクスが命をつなぐという本能の命ずるままに何かを神々の世界で食する前に、待機していたベスが亀の姿のフェリクスを捕まえて、神の世界からラッカと、フェリクスを連れ出す。
そして、王宮までたどりついたらノエルがフェリクスに治療魔法を施して、べスが例の黄色い実をフェリクスに与える。
上手くいけば、王国も、フェリクスも救われる。
だが、ベスの持ち帰ったあの黄色い実は、源泉の元でしか上手く育たないらしい。まだ小さく若い実しか付けていないのだ。
(このままでは殿下は人の姿に戻ることはできないのかもしれない)
マントを翻して、森に赴く足を進めようとしたフェリクスの後ろから、ノエルは叫んだ。
「殿下。私の命よりも大切なベスを殿下にお預けしているのです。何事も御身にも、ベスにも起こりうるはずがありません」
「そうだな、貴殿が大切なべスを私の手に預けてくれているのだ。ベスに傷の一つでも付けたら、火口に身を投げるより前に、貴殿に殺されてしまうな」
フェリクスは振り向いて、ゆっくりとノエルにほほえんだ。
計画通りに事が運ばずに焦りが隠せないノエルとは違って、フェリクスの心は凪だった。
(たった一人で死ぬと思っていた)
王族とは実に孤独な生き物だ。
至高の存在として、誰もが平伏し、誰もが尊敬を払う。
そして同時に、どんな苦しみも、どんな悲しみもただ一人で耐えよと、この世の全ての皆が王族を放置する。
だが、目の前の男はそうではない。
悪態をつきながら、だが四方八方手を尽くしてフェリクスをその運命から守ろうとしてくれている。
ノエルが人事を尽くすのは、フェリクスの抱えている問題をさっさと片付けて、フェリクスに愛おしいベスの産みの両親を見つける手伝いをさせる為だと言ってはばからない。
だがそれだけではない事はフェリクスが一番知っている。
この男は、ノエルはフェリクスを救おうと、王国の命運を救おうと、その類まれな能力を持って必死でフェリクスと共に、その宿命にあらがおうと、世界でただ一人フェリクスと共に戦ってくれているのだ。
(父王ですら、私の運命をただ受け入れていただけだったのに)
ナーランダが、静かに近づいてきて、無言で全員に防護魔法をかけた。
火山のその偉大な力の前では無力に等しいが、ナーランダの温かい魔法に護られると、少し安心する気がする。
「ナーランダ様、この子をお願いしますね。エズラ様が到着されてお湯が温室に引かれたら、すぐに湯舟の隣に置いてあげてくださいね。早く元気になってほしいの」
「ああ、ベス。約束するよ。エズラ様は今こちらに向かっておいでだ。到着されたらすぐにお願いしよう」
ノエルはその胸に、しっかりとベスを掻き抱いて言った。
「べス、帰ってきたら一緒にお風呂に入ろう。この世で、最高の風呂に」