かけ算に順序がある理由を学校に聞きに行った。3個のミカンが入ったカゴが5つあるとき、3×5=15はマルで5×3=15はバツなのはなぜ?
「先生、3個のミカンが入ったカゴが5つあれば、ミカンの数は15個になると思います。バツになる理由を教えていただけますか?」
昨夜、息子のユウトの質問に私は頭を抱えた。ユウトはテスト用紙に5×3=15と書き、バツをつけられ、正解は3×5だと赤ペンで訂正されていた。理由を説明できなかった私は学校を訪れた。教頭先生の案内で通された応接室で待っていると、岩田先生がやってきた。白髪混じりの彼はテスト用紙を手に取り説明した。
「確かにミカンの数は15個です。しかし掛け算の順序は『1つ分の数×幾つ分』です。ユウトくんの式の順序は逆でした。5×3では5個のミカンが入ったカゴが3つあったことになります」
当然だろうという顔で、テスト用紙を私に向けてテーブルに戻した。もう少し説明がほしいところだ。
「順序が逆でもいいと思うんですけど、なにか問題があるんでしょうか?」
「お母さん、あなた料理しますよね? 材料を入れる順番で味が変わりますよね。掛け算も同じで、順序が大切なんですよ」
あごヒゲの剃り残しを指でつまみながら先生はそう答えた。
「料理はそうかもしれませんが、これは掛け算ですから……」
「順序が逆だと答えが変わるものもあるんですよ」
私の言葉をさえぎって言う。私が文句を言いに来たと思ってるのかもしれない。ユウトにちゃんと説明したいだけなんだけどな。ベクトルの掛け算は順序を入れ替えると正負が逆になったのを思い出した。確かに交換法則が成立しない掛け算もある。けど、小学二年生にその配慮は必要なのかな。
「それは何年生で習うんですか?」
「行列というものがあります。昔は高校でも教えていたんですがね」
面倒そうに腕組みをした先生は答えた。
「でも、この問題は行列ではないですよね?」
「行列の問題ではないですが、将来数学で困らないように計算の順序を指導しています」
「順序が決まっているのは教えやすくするためではなく、逆にしてはいけない場合も後々あるからということでしょうか」
「そうです。私はその場しのぎではなく、子どもたちの将来のことを考えてるんですよ」
先生は胸を張った。自分の言葉に誇りを感じているようだ。
「順序が必要なのはわかりました。でも、その順序が『1つ分の数×幾つ分』という形になる理由がわからないんです。息子にどう説明すればいいのか教えていただけますか?」
「3個のミカンが入ったカゴが5つということは、3個の5倍ですよね。5個の3倍ではありません」
「5つのカゴに3個ずつミカンを入れた、ではいけないんでしょうか?」
これがユウトの根本的な疑問だが、私はダメな理由を答えられなかった。
「いや、それは不自然です。結局は3個のミカンが入ったカゴが5つだから、3×5になります。こうしないと問題の意味を正確にとらえたことになりません。お母さんは文章題が苦手だったんじゃないですか? ここを大事にしないと書いてある数字を適当に公式に入れる子になってしまいますよ」
先生は3×5が正しいと繰り返すばかりで具体的な理由の説明がない。それに、なぜか私が文章題が苦手だと決めつけられてムカついた。でもユウトのために気持ちを抑えよう。どうすれば質問の意図をわかってもらえるだろうか。
「だとすると、アメリカやイギリスだと5×3になるんでしょうか?」
「算数や数学は世界共通です。どうしてそんなことを言うんですか」
「3の5倍は英語だと 5 times 3 なので5×3の方が自然な気がするんです。文章にしても3個のミカンが入ったカゴ5つは英語で 5 baskets containing 3 oranges ですから……」
「ここは日本の学校なので日本語でいいんです。外国のことは関係ありません」
算数や数学は世界共通じゃなかったのかな。先生の目つきが厳しくなった。自然か不自然かという感覚の問題なのか確かめたかったが、これ以上の質問は難しそうだ。
「それに掛け算の順序は教科書に明記されています」
とにかく教科書に書いてあることを教えるのが仕事だという立場なのかな。聞いてみるか。
「教科書通りに指導されているのですね」
そう言うと先生は急に声を荒らげた。
「教科書では歴史的事実が歪曲されてることもあるんです。だから子どもたちのためにもあんなものは使いません。私はプリントで授業しています」
先生は怒りに顔をゆがめた。彼の地雷を踏んでしまったようだ。
「……先生、今そういう話をしたいのではないんです。先生の指導方針は教科書に書いてあることをそのまま教えるんじゃなくて、子どもたちの未来を考えたものなんですよね?」
表情が少し緩んだ。機嫌が直ったようだ。最悪の事態を避けられほっとした。政治的な話はしたくない。
「そうです。お母さん、数学は厳密なものです。私、教育大で数学が専門教科だったので言うんですが、数学をあまり簡単に考えてはいけません。女の人は数学を毛嫌いしますが、数学はとても大事なんです。計算の順序によって結果が変わることはすぐには習いません。でも将来、子どもたちが順序を逆にして困らないようにしています」
この話に性別は関係ないと思うし、いまどきそんなことを言うのはちょっとどうかしてる。でも、もう少し頑張って先生の考え方を聞いておこう。先生と私の説明が食い違うと、ユウトが混乱してしまう。
「先生、参考にもう一つ聞いてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
先生は鷹揚にうなずいた。
「長方形の面積は二辺の長さの掛け算ですけど、縦3センチ横5センチの長方形の面積はどう計算すればよいでしょうか」
「公式は縦×横ですから、3×5=15です。縦3センチ横1センチの長方形が5つあると考えればいいんですよ。『1つ分の数×幾つ分』と同じです」
「縦1センチ横5センチの長方形が3つ、と考えてはいけないんですね」
「そうです。縦×横ですから、横1センチの縦長の長方形が『1つ分の数』で、それが『幾つ分』横に並ぶかを考えます」
身振り手振りを交えて説明する先生は、少し興奮してきたように見えた。
「もしかして、この長方形を90度回転させたら、5×3=15になるんですか?」
「その通りです。縦5センチ横3センチの長方形だから、5×3にしないといけません。3×5だとバツですよ。数学は厳密なんです。長方形の面積は四年生の範囲ですけど、この例を通して基本的なかけ算の順序の考え方が理解できましたね。これでお母さんもユウトくんに説明できますよ」
先生は歯を出して笑った。
そうなるのか。だったら、長方形の面積が必ず縦×横でなければならない理由を聞くべきか。いや、これ以上問い詰めるのはやめよう。この先生はルールを機械的に適用しているだけだ。ミカンの数の掛け算の順序が決まる理由を説明できなかったし、面積が縦×横でなければならない理由も説明できないだろう。ユウトの学校生活を考えると、先生の方針に批判的な保護者だと思われるのはよくない。
「……ありがとうございます。私の不勉強でお手間をおかけしてしまいました。ユウトにも言い聞かせます。今日はお忙しいところありがとうございました」
「どういたしまして。とにかく『1つ分の数×幾つ分』というのが正解なんです。お母さん、それだけ覚えておいてくださいね」
一礼して応接室を後にした。先生はなんだか満足そうに見えた。彼の態度が改まることはないだろう。それにしても、いまだにこんな先生がいることに驚いた。
ユウトには学校での「適切」な対応と、しっかり考えることの違いを教えよう。あの子ならわかるはずだ。将来、食塩水の問題で「飽和するからそんなにたくさん溶けません」なんて答える子にならないようにしなきゃ。
参考にしたWikipediaの「かけ算の順序問題」には様々な考え方が紹介されています。数学も教育も素人の私には、ちょっと難しい部分もありましたが、とても興味深い内容でした。