04 海賊・コハク (2)
悪魔は、空に浮かぶ細い月を見上げました。
『お前か? だが、どうやって?』
悪魔の問いに答える声はありません。
ですが、それ以外に考えられないのです。
『そうか、あれか……俺も天使も読めない、あの物語か』
「世界の書(写)」は、「世界の書」の写し。神様が書いたお話すべてが記されていて、悪魔はそれを読むことができるのですが。
一つだけ、どうしても読めないお話がありました。
『泣き虫魔女と宮殿の少女』
そんな題名の、長い長いお話です。それはどうやら、天使にも読めないお話のようでした。
コハクが持っていた、「世界の書」から切り離された紙。
その謎は、きっとそのお話に書かれているに違いありません。
『ククッ、やっぱりハクトに働いてもらわなきゃな』
悪魔は紙を封筒に入れると、コハクの胸ポケットに戻しました。
『ま、なんだな。俺はお呼びじゃないらしい』
上着のボタンを閉じ、ぽんぽん、とコハクの胸を叩きます。
『こいつは、お前がお前であるためのお守りだ。なくすんじゃないぞ』
ブォォーン、と低い音が聞こえてきました。
その音の方を見ると、一人乗りの小さな船──水上バイクが、集団で近づいてくるのが見えました。
悪魔が目をこらすと、水上バイクにはオレンジ色のツナギを着た妖精が乗っていました。
『なるほど。コハクを助けるのはあいつら、てわけだ』
悪魔は肩をすくめ、空に浮かぶ細い月に笑いかけました。
『悪い悪い、危うく物語を変えちまうところだったな』
では、邪魔者は消えるとしよう。
悪魔は炎に戻り、ふわり、と宙に浮くと。
妖精たちとは反対の方へ、猛スピードで飛び去りました。
※ ※ ※
──私の、一番の親友よ!
そう言ってシオリが連れてきたのは、少したれ目の、ちょっと気の弱そうな魔女でした。
マレ。
それが魔女の名です。
あらゆる魔法を使いこなす天才で、その気になれば、次元を飛び越え別の世界へ行くことだってできるといいます。
すげえじゃねえか、と感心したら、「でもねえ」とシオリがため息をつきました。
──すっごく臆病で、泣き虫なの。つまり、ヘタレね!
親友をヘタレと呼ぶか、ひでえな、とコハクはあきれたものです。
──だから、マレを鍛えてあげてよ! まずは水夫見習いからね!
シオリの申し出に、マレは「ええっ!?」と目を丸くしました。
どうやらマレは、何も聞かされないまま連れてこられたようです。
ほんと、ひでえやつだ、とコハクは腹の底から笑いました。
※ ※ ※
意識を取り戻し、重いまぶたを必死で開けると、青白い炎が猛スピードで飛び去っていくのが見えました。
(なんだ、あれ……)
コハクは起き上がろうとしましたが、できませんでした。疲れ切って、指の一本すら動かせません。気を抜けば、また意識を失ってしまいそうです。
目だけを動かして、周囲を確認します。
あれだけひしめいていたアンドロイドの姿が、一体も見えませんでした。
(助かった……のか……?)
コハクはホッとしました。
さすがにこれ以上戦うのは無理でした。へとへとで体は動きませんし、足も痛くて立ち上がれそうにありません。
コハクは目を閉じ、口元に笑みが浮かべました。
アンドロイドを追い返したから、ではありません。
やっと思い出せたからです。
大切な友達と、その親友と、ともに旅をする仲間たちのことを。
やっと……やっと、思い出せたのです。
(マレ……)
シオリの一番の親友。天才と呼ばれているくせに、臆病で実力を発揮できない、泣き虫の魔女。
(世界を滅ぼす魔女……そうだよ、あれ、マレじゃねえか)
なんだよ、あのとんでもない強さ、とコハクは笑うしかありません。
全く歯が立ちませんでした。海賊船デュランダルに乗る六人の勇者が全力で戦ったのに、マレにはかすり傷すら負わせられなかったのです。
あれがマレの本当の力。次元を飛び超え別の世界へ行くことだってできるという、天才魔女の本気なのです。
「ちくしょう……」
コハクの目から、涙がこぼれました。
「何やってるんだよ、マレ……シオリを助けに行くって……言ってたじゃねえか。なんで『世界を滅ぼす魔女』になんか、なってんだよ……」
だから言ったんだ、一人で行くな、て。
俺も一緒に連れて行け、て。
天使相手に、一人で戦えるわけがない、て。
(あいつら……無事かな……)
コハクは、海に放り出された仲間を思いました。
アカネ、ルリ、ヒスイ、ハクト、そしてカナリア。大切なコハクの仲間たち。
(みんな……俺のこと、忘れちまってたな……)
人のこと言えないか、とコハクは笑います。
コハク自身も、大切な仲間のことをすっかり忘れていました。初めて会ったのに昔から知っていたような、そんな気はしていたのですが、名前すら今の今まで思い出せませんでした。
覚えていたのは、どこかへ行ってしまったシオリという女の子と、「星渡る船」という不思議な言葉だけ。
(ちくしょう……)
仲間たちは、無事でしょうか。
マレは、どうしてしまったのでしょうか。
シオリは、どこにいるのでしょうか。
(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……)
コハクは悔し涙を流しながら、深い眠りにつきました。
◇ ◇ ◇
駆けつけた妖精たちは、操舵台で倒れているコハクを見て血の気が引きました。
「ピィーーーーッ!」
間に合わなかったのかと、悲鳴のような声を上げてコハクに駆け寄ります。一人だけ混じっていた、白いツナギの妖精が大慌てでコハクを診察しました。
眠っているだけ、命に別状はない。
そうわかったときはホッとして、白いツナギの妖精は腰が抜けてしまいそうになりました。
「ピィッ!」
「ピピッ!」
しっかりしろと励まされ、白いツナギの妖精は大急ぎでコハクの手当を始めます。その間に他の妖精たちがデュランダルの点検をし、まだ航行可能であることを確認しました。
魔女と戦い、大渦に飲み込まれ、アンドロイドに襲撃され。
それでもまだ動けるデュランダルに、妖精たちは沸き立ちます。
「ピィーッ!」
勇者を、消させてなるものか!
妖精たちは気を失ったコハクを船長室へ運ぶと、コハクに代わってデュランダルの舵を取りました。
「ピィッ!」
合図とともに、沈黙していたエンジンがうなりを上げました。
燃料は残りわずか、あちこち傷んでスピードは出せませんが、それでもデュランダルの力強さは変わりません。
デュランダルは最後の力を振り絞り、再び航海を始めました。