02 医者・ハクト (1)
どさり、と扉の前に何かが落ちる音が聞こえました。
うつらうつらとしていた医者ですが、その音で目を覚まし、ふわっ、と大あくびをしました。
(さて、何が来たのかな?)
医者は立ち上がり、白衣を身につけました。
善人であれ悪人であれ、病んで傷ついているのなら、医者は必ず診ることにしています。危ない目にあうことも、まあたまにはありますが、だからと言ってやめる気はありません。
彼女は、医者。
傷ついているものを治すのが、その使命なのです。
「ああ、君か。長い間、どこへ行っていたんだい?」
扉を開けて入って来たのは、大きな帽子をかぶり、ほうきを手にした女の子──魔女でした。
「……おいおい、どうしたのかね?」
魔女の姿を見て、医者は驚きました。
大きな帽子も黒い服も、焼け焦げて、あちこちが切り裂かれています。疲れ切った顔を見れば、激しい戦いの後だとわかります。
いったい、何があったのでしょうか。
「よかった……間に合った……」
出迎えた医者を見て、魔女はホッとした顔を浮かべました。
「間に合った……?」
医者が首を傾げると、魔女は弱々しい笑みを浮かべました。
「助けに、来たよ」
「ふむ……助けが必要なのは、君の方じゃないかな?」
医者は手を伸ばし、ふらふらの魔女を優しく抱き締めました。
「大丈夫かね?」
「うっ……ううっ……」
魔女が小さくうめきました。そっと背中を叩いてやると、魔女は少したれた目から、ぽろぽろと涙をこぼしました。
「君は相変わらず泣き虫だね。どうしたのかね? 何があったんだい?」
「みんなが……みんなが……消えちゃう……よぉ……」
医者が優しい声で問うと、魔女は声を上げて泣き出しました。
「私が……弱虫だから……戦えるのに、戦わなかったから……みんなが、みんながぁ……」
「落ち着きたまえ、話がよくわからないよ」
医者は魔女をなだめましたが、感極まった魔女は大声で泣き出しました。
医者は優しく魔女の頭をなでてやります。泣きたいときは、気のすむまで泣けばいいのです。そうしてこそ、次に向かって人は歩き出せるのですから。
「ごめんね……ごめんね、みんな。ごめんね……ごめんね……シオリ……」
魔女は、うわごとのように「ごめんね」とつぶやきながら。
医者にしがみついて、いつまでも泣き続けていました。
※ ※ ※
暗い洞窟の中、地面に大の字に寝転んだまま、医者は夢で見たことを考えていました。
(ふぅむ……これはどう考えればよいのかな?)
それは、かつてあった出来事で、夢で見るまですっかり忘れていたことでした。
自慢ではありませんが、医者は記憶力に自信があります。何年も前に一度しか診察していない患者でも、しっかりとその顔と症状を覚えているぐらいです。
そんな医者が、すっかり忘れていたのです。
あの「世界を滅ぼす魔女」が、とても大切な友達だったことを。
(ああ、そうだ……マレ、だ)
長い時間考えて、医者はようやく魔女の名前を思い出しました。
マレ。
まだ十四歳の、魔法の天才。魔女としてとても優秀なのですが、とても臆病で泣き虫で、本当の実力をなかなか発揮できない、そんな女の子でした。
ですが。
(あれが、マレの本当の力、か……)
「世界を滅ぼす魔女」となったマレに、いつもの臆病さはかけらもありませんでした。
大魔法をたやすく操り、世界中から集められた勇者の船団を一撃で沈めてしまいました。難を逃れた海賊船デュランダルを見つけると、嵐を呼び大渦を作り出して、勇者たちを苦しめました。
いいえ、苦しめたどころではありません。
あまりにも圧倒的で、勇者たちは歯が立たなかったのです。
お世辞でも何でもなく、本気のマレは世界最強の天才魔女でした。
「いやお見事、あっぱれというしかないね。はははっ……うっ……」
声を上げて笑った途端、医者の体に激痛が走りました。
海に投げ出され、どこをどうやって来たのかはわかりませんが、気がつけば洞窟の中に倒れていました。
それからずっと、こうして大の字で寝転んだままです。
だらけて昼寝をしている、と言うわけではありません。体が痛くて起き上がれないのです。
(あー……やはりこれは、折れているな)
両足がズキズキと痛み、力が入りません。手はかろうじて動かせますが、動かすと激痛が走ります。腕の骨にも、ヒビぐらいは入っているでしょう。
天才を突き抜けたマッド・ドクター、を名乗る医者ですが、起き上がることすらできない状態では治療もできません。
(まあ、あのまま海で溺れてしまっても、おかしくなかったが……)
どうせ助かるのなら、もうちょっとマシな状態で助かりたかったものだと、医者は深くため息をつきました。
◇ ◇ ◇
『おい、起きろ。おい』
どうせ身動きできないのだから、寝てしまおう。
そう考えて眠った医者を、起こす声がありました。
「……誰かね?」
目を開けると、青白く光る拳ほどの大きさの炎が、ゆらゆらと宙を漂っていました。
幽霊でしょうか?
だとしても、医者は怖いとは思いません。むしろ、珍しいものが見られたと興味津々です。
『たいしたタマだな、この状況で寝るか』
「身動きできないんでね。寝るしかない」
『確かにな』
くくくっ、と楽しげに笑いながら、青白い炎が揺れました。
『助けてやろうか?』
「その前に、名乗ったらどうかね?」
『俺か? 悪魔だよ、あ・く・ま』
「…………………………ふむ」
『少しは驚けよ。張り合いのないやつだな』
「いや、非常に驚いたんだがね。その証拠に、五秒も考え込んでしまったよ」
『なかなか珍しい驚き方だな』
「まあ、天使がいるのなら悪魔もいるだろう。お目にかかれて光栄だ」
『マジで大したタマだな。感心するぜ』
青白い炎は、楽しそうにクルクル回りました。