04 本当の名前 (3)
「シオリの……」
「……体?」
両隣に立つ、こよりとスピンが目を見張りました。背後にいる勇者たちの、息を呑む様子も感じます。
「私の……体?」
「そうだよ」
つぶやいたシオリの心に、カナリアの姿を借りた、シオリの体が一歩前に出ました。
「伝えたいことがあって、カナリアの姿を借りて来たの」
「……なによ」
「私、死にたくない」
きっぱりと言ったシオリの体──カナリアに、シオリの心が目を釣り上げます。
「私は……もう死にたいのよ」
「世界の書」の最後のページに書いた、六文字の望み。それがかなえば、地獄は終わる。痛いのも、苦しいのも、悲しいのも、全部終わりにできるのです。
「それ、嘘だよね」
ですが、カナリアは首を振りました。
「本当の望みは、もう死にたい、じゃないよ」
「嘘じゃない。私の望みは、もう死にたい、よ!」
「じゃ、どうしてマレが消えていないの?」
「マレ……?」
マレがいるから、死んではいけない。
シオリは、先ほど言われたことを思い出しました。そしてまた思います。何か、大切なことを忘れている、と。
グラリ、と。
世界が、大きく揺れました。
ビシッ、ビシッ、と何かが割れる音が響き、ちらちらと舞っていた「世界のかけら」が、本格的に降り始めてきました。
「もうすぐ、時間切れだね」
「時間切れ?」
「そうだよ、『わたし』の心。『わたし』の体は、もう限界。もってあと……五、六時間」
その間に、助けが来なければ。
「本当に、死ぬから」
ドクン、と。
シオリの心が、動きました。
死ぬ。
本当に死ぬ。
それを望んでいたはずなのに、いざそれが──死が目の前に現れたと聞いて、恐怖で震えたのです。
「体より先に意識が消えるよ。もう、夢を見ることもできなくなる。ねえ、これが本当に、望み?」
死ぬ。
私は、死ぬ。
「本当に、死にたい?」
重ねて問いかけられ、死をはっきりと意識したとき、冷たい恐怖が足元からはい上がってきました。
ぶるぶると震え出し、力が抜けていきます。「死」とは、こんなにも怖いことなのでしょうか。
「私、死にたくない」
その言葉に、ハッとしました。
死にたくない。
そう、思い出しました。「世界の書」の最後のページに、『誰か』が書き足した、新しい望み。それを書いたのが、目の前にいる女の子──カナリアの姿をした、シオリの体。
もう死にたいと望んだのも、死にたくないと望んだのも、どちらもシオリだったのです。
「絶望で塗りつぶされた心──あなたに、体が上げる悲鳴は届かなかった。ううん、届いていたけれど、正しく伝わらなかった」
痛いと、苦しいと。
体が悲鳴をあげるたびに、心に巣食った絶望は深くなりました。絶望が深くなればなるほど、心はますます死を願うようになりました。
そうではない。
「死にたくない」んだということを、どうにかして伝えたい。
でもそれを「言葉」として伝えることができません。「言葉」を持つのは、心だけなのです。
「だから、心のかけらである、カナリアの力を借りた。言葉を手に入れて、この物語を──『勇者と魔女と星渡る船』の物語を始めたの」
「そういうことかよ」
スピンが納得顔でうなずきました。
この世界の創造主、シオリという女の子の主人格。そんなシオリに対抗できるのは、シオリ本人しかいないのです。
「ちょっと設定間違っちゃって、みんなを混乱させちゃったけどね」
「ちょっと、じゃねえよ。まったく」
コハクが呆れた声で答え、でもすぐに笑いました。
カナリアも「ごめん」と笑い返します。
「そして、勇者と魔女が、星渡る船に乗ってここまで来てくれた」
でも、と。
カナリアは、戸惑った顔のシオリを見つめます。
「最後の最後で届かなかった。マレが、勇者と一緒にあなたの前に現れれば、思い出してくれると思ってた。そうしたら、きっと目を覚ましてくれると信じてた。だけど──もう大切なことを思い出せないぐらい、追い詰められていたんだね」
カナリアが、ゆっくりとベッドへ近づいていきます。
「だから、直接来たの。思い出してもらうために」
「……なにを?」
「マレの、本当の名前だよ」
「マレの……本当の、名前?」
「忘れちゃった?」
魔女には、魔女としての名前と本当の名前、二つの名前がある。
本当の名前は命と直接つながって、悪い魔法使いに知られたら呪いに使われる。
だから、どんなに仲良しでも、たとえ親友でも、本当の名前は秘密。
「そう決めたよね?」
「……」
そう──だったような、気がします。
マレには本当の名前があって、それはとても大切な意味を持っていたような、そんな気がします。
だけど、どんな名前だったか、どうしても思い出せません。
「ねえ、マレ」
黙ったままのシオリを見て、カナリアが振り返りました。
カナリアに呼ばれて、倒れていたマレがゆっくりと目を開けます。
「マレも、それを伝えに来たんだよね?」
「……うん」
痛みをこらえながら、マレが起き上がりました。
ぐらりと揺れたマレに、勇者たちが駆け寄り、倒れないよう支えます。
「シオリ」
みんなに支えられて、マレは、ベッドの上にいるシオリをまっすぐに見つめました。
「思い出して。私の、本当の名前はね」
シオリにとってマレが何なのか、どうか思い出してほしい──その思いを込めて、マレは魔女の掟を破りました。
「ノゾミ、だよ」
「ノゾ……ミ?」
マレの本当の名前を聞いて。
シオリの心の奥底から、何かが浮かび上がってきて──パチンと弾けました。
そうです、ノゾミです。
マレの本当の名前は、ノゾミです。
あの夜、夢の世界で──ハロウィンに沸く街の音を聞いているうちに、寂しくてたまらなくなって──どうか目の前に現れてほしいと願いながら、その名を考えついたのです。
そうしたら、本当に来てくれたのです。
魔女名=マレ、本名=ノゾミ。
それは、どうか消えないでと願ったもの。
何もかもが失われても、どうかそれだけは残っていてほしいと願ったもの。
だから、それの名を二つに分けて、一番最初に書いたお話の主人公の名前にした。
それこそが。
「……希望」
希 と 望。
二つを合わせて「希望」。
その名を持つ、世界一の魔法使いの女の子。
「うん、そうだよ」
シオリのつぶやきに、カナリアが笑顔を浮かべました。
「マレは『わたし』にとって希望そのもの。そんなマレが、まだ消えていない。それは、心の中に希望が残っている証」
絶望に沈んだシオリの前に現れた、小さな光。闇を照らしてくれたその光とともに、シオリはたくさんのお話をつづり、未来を夢見た。
そして、「星渡る船」を思いつき、戦うことを決めた。
だから。
「『わたし』はまだ、あきらめていない。そうでしょ?」
死にたくない。
その言葉が、シオリの心に満ちていきます。
そうです、本当は、死にたくなんかないのです。もっともっと生きて、楽しくて幸せな、そんな毎日を送りたいのです。
「希望の光が、勇気を導いてくれた。希望も勇気も、まだ消えていない。大丈夫、『わたし』はもう一度だけ、がんばれる」
さあ、と。
カナリアが、手を差し伸べます。
「手を取って、『わたし』の心」