俺は君をとっても愛している
『――イルザ。俺はね。君をとっても愛しているんだよ』
秘めた思いを胸に今日もライラルはタタタンタン食堂の扉を開く。
アーチ型の木製扉は見るからに年季が入っている。扉に付いているレバー式の取っ手は鉄製だったが、こちらも年季が入っているため鉄が剥がれてツルツルになっている。昨日もその前の日も、休みの日以外は欠かさず食堂に通いその取っ手を握った。そして、今日もまたツルツルになった鉄を感じて、ライラルは扉を開いた。
リンリン
扉を開くと小さな鈴の音が響く。扉を開ければ食堂からはざわめきが聞こえだした。人の話し声、笑い声が二重、三重にもなって小さな食堂に響いていた。今はお昼時だから余計に人が多く感じた。遠くからは料理を作る音。そのいつもの賑やかさの中でもライラルの目線は一つに釘付けだった。
鈴の音に反応してテーブルを拭いていた手を止め、ライラルを見る人がいる。栗色の髪を束ねて、切れ長の瞳を持つこの店の看板娘だ。
ライラルはその娘を見て顔を綻ばせる。とても幸せそうに。
しかし、彼女は無表情にライラルを見つめた。そして、いつもの言葉を口にした。
「こんにちは、ライラルさん。……メニューは日替わりですか?」
「うん。お願い。イルザ」
特別な思いを寄せる彼女の名前をやはり特別な気持ちでライラルは呼んだ。その声は静かな熱を孕んでいた。揺れる空気を感じたのかイルザの眉根がひそまりだす。困ったように視線を外して、イルザは年頃の女にしてはやや低い声を出して彼に告げた。
「お好きな席にどうぞ」
喧騒に紛れそうな小さな声は、ライラルの耳に逃すことなく届いた。彼は一度、頷き、空いていたいつもの席へ歩き始めた。
ライラルが座る席はいつも決まっている。窓際の角。店全体が見える場所だ。その席は、扉と同じアーチ型の窓をしており、柔い太陽の光りをテーブルに写していた。
"やぁ、また会ったね"
光りに照らされたテーブルがそんな事をライラルに話しかけているような気がする。それに目を細め、もう体に馴染んでしまった椅子に腰かけた。ライラルはまた目線をイルザに向ける。
今、彼女は注文をとっているようだ。表情はやはり無表情。愛想の欠片もない。だが、ほんの少しだけ眉根がひそまっているのをライラルは気づいた。
――ちょっと、困っているみたいだな……大丈夫かな?
早口の客を相手にしているらしく、イルザは忙しなく注文を取っていた。書き終わるとイルザは注文を繰り返し、お辞儀をすると足早に厨房へと行く。その一つ一つのしぐさを目に焼き付けるようにライラルは見つめていた。
やがて、ライラルの注文した料理を持ってイルザがやってくる。丸い木製のお盆に料理を乗せ、彼のテーブルに置いていく。今日の日替わりメニューはライス、トマトスープ。そしてメイン料理は鶏肉を揚げたものにたっぷりタルタルソースがかかっている。あとは、お情け程度のサラダだ。量は大男が食べそうなくらい大盛りだ。
「ありがとう、イルザ」
「…………ごゆっくりどうぞ」
心地よい低い声を聞いて、くるり、踵を返す彼女を見届けて、ライラルはフォークとナイフを手にとった。
ここの日替わりはいつも肉料理がメインだ。港町の漁港が近い場所にあるタタタンタン食堂では来る客は漁師か船乗りばかりだった。屈強な男たちは魚は食べ飽きている。だから、食堂ではガッツリ肉料理がメインなのだ。
細身で屈強な体とは言えない体つきのライラルには多い量だったが、今日も意気込んで腹におさめる。暫くは腹がもたれるが、それでもイルザに会えることを思えば大したことではなかった。
なんとか腹におさめた後、膨らむ腹を擦っていると、イルザが食器を下げにくる。
「ご馳走さま」
こくりとだけ頷いて返事をするイルザの顔はどことなく赤く、その横顔を見ているだけで、ライラルの気持ちが溢れていった。
お盆がテーブルに置かれ、その上に食べ終わった、お皿が置かれていく。几帳面な彼女らしく音は最小限。その時間だけはイルザを間近で見れる。ライラルにとっては一日で一番、至福の時間。いつもなら、お金を渡して、店を出たらそれでおしまい。それが惜しくて、溢れる気持ちを言葉にして、ライラルは口を開いた。
「ねぇ、イルザ。俺はね。君のこと――」
言葉は最後まで言えなかった。イルザが両手 でライラルの口を塞いでしまったからだ。
イルザを見ると、顔を真っ赤で、目は吊り上がっていた。そんな顔も可愛いなとライラルは呑気に思う。
――また、言わせてもらえなかった。
ライラルがこうやって口を塞がれるのは一度目ではない。
彼が覚えてる限り、今回で57回目だった。
◇◇◇
イルザとの小さな攻防を始めたのは、ライラルがこの食堂を初めて訪れた時からだった。
彼の家は貿易商を営んでいた。貿易商とはいえ規模は小さく、取引は個人が主だった。顧客は幅広く、貴族から一般市民まで。独自のルートを持つライラルの家は欲しいものを探し見つけてくれるとあって顧客からの信頼は高かった。
家の長男として生まれたライラルは家の仕事を継ぐ者として早くから期待され、教育を受けていた。彼は感情の起伏の少ない子供で常に穏やかだった。そして、何より優秀だった。
両親が期待した道を優等生のまま行くライラルには一つ下の弟がいた。弟はライラルとは真逆に天真爛漫で、優秀とは言えなかった。それでも、兄であるライラルが優秀で問題もなく家業を継いでくれる未来が想像できたので、なんの問題もなく、マスコット的に弟は両親から溺愛された。
弟のパットはごくごく普通の少年でよく恋をした。
「兄貴、あの角っこにいる家のミリーがすっげぇ、可愛い。胸もデカイし」
「胸って……」
「何言ってんだよ。兄貴。胸はロマンだ。夢のかたまりだ。 はぁ~、触りたい」
「こらこら。そんなこと言ったら本人が嫌がるよ?」
「分かってるって。言わないよ。心に熱く秘めておくだけだ」
「…………」
「っていうか、兄貴は好きな女とかいないの?」
「え?……うーん。よく分からないな……」
異性に対しての好きはライラルにとって遠い感覚だった。家族は好きだが、それとは違うもの。そんな思いを抱くことはなかった。
パットはそんな兄を見て、ため息混じりに言う。
「兄貴は格好いい顔してるのになぁ。もったいない」
「もったいないって……」
「兄貴の客とかさ、ポーッと兄貴の顔を見ているじゃん。あれ、絶対に兄貴に気がある」
「そうかな?」
「そうだって!」
「そうかなぁ……?」
好意を抱かれていると言われてもいまいちピンとこなかった。やはり、好きという感覚はライラルの中にはまだなく、芽生える気配すら感じない。
誰かを好きになる。
そんな日が自分にもくるのだろうか?
想像できなくて、ライラルは首を竦めた。
よくある一つの家族はバランスがよく平和に過ごしていた。18歳になったライラルは変わらず優秀で父親の片腕として仕事を手伝うまでになっていた。パットとは自由に振る舞いながらもライラルの補佐として同じ仕事を手伝う日々。
バランスがよかった。
何もなくこのままいくのだろうと思っていた。
父親が倒れるまでは。
風邪一つしない元気が服を着て歩いていたような父親が病で倒れてから家族は混乱に陥った。幸い父親の病は死に至るものではなかったが、それでも今までのように仕事はできなくなってしまった。別宅で療養することになり、母親も父親の看病で家を空けることが多くなった。
片腕として仕事をしていたライラルに全ての重責がのしかかった。
ライラルはその聡明さで危機をうまく切り抜けた――ということはなかった。
もう二年も前の話だが、当日、一番混乱をしていたのはライラル自身だった。父親という盾がないまま先頭を走るということは彼にとって重く、押し潰されになるのを必死で堪えた。
周囲からは代替わりと見られてライラルをしごいてやろうと無茶を言う者もいた。
お得意先のロンハル卿がその筆頭だった。
「僕も無茶を言っていることは分かってるんだよ? しかしだね。この色がやはり気に入らない。この女の子も!」
ロンハル卿に頼まれて取り寄せたものはメリーゴーランド型のオルゴールだった。彼は見た目は腹の出たハゲ親父だったが、可愛いものが大好きで、特にオルゴールの収集には熱心だった。
その彼の為に新たなオルゴールを入手したが、もう4回もこれではないと言われてしまっている。父親と行くときはこんなにごねられなかった。それに疲弊する。
「ライラル君。僕はねぇ。君を高く評価しているんだよ? お父さんが倒れたからには、君が長だ。これからは君の時代だ。だから、私は涙を飲んで、あえて君に言うよ」
ロンハル卿はライラルに詰め寄った。
「この馬に乗っている女の子は巻き髪の女の子がいい! 私は巻き髪の女の子が好きなんだ!」
ロンハル卿は熱く、うざく、そして変態だった。
ライラルはそんな彼の好みに嫌な顔をせず「わかりました。次はお気に召すものを持ってきます」と言い、彼の屋敷を後にした。
屋敷を出たあと、オルゴールを持ちながらライラルは大きくため息を出した。
――疲れた……
父親が倒れて以来、バタバタしているというのに、お得意先からの苦情はライラルを精神的に疲れさせた。
それに輪をかけるように取引先からは父ではないからと仕事をもらえないこともあった。パットも手伝ってくれてはいるが、手が回らない。
――疲れたな……
ライラルは追い詰められていた。自分でも気づかないほどに。
そんな日々を過ごしていたとある夜、ライラルは別口の仕事でうまくいかず、雨が降る中を歩いていた。夜遅くだったので、雨で急ぐ人もいない。降りしきる雨に体を委ね、ライラルは呆然と歩いていた。
パシャリ。革製のブーツが水たまりを踏む。この靴はもうダメかな……苦い思いを感じていると、顔に光があたる。光に導かれるように顔を上げると、とある店名が目に飛び込んできた。
タタタンタン食堂。
陽気なリズムのような店名に惹かれて、足をとめる。それと同時に朝から何も食べていないことに気づいた。不意に活動をし始めた腹を擦り、ライラルは食堂の扉をゆっくり開いた。
「こんばんは……」
恐る恐る中を覗くとリンリンと鈴の音が鳴った。店は終わってしまったのか、誰もいなく、木製のテーブルには木製の椅子が置いてある。床を掃除しやすいように片付けてあるみたいだ。
誰もいない店に肩を落として、店を出ようとした時、低めの声に話しかけられた。
「あの……店はもう終わりました……」
振り返るとモップを手にして無表情な女性が立っていた。いかにも掃除中というその姿にはっとした。ポタリと自分から雨水がたれ、床を濡らしていることに気づいたライラルは、慌てて声を出す。
「すまない……少し腹が減っていて、開いていればと思ったんだけど……床、汚してしまったね。本当にすまない……失礼する」
早口でそう言い、踵を返す。一歩、歩き出すとくんっと、何か服を引っ張られた。顔だけ振り返ると、無表情だった女性はやや頬を赤くして、目を吊り上げてライラルの濡れた服を引っ張ていた。
その光景にライラルは瞬きを繰り返す。
「あの……」
「はい……」
「お腹すいているんですよね?」
「あ、うん……」
「まかないのスープでよければありますから、食べていきますか? それに……そのままじゃ、風邪を引きます」
ちょっと低めの心地よい声に惹かれて、ライラルはじゃあと、お願いをすることにした。
彼女は足早に歩き出すと、階段を登っていってしまった。椅子に座られポツンと残されたライラルはその様子を呆然と見つめる。しばらくして、タッタッタと、小刻みな靴音がして、彼女が戻ってきた。手にはタオルと服がある。彼女はタオルを無言でライラルの首にかけた。
「拭いてください。あとこれ……父のものですが、サイズが合えば使ってください」
「え? いや、そこまでしてもらうのは……」
「そうですか。なら、戻してきます」
またタッタッタと彼女は行ってしまう。少し慌てたのか、階段の一段目で滑って転びそうになっていた。立ち上がり、遠くから声をかける。
「大丈夫?」
「っ……大丈夫です。座って、拭いててください」
また、タッタッタと彼女は行ってしまった。その様子を呆然と見つめ、ライラルはゆっくりと椅子に腰かける。首にかかったタオルは白くて柔らかく、彼の体から水をみるみる含んでいった。
顔を拭くと太陽の匂いがした。その匂いに目を細め、ライラルはありがたくタオルで顔や頭を拭いていった。
拭いていると今度は鼻をくすぐるいい匂いがしてきた。少しスパイシーな匂いは否応なしにライラルの腹の虫を騒がす。ぐぅ~。虫が鳴ったところで、彼女が湯気のたったスープを持ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
テーブルに置かれたスープはトマトベースのスープだった。中にはニンジンと玉ねぎ。そして、すね肉も見える。スープの赤を引き立てるように、パラッとパセリがスープの真ん中にふられていた。
ごくり。喉が鳴り、たまらずスプーンを手に取り急いで口に運ぶ。急ぎすぎて、ちょっとむせた。んぐっと、奇妙な音を喉から出すライラルに彼女は声をかけてきた。
「大丈夫ですか? お水を持ってきます」
「いや、平気だ……」
返事を待たずに、タッタッタ。また彼女は走り出してしまった。やはり呆然と見送り、お水を持ってきた彼女に微笑みかけた。
「ありがとう」
「いえ……」
照れ隠しなのか、つりあがった目がますますつり上がる。それに目を細めて、今度はゆっくりとスプーンでスープをすくい、口に含む。
トマトの酸味と甘みが舌をじんわりと広がり、それがなくなるとピリッとした刺激がした。そのスパイシーさが食欲を促し、ライラルは夢中になってスープを完食した。
空っぽになったスープ皿を見て、食べてしまったと、やや残念な気持ちになる。ボーッとスープ皿を見つめていると、手伸びてきて、お皿を持ち上げた。その手の先を視線を追いながら見つめると、無表情で片付ける彼女がいた。目が合うと、またつり目になる。
「美味しかった。ありがとう」
「お礼なんて……私が作ったものですから、味は落ちます」
「え? そう……なの?」
そう言うと、彼女は少し伏し目がちになり、目を吊り上げて拗ねたような表情になる。
「父の作ったものには敵いません。父のスープはもっと美味しいんです」
お盆を握っていた彼女の手の力が強まったのか、スープ皿がカタンと小さく揺れた。
うつむいてしまった彼女にライラルは何かが芽生えたのを感じた。その芽吹きを感じながら、口を開く。
「とても美味しかったよ」
はっとして彼女が顔を上げる。それに微笑みかけた。こんなに自然に笑うのは久しぶりだ。
「とても、とても美味しかったよ」
「っ……」
彼女は声を詰まらせ、きゅっと、口をすぼめる。顔はほんのり赤かった。
「……どうも」
素っ気ない低い声に微笑みかけ、ライラルは懐から財布を取り出す。
「お金はこれでいいかな?」
ライラルは銀貨を三枚取り出して彼女に見せた。ガタンとスープ皿が今度は大きな音を立てて揺れる。ライラルは皿が落ちないように手を伸ばし、その揺れを止めた。
「そ、そっ!」
「そ?」
「そんなに貰えません!!」
淡々と会話をしていた彼女が出したとは思えないほどの大きな声。それにライラルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「そう? じゃあ、いくら?」
「え? 値段なんてありません……」
「そうなの? じゃあ、これで」
ライラルは銀貨を三枚、お盆の端にのせる。
「ちょっ……!」
「とても美味しかったし、タオルも貸してもらったから、受け取って」
そう言ってライラルは立ち上がる。彼女は動揺して口をパクパクと動かしていた。その可愛らしい表情に目を細めて、ライラルは声をかける。
「今度はお店が開いている時間にくるね」
そう言って店の扉を開けた。
リンリン
鈴の音がまた鳴り、雨がライラルを包む。しかし、今度はあまり冷たさを感じなかった。腹の中がポカポカとあたたかく、雨もへっちゃらな気がした。
パシャリ。水溜りを踏みながら走る。
家に帰ってからも、お腹の中のポカポカは消えなかった。
その後、ライラルは風邪を引いて丸1日寝込んだ。
「なんで、風邪なんか引くんだよおおお!」
弟のパットから絶叫に近い泣き言を言われたが、ごめんとだけ伝えた。パットはぶつぶつ言いながらも、ライラルの為に粥を作って食べろと念を押して、仕事に行ってしまった。
熱に浮かされながら、ライラルは早く治してあの食堂に行きたかった。
また、彼女に会いたかった。
風邪が治ったライラルはお店に出掛けていった。お昼どき、少し迷いながらリズミカルな店名を見つける。扉を開けたら彼女がいる。そう思うと、レバー式のドアノブを下ろすのをためらってしまう。ごくり。生唾を飲み込んで、ドアノブを下ろした。
リンリン。
鈴の音がして、店内を見回す。お昼時とあってか屈強な男で溢れかえっていた。
タッタッタ。喧騒に紛れて足音が近づく。彼女だ。
――あ。
お互いにあの時の人だと認識して、同じ表情をする。足を止めて、やや目を吊り上げて、彼女は声を出した。
「いらっしゃいませ」
低い心地よい声。
その声を聞いたら、ライラルの中で芽吹いたナニかがパッと花開いた。
――あ。これって。
不意に自覚して、ライラルは新しい感情を口に出したくなった。
「ねぇ、君の名前は?」
「え? ……イルザですけど……」
「そう……俺は、ライラル」
「ねぇ、イルザ。俺はね。君のことが好きみたいだ」
自然に出た言葉は喧騒に紛れながらもイルザだけには届いたようだった。それは、イルザの表情を見ればわかる。
はぁ? 何いっちゃってんのこの人。
みたいな顔をしていたからだった。
そんな顔を見てもライラルは能天気に"すごく可愛い顔をしている"と思っていた。
◇◇◇
恋を自覚したライラルを一言で表すなら"しつこい男"だった。
ライラルは食堂が休みの日以外は、毎日かかさず通いつめた。そして、ニコニコと悪気のない笑顔でイルザに話しかけてくる。
「い、いらっしゃいませ」
「こんにちは、イルザ。今日も可愛いね」
息を吸うように可愛いと言い、事あるごとに「好き」を口にした。まるで気持ちの蛇口が壊れてダダモレになっているかのようだった。
「ど、どうぞ……」
日替わり定食を顔をひきつらせながら、持ってきたイルザにライラルは微笑みかける。
「ありがとう、イルザ」
それにビクリと体を震わせ、目を吊り上げてイルザは行ってしまう。タッタッタ。彼女の足音を聞きながら、ライラルはてんこ盛りの昼御飯に向き合うのだった。
そして、食べ終わるとイルザが食器を下げにくる。ほんのり赤い頬に、つりあがった目。それを見ているとたまらなくなって、ライラルは口を開いた。
「ねぇ、イルザ。俺はね。君のこと――」
好きだよと口にしようとしたところで、イルザが両手でライラルの口を押さえる。
目を瞬かせると、顔を真っ赤にして睨みつけてくるイルザの顔が見える。
――それ以上、言わないで!
明確な意思を感じたが、やはりライラルは能天気に"すごく可愛い顔してる"と思っていた。
ライラルはへこたれなかった。むしろ、イルザになぜ、言ってはいけないのか聞いたこともあった。
昼時が終わって、客がはけるのまで粘って粘って、ライラルはイルザに話があるんだけど、と呼び出した。イルザはやはり、頬を赤くしてムッとした表情をしていたが、素直に付いてきた。
「お店の片付けがあるので、ここで」
店裏のムードのないところで立ち止まり、ライラルは疑問を口にした。
「ねぇ、イルザ。どうして、君に好きと言ってはいけないの?」
「っ!」
イルザは顔を真っ赤にさせて、これでもかってほど、目を吊り上げた。
「そ、そうやって……私をからかって楽しいですか!」
「は?」
思ってもみなかった答えを言われてしまった。イルザは今までの不満をぶつけるように声を張り上げる。
「す、好きだとか……簡単に口にしないでください。困ります!」
ライラルの中に咲いた花が萎れていく。伝わってなかったことが、酷く辛かった。
「イルザ……俺は、簡単には口にしていないよ。イルザを見ると、好きって感情しか溢れてこない」
「っ……」
「俺はね。初めてイルザに会った時に、救われたんだ。とても疲れていてね。イルザが作ってくれたスープが美味しくて、君のことが忘れられなかった。だから、早く会いたくて、会いたくて……会ったら、好きしか出てこなかったんだよ」
静かな告白。でも、誠意があって、熱があって、彼女に届くように思いは言葉にのせた。
「俺はね。どうしようもなく、君が好きだよ」
そう言ったら、イルザは顔をますます赤くさせて肩を震わせた。その様子に困らせてしまっているな、とライラルは感じた。困らせてしまうのに、伝えたくてたまらない。溢れてしかたない。
そっとイルザの答えを待っていた。
「――ダメですよ……ダメなんです」
彼女は苦しそうに何度もそう言った。イルザは泣きそうに顔を歪めて、スカートを握りしめる。赤いスカートが握られすぎて、シワができて、震え出す。
「あなたはミルハーン家の長男ですよね? ……優秀な貿易商だとお客さんが言っていました。あなたは、ずっと家業をするのでしょう? なら、ダメです。私は一人娘です。タタタンタン食堂を無くすわけにはいかないのです。今は父がいますが、年ですし……将来的には料理人と添い遂げたいと思ってます」
イルザが顔を上げる。
「私は恋をしてられません! 私は……私は……あなたを好きになっちゃダメなんです!」
悲痛な叫び声にライラルの眉根がひそまる。イルザは乱暴に目元を擦った。泣くもんかと強い意志がそうさせているようだった。
「イルザ……」
「っ……」
「イルザ……」
抱きしめたかった。でも、抱きしめたらそのまま拐ってしまいそうだった。だから、ライラルは手を固く握りしめた。暴れだしそうな手をきつく握りしめた。代わりに愛しげに何度も彼女の名前を呼んだ。
顔を上げた彼女は目が腫れていた。それに微笑みかける。
「俺は……それでも、諦めきれないんだ。ごめんね」
きつく握った手が爪が食い込んで痛みが走る。それを無視して、ライラルは言葉を続けた。
「君に好きって言いたい。だから、その道をさがすよ」
はっとした顔に微笑みかけた。そして、彼女の答えを待たずにライラルは歩きだした。
いつの間にか走っていた。
ライラルの中にフツフツと怒りに似た黒い感情が沸き上がる。その衝動のまま、家に戻ってきた。
「あ、兄貴?」
屋敷にはパットがいた。息を切らせながら、ライラルは実に爽やかな笑顔で言った。
「ねぇ、パット。君にお願いがあるんだ」
「お、おぅ。なんだ?」
「君に家業を継いでほしい」
「――は?」
「君も俺の片腕として随分やってくれたし、できるよね?」
小首を傾げたライラルにパットは座っていた椅子から転げ落ちた。すぐ、立ち上がって動揺を口にする。
「いや、なんで!? なんで、そうなる!?」
「家が邪魔なんだ。イルザに好きって言えない」
「は? え? ちょっと待ってくれ。イルザって……兄貴が通っている食堂の……」
「パット。俺は、料理人になる」
「は?」
「家は俺が継ぐと思っていたから、君には優しくぬるい対応をしていたけど、今から情は捨てる」
ライラルは口の端を上げた。
「今日から死ぬ気で頑張って」
ライラルの目は笑ってなかった。パットは唖然とした後に、肩を震わせて叫んだ。
「なんで、そうなるんだよおおお!!」
彼の絶叫を無視して、その日を境にライラルはパットが自立するように厳しいを通り越した地獄のような対応をし始めた。
同時にライラルは料理人になるために、厨房に立った。母親がいないときに厨房に立つのはパットの役目だった。それはライラルが料理の才能がないことを知っていたからだ。パン一枚焼けない。なぜか消し炭にしてしまう。そんな兄が厨房にいる。その光景にパットは戦慄した。
「やめろ! 兄貴! 怪我するぞ!」
「怪我なんか気にしていたら、イルザに好きって言えない」
――ざくっ!
「うあああっ! 手! 手を切ってるって!」
「……包丁って難しいんだね」
「包帯ー! 消毒液ー! どこだー!」
「えっと、この鉄フライパンで焼くんだよね」
「はっ。やめろ! 兄貴! イカをそのまま入れるな!!」
――バチバチバチ!
「っ……これは手強いな」
「ぎゃあああっ! 燃える! 燃えるって!! 火事になる!!」
ライラルは料理の才能が全くもってなかった。それでも、やはりめげずに何度も何度もチャレンジし続けた。その度にパットは絶叫し、厨房はてんやわんやだった。
それでも、やはりライラルには料理の才能はゼロだった。
◇◇◇
料理に悪戦苦闘している日々の中、タタタンタン食堂に来たライラルの腕には包帯が巻かれていた。イルザは何度かチラ見をした後、食べ終わった食器を下げる時になって、やっと包帯のことを尋ねてきた。
「その傷、どうしたのですか……?」
「あぁ、これ……? 料理をしようとして火傷した」
苦笑いをしたライラルにイルザはぎょっとする。何度か忙しなく瞬きを繰り返した後、困ったように眉を下げた。
「もしかして、料理……苦手なんですか?」
「あ、うん……情けないけどね。料理は上手くない。上手くないけど、夢を叶えるために頑張っているよ」
ライラルは朗らかに笑う。その夢がどうしようもなく叶えたいものだと、子供のように無邪気に笑った。
「料理人になりたい。そしたら、イルザに好きって言えるから」
その言葉にイルザは頬を染め、口をへの字にして、目をつり上げる。
「……怪我、するならやめてください」
「え?」
いつもは低音の声が少しだけ高くなる。
「料理人にならなくてもいいですから……」
その告白に、ライラルは一瞬だけ息をとめる。困ったようなイルザの表情を見て、ぱっぱっぱっと、心の中で愛が連続して花開くのを感じていた。その思いを伝えたくて、口を開く。
「じゃあ、言ってもいいの?」
「そ、それは……」
困っている。困らせたくはないのに、花が芽吹いてしかたない。愛が口から溢れてしまう。
「ねぇ、イルザ。俺はね。きっと、君のことを――」
そこまで言って、口は両手で塞がれてしまう。見上げたイルザは、パクパクともどかしそうに口を動かすのみで、彼女の言葉は口から出なかった。
その顔を可愛いなと見ながらライラルは言おうとした言葉は何だったのか考えていた。
「好き」ではなかった。
もっと、深い言葉だった。
その日の夜、雨が降った。
窓を雨が叩く音を感じながら、ライラルは一人、仕事の整理をするため、机に向かっていた。忙しなく羽ペンを紙に走らせ、便箋に入れた後、指輪型の封蝋をする。一息ついたところで窓を見つめた。冷たい雨音がまだ、窓を叩いていた。
雨音響くこんな夜はイルザを思い出してしまう。心が冷えて、あのあったかいスープを食べて、彼女の少しつり上がった顔を見たくなる。
――イルザ、何をしているかな。
引き寄せられるように窓辺に立った。
こつり。冷えた窓におでこを付ける。ライラルの熱が窓に移り、おでこがあたった箇所から白い円が広がっていく。
「……会いたいな……」
彼女に対して今日は「好き」とは思わなかった。好きを越えた思いが芽吹いてしまった。
これを愛と呼ぶなら、間違いなくライラルはイルザを愛していた。
「ねぇ、イルザ。俺はね。君をとっても愛しているんだよ」
伝えられない言葉を窓に向けて言うと、思いは白い円となって、やがて消えていった。
◇◇◇
二人の関係はあまり進展が見られず一年が過ぎていった。その間に、変わったことが三つ。
一つ目は、ライラルが料理をするのを諦めた。イルザに止められたのが大きかった。これはパットが泣いて喜んだ。
二つ目は、パットが一人でも仕事を任せられるまでに成長した。よく頑張ったねとライラルが言ったとき、やはりパットは泣いて喜んだ。
三つ目は、ライラルの父親が自力で生活するまで回復して、屋敷に戻ってきた。
「迷惑をかけたな」
前は屈強な体つきの父親が随分、やせ衰えてしまった。それに切ない思いが込み上げるが、元気な姿を見れるのがライラルは一番だった。
父親が戻ってきたので、ライラルはパットに跡を継がせたいと思っていることを告げた。父親はひゅっと息を飲み、静かにライラルを見つめた。
「お前は他にやりたいことがあるのか?」
「やりたいことというか、添い遂げたい人がいるんだ」
そう言って、イルザのことを話した。父親は無言で話を聞いた後、深い息を吐き出した。
「ライラル……お前の気持ちはわかった。だがな……大事なことを一つ見落としているぞ」
「大事なこと?」
「そのイルザさんは、お前と添い遂げたいと思っているのか?」
ピンと、張り詰めていた糸が切れる。
――イルザはいつも俺の口を塞いで言わせてくれないけど、本当はどう思っているんだろう……
切れた糸はライラルを走らせた。聞きたくて、居てもたってもいられない。ライラルの足は彼女の元へ向かった。
リリリリンっ
鈴の音が乱暴に鳴り響く。ライラルが急いで扉を開いたからだった。タタタンタン食堂はお昼時で、店内は相変わらず賑やかだった。
「イルザ!」
「ライラル……さん?」
驚いたイルザに向かって、ライラルは彼女の肩を掴む。その拍子にイルザの手からお盆が落ちた。お盆はくるくる回りながらやがて床に落ち着く。それを気にせず様子もなくライラルは真剣な顔で問いかけた。
「イルザ……君は俺のことをどう思っているの?」
突拍子もないタイミングで言われたことに店内が静まり返る。ポカンとしていたイルザの顔色が、みるみるうちに赤くなる。
「何を……言って……」
「大事なことなんだ。答えて、お願い……」
そんな攻防を続けていたところで、一人の若い男が厨房が出てくる。
「イルザさん、どうかしましたか?」
料理人の格好をした見知らぬ男の姿にライラルはイルザの肩から、だらりと手を放す。嫌な予感がした。
「イルザ……この人は……?」
イルザは言いにくそうに男の名前を告げる。
「アッシュさん……今日から料理人として厨房に入ってもらっているの……」
芽吹いた花が一斉に散っていく。
大事に育ててきた愛の花が花弁一つ残さず散っていく。また、芽吹くのを拒むように、茎をへし折り、根っこから花がもぎ取られる感覚に陥った。
――あぁ、そうか……この人はきっと、イルザが望む。添い遂げたい人か……
ふらつく足を一歩、二歩下げる。今、自分はどんな顔をしているだろうか。お幸せにとか言える顔をしているだろうか。
ライラルは強張った顔で彼女に告げた。
「そういうことなんだね……よく分かった」
目の前の光景を見ていたくなかった。だから、逃げた。
「ライラルさん!」
彼女の制止にも足を止めずライラルは走った。
「はあはあはあはあっ」
――愛してるとは結局、一度も言えなかった。
「っ……」
――本当は何度だって伝えたかった思い。何度も何度も口にしたかったのに。
夢を見た。
彼女の手をとって、「愛している」と伝えられる日のことを。
それだけをただ、願っていた。
本当にそれしかなかった。
「ライラルさんっ!」
不意に後ろから腰を抱きしめられる。ライラルは走っていた為につんのめり、そのまま地面に倒れた。
「っ……」
手はつけたが背中に体重がかかり、結局は顔が地面についてしまった。痛みと土の匂いを感じながら、ライラルは情けない気持ちでいっぱいだった。
「ごめんなさい!」
背中でちょっと低い声がした。同時にのしかかっていた重さがなくなる。ライラルはゆるり顔を上げ、体を起こた。振り返ると、顔を赤くさせ、申し訳なさそうに眉を下げたイルザがいた。
「なに……?」
言葉を発したものの、トゲが隠せなかった。彼女は優しいから、ライラルに話をして、けじめでもつけにきたのだろう。
――嫌だな……聞きたくない……
うつむき、耳を塞ぎたくなっていると、柔らかな低音の声がゆっくりと話し出す。
「ライラルさん。私は……あなたのことを――」
聞きたくない! そう思うと、ライラルはイルザの口を手で塞いでいた。自分でもどうしていいか分からない。トゲを出したくないのに、気持ちが暴れだしてしまう。
「イルザ、ごめん……さよならを言うなら聞きたくない。今は見逃して……お願いだっ」
これ以上、酷いことを言いたくなかった。だって、本当に愛していたから。こんなに愛する人はもういないって思うくらい愛しかなかったから。
だから――――
イルザは目を吊り上げて、ライラルの手を剥ぎ取った。そして、肩を震わせて彼女にしては珍しく声を張り上げた。
「ちゃんと聞いてください! 私はあなたのことが好きなんです!!」
怒りをぶつけるような告白。それにライラルが鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
イルザは今までの鬱憤を晴らすかのように怒りの表情で話し出す。
「あなたはいつもそう! こっちの言葉を待たずに、いっつも、いっつも、急に好きとか、可愛いとか言って! おみっ……! お店で言わないでください! 何度もお盆を落としそうになったことか……! 挙げ句の果てには、私の告白まで聞いてくれない! 本当に! なんで、いつも待ってくれないのですか!!」
感極まって泣いていたが、イルザの目は吊り上がったままだった。
ライラルが固まったまま、イルザに話しかける。信じられなくて、確かめるように疑問を口にした。
「だって、あの人は……? あの料理人……君は料理人と添い遂げたいって……」
ぐずぐす鼻を鳴らしながらイルザは話し出す。
「あの人はタタタンタン食堂を手伝ってくれる人です。父の知り合いの息子さんで、彼が望むならおいおい店を託していいとまで言われています。……私がお嫁に行ってもいいように」
――お嫁に行く……? どこに?
――どこに……? どこ……に?
ぽんっ。ぽぽぽぽぽんっ!
ライラルの心の中で愛の花の種が蒔かれる。水をやってゆっくりと育つはずの種はイルザの言葉という栄養がたっぷり与えられ、芽吹き出す。ぐんぐん芽は伸びて、ぽんっと弾ける音を立てながら、満開の花が咲き乱れた。
心に愛が満ちていく。それでもまだ信じられなくて、ライラルは確かめるように早口で言った。
「だって、君はタタタンタン食堂を無くしたくないって言ったから! だから、俺は弟が継げるようにしごきまくって! 料理人にはなろうとしたけど、才能はないから諦めて……でも! 店は手伝いたいから、ここら辺の食堂は全部見て、美味しいもののあるところの聞き込みもして! それで! それで……!」
不意に言葉が塞がれた。手ではない。今度はイルザの唇によって。
驚いて目を見開くライラルにイルザは目を吊り上げて言う。
「私だって……あなたのお嫁さんになりたくて、お父さんにお願いして、料理人を入れてもらったんです……お店は残したいから……」
真っ赤になって、イルザは話し出す。不満をぶつけるように低い声は走り出す。
「だいたいっ……あんなに毎日毎日、毎日毎日、好きとか可愛いとか言って……! あなたに恋をするしかないじゃないですか……!」
膨れっ面になったイルザにライラルは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
そして、意識を保てず、そのまま倒れた。
ごんっと音を立てて地面に大の字になったライラルにイルザはギョッとする。ライラルは熱くなっていく、顔を晒したくなくて腕で顔を冷やした。心臓が苦しいほど高鳴っている。思いが溢れて止まらない。叫びたくてたまらない。
「イルザ……俺は君に言ってもいいの? 思いを叫んでいいの?」
「っ……叫ぶのはちょっと……」
ライラルは腕をどけて、片目でイルザを見つめる。彼女の頬は赤く、目はつり上がっていた。顔にあたった腕をどけて、体を起こす。
目の前にはいつも可愛いなと思っていた彼女の顔があった。
その顔を見るといつも込み上げてくるものがあって、でも、塞がれて言えなかったことを今、言える。
彼女に対して気持ちを言うなら手をとって、微笑みかけながらしようと思っていたのに、いざ言えるとなると、口が震えた。
「イルザ……俺は……俺はね……!」
どうしよう。嬉しくて泣きそうだ。
「俺は……っ……とっても、とっても、とっても……とってもっ……!」
芽吹いた愛の花を束にして、大輪の花たちを愛しい人に捧げよう。
「イルザを愛して……いるよっ――――」
捧げた言葉はすぐに受け取ってもらえた。
真っ赤になって、目を吊り上げたのイルザが唇で受け取ってくれた。
お読みくださってありがとうございます。
被害を一番こうむったパットですが、ライラルが競合調査のための食堂巡りに付き合わされ、その先で好きな人を見つけたという裏話があります。なので、彼もまた幸せになっていますので安心してください(^^)
誤字報告ありがとうございます。いつも、とても助かっています。
評価、ブックマークも本当にありがとうございます。いつも本当に励みになります。
りすこ




