どこにでもあるよくあるはなし
昔々あるところに少女が住んでいました。父母と三人、田舎にある小さな村に暮らしていました。そこは平和を絵に描いたような村で、優しい父母や隣人に囲まれ、少女は幸せに育っています。しかし、そんな穏やかな日々は長くは続きませんでした。
魔物が村を襲ったのです。平和な村には対抗できる手段はありません。少女は父母に部屋へと押し込められました。
大丈夫よ。すぐに戻るからね。母が笑います。父は頭を撫でて振り返りませんでした。
閉められた戸に駆け寄って開けようとすると、ぴくりともしませんでした。窓もない奥の部屋にひっそりと閉じ込められたその意味がわからぬほど、少女は子どもではありません。
魔物をおびき寄せるとわかっていても、少女は大きな音を立てて戸を叩きます。ここを開けて。行かないで。叫んでも誰かが反応を返してくれることはありません。
もはや擦り切れた手を胸の前で組み、泣きながら祈ることくらいしか少女にはできませんでした。
――助けて。誰か助けて。お父さんを助けて。お母さんを助けて。誰か。誰か!
かくして願いは届きました。ただし、相手は神ではありません。少女の目の前には、薄暗い肌にどす黒い目をした男がひとり。血の通っていないような唇とは釣り合わない真っ赤な舌と白すぎる乱杭歯を覗かせて笑っています。どこからどう見ても、誰が見たって人間ではありません。
少女は悲鳴を押し殺し、男は笑みを浮かべます。煙のように蠢く髪を揺らして、男は言いました。
「お前の大切なものをひとつ守ってやろう。その代わり、お前の大切なものをひとつ貰うぞ」
* * *
少女が出会った異形の男は悪魔でした。悪魔の言葉に従い、少女は対価を差し出し、両親も村も救われました。奇跡を起こした少女は気が付けば祀り上げられて、王都にある屋敷に押し込められていました。何か良からぬことが起こる度に国を救い、民衆からは英雄のように慕われています。
そんなある日、魔王が現れました。千年に一度復活すると言われている伝説上の恐ろしい魔物です。魔王は神託を受けた勇者でなければ倒せないと言われています。この国に勇者はいませんでした。それどころかどの国にも勇者などおりませんでした。ですが、誰も心配していません。
だってこの国には今はもう女と呼ばれる年頃になったあの少女がいるのです。何を心配することがありましょう。きっと世界は女が救ってくれるはずです。いえ、世界はともかくとして、少なくともこの国には魔王の被害などなく無事に違いありません。ですから誰もがいつものように過ごしてます。
何も考えず、ただ平穏を貪っていました。
* * *
王から女に届けられた手紙には早急に世界を救うようにと記載がありました。それを眺めていた悪魔は不快感に顔を歪めます。
やれ国境が危ない。やれ隣の国から攻められた。やれ暗殺されそうになっている。
この国の王はそう言っては何度も女に助けを求めて来ました。今度は魔王の出現に女を駆り出すようです。何の力もない本来守るべき民である女に頼りきりとはなんと情けない王でしょうか。きっと王の魂は塵のような味気ないものに違いない。悪魔は盛大にため息をつきました。
椅子に座ったままの女は悪魔を見上げてきます。その瞳は決意が宿っていて悪魔は辟易としました。下らない勅命に従い、また悪魔と契約を結ぶ気になっているようです。
悪魔に言わせればもう少し違う理由で契約をしてほしいところですが、女は意思を曲げたりしないでしょう。
「ねえ、あなたは魔王を倒せる?」
千年も寝こけている魔物を殺せないと思われているとは思ってもみませんでした。なんとも失礼な質問に悪魔は吐き捨てるように答えます。
「お前は足元にいる蟻を踏み潰せないのか?」
そんなふうに言ってみたものの、女には片足がないので下手をすると踏み潰せないかもしれません。自分の例えの無様さに、悪魔はつい笑ってしまいますが、女は怒りも笑いもしませんでした。
「世界を救うためには何を捧げればいいの?」
女は悪魔にとって世界の危機を救うことなど造作もないことなのだと理解したようでした。それにしてもあまりにも単刀直入な言葉です。悪魔にとって遊びも余白もない本題を話し始めるその姿勢は疎ましいものでした。なんとも遊び心のない面白みのない女です。もう少し言葉遊びを覚えてくれれば、悪魔との会話も華やいだでしょうに。
「そうだな……」
会話を引き延ばす気がない女の代わりに、悪魔は思案顔を作って黙り込みました。まるで迷っているようなそぶりを見せます。欲しいものなど、対価になるものなど、ひとつしかないというのに馬鹿らしい演技です。ですがその無駄こそ悪魔としての遊び心と言えるかもしれません。
「では、お前の一番大切なものを貰おう」
たっぷりともったいぶってから告げた言葉に、女はこれでもかと目蓋を見開きました。ひとつしか残っていない瞳が今にも零れ落ちそうです。
悪魔は女を驚かすことができて、しめしめと笑顔を作りました。今までは何を欲しても女が驚くことはありませんでした。躊躇いもなく即決し、色んなものを手放して、たくさんの命を救ってきました。そんな聖女じみた気色の悪い女でも一番大切なものは手放すのが惜しいのでしょう。ああ、顔色も真っ青です。絶望しているのかもしれません。
そう思うと、自然と悪魔の笑みは深くなっていきます。実に悪魔らしい表情でした。
「さあ、どうする。それともお前ひとりの力で救ってみるか?」
もちろん、そんなことは不可能です。女にあるのは自身を差し出す恐ろしいまでの献身の精神だけで、世界を壊さんとする脅威を滅ぼす力など、どこにもないのですから。
悪魔も女が頷くとは思っていませんでした。どうせ命を手放すのならと他を巻き込む気概があるのなら、この国はとっくに滅びていたことでしょう。
だからただ、意地悪を言って困らせてやりたかっただけなのです。どうせこの女は最後には自分のことなど度外視で世界を救うに決まっているのですから、腹が立って嫌がらせをしただけでした。
「私から、よね?」
質問の意図を理解して悪魔はむくれました。ほらやっぱり。この女は自分だけ切り捨てる算段を立てていました。
「当たり前だ。例えお前が自分以上に大切に思うものがいたとしても、そいつの命を奪ったりはしない。俺は善良な悪魔だからな。契約したお前以外のものから奪うことはしないさ」
女の大切なものの命を奪って絶望させてやるのも楽しそうでしたが、悪魔はよく知りもしない誰かの魂など欲しくはありませんでした。好みでない魂を貰って女を絶望させたとしても、女の願いの対価にするには物足りません。
悪魔は宵闇のような髪を対価に父親を救い、まんまるの碧の瞳を対価に母親を救い、薄い耳と肋骨を対価に村を救い、ほっそりとした左腕や右脚を対価に幾度か王都や国を救ってきました。
それは悪魔が女を気に入っていたからに他なりません。どうせ魂を貰うのならば女の魂がいい。その考えは当然の帰結でした。
悪魔の言葉に、女は安心したようにため息をつきました。最期の最後まで他人の心配。ああ、胸糞悪い。とても腹立たしい気持ちになります。
女の命が終われば、悪魔は契約に従い世界を救うでしょう。しかしそのあとのことは一切契約にはありません。
ですから、女の大切なものなど全て消し去ってしまおうと決めました。女ひとりに責を負わせてのうのうと生きているものたちなど死んでしかるべきです。恩恵を受けているくせに女を爪弾きにするものたちも殺してしまって構わないでしょう。
あの王は虐めてから殺しておくことにしましょう。今は腹立たしいだけですが、世界の脅威から救われたあとに自分の国だけ滅ぼされると気が付いたときの絶望は見物かもしれません。
もっとも、そんなふうに苛立ったとしても悪魔は女から奪うことを躊躇ったりはしません。それはそれ、これはこれです。欲しいものは欲しい。この気持ちを捨てるなど悪魔である限り、まったくもってあり得ません。
「……一番大切なものを、捧げるわ。だからどうか世界を救って」
泣きそうな顔をするくらいならば、そんな願いなど口にしなければいいのに。ただ一言、一緒に逃げてほしいと言ってくれさえすれば、いくらだって逃げてやれたというのに。
本当に愚かな女です。自分を顧みない世界に一番大切なものを差し出す価値などあるわけがないのに、いいように利用されて捨てられるとは。そんな世界を掛け値なしに本心で救おうとしているのですから、この女はどこまでも救えません。
悪魔は女に手を伸ばします。頭に触れて、口の中で契約の呪文を唱えれば、それでおしまい。
女の肉は意識を失ったことで脱力して椅子からどさりと転げ落ちました。悪魔はゆっくりと自分の手を見ます。
何だか、妙な感覚がしました。魂を奪った感触というのは、こんなものだったでしょうか。ここ十数年は女の肉や骨ばかりをもらっていたので、もしかするとそのせいかもしれません。物質以外のものが悪魔のものになった満足感はあるのですが、どうにもしっくりきませんでした。
ただ女の生き様は今まで魂を奪ってきたどの人間たちとも似つかないものでした。それが魂に反映されているのかもしれません。なんにせよ、悪魔は十分満足しています。深く考える必要はありません。
悪魔は魂の抜けた余った肉を貰うことにしました。もはや肉は誰のものでもないのですから、ここは早い者勝ちということにしておきましょう。もしくは人間の行いに則って、拾い主にすべての権利があると主張してもいいでしょう。
そんなふうに考えたところで、言い訳や理由付けなど意味はありません。悪魔らしい思考回路でそんなことを考えてみただけで、誰がなんと言おうとこの肉は悪魔のものなのですから。誰にも渡しません。邪魔も口答えも許しません。この抜け殻は悪魔だけのものなのです。
さてどう切り分けようかと肉を眺めていると、目蓋がぱちりと開きました。碧の瞳がたしかに悪魔を見ています。
悪魔は仰天しました。どうして生きているのか。生き物における一番大切なものは魂です。それは覆りません。ならば魂がなくとも肉を動かせる生き物がいたのでしょうか。そんなまさか。
女は悪魔の姿を見るなり、思いきり身を引きました。悪魔に驚いていました。あるいは、その顔にあるのは恐怖でした。
悪魔は息を呑みました。女の――いえ、少女の、この反応を、この表情を、鮮明に覚えていたからです。
「……あなたは、いったい……?」
まるで、初めて会ったときのような、そんな顔をしていました。