大樹の森
【誓】
延々と現れる白いガードレールを背後に見送りながら、街とは違う方向にバスは走っていた。
訓練所を出てから数時間走り続けて、ようやく訓練所の周りよりかは少し賑わいのある場所に出ると、止まる。
先にバスを降りた訓練生達が騒ぎ出すのを誓達も聞いて、慌ててバスを降りた。
「うお!」
誓は目を見開いた。開けた場所に飛行機のようなものがある。
縦に何階にも分かれた船舶のような厚みのある機体が飛行機であると解るのは、左右に真っ赤な巨大な翼を広げているからだ。
白く光沢のある流線型の胴体が見る者の眼を引き付ける。
大型の旅客機よりもさらに一回りは大きい。それに周りには滑走路がない。
誓は背中を押されて。スーツケースの荷物を引きずりながら、飲み込まれるような気持ちで小さな入口から飛行機に乗り込む。
外装とは対照的に中は壁や廊下の棚など木で作られていて、誓はまるで洋館にでもいるような気分になった。
古めかしい落ち着いた感じのホールを抜けると、計器やコンピュータの詰め込まれた巨大な部屋に出た。
エニスが目を輝かせているが、誓には画面に出ている数値が何を計測したものなのかもわからない。ここで操舵をしているのだろうか。
「おお、きたきた!」
計器類や操縦桿などの一段上の場所から、声がしたかと思うと、女性が降りてくる。
「こんにちは。艦長の氷雨です。今日は最初の日だし訓練明けだから疲れてるだろうけど、明日からは船内の仕事をしてもらうからね。よろしく」
吸い込まれるような白い肌に真っ赤な口紅を差して、指にも口紅と同じ色の付け爪をつけている。
エリックは上から下までなめまわすように彼女を見ている。
彼女の趣味なのだろうか、なぜか赤い振袖に紺色の袴を着ている。彼女の動きに合わせて、艶っぽく袖が揺れた。
氷雨の脇から、軍服を着た若い男がにこやかに頭を下げながら前に出てきて、手で通路の方を示した。
「皆の部屋へご案内しますよー」
通路の奥から男が二階へ昇っていっ。金属の階段が小気味のよい甲高い音を立てる。
二つに分かれた細長い通路に沢山のドアが並んでいた。片方が男性、もう片方が女性になっている。
男が腰のポケットから沢山の鍵を取り出すと、訓練生たちに配った。楕円形の赤いタグが鎖で鍵につけられていて、そこには部屋の番号が書かれている。
誓は部屋の前で鍵の番号とドアの番号を確認して、開けた。皺の無い真っ白なシーツのベットに机。丸い小窓からは青い空が見える。
顔を覗かせると訓練所の講師達が見送りに来ているのが見えた。しかし、燕天寺はその中にいない。はるかを心配して出発の直前まで傍に付いているのだろうか。
と誓が思った矢先、背後で開かれたままのドアをノックする者がいた。
「おっさん?」
燕天寺が何か棒状のものを片手で差し出している。ずいぶん古そうな紫の袋に入っている。
「もってっとけ!」
さらに片手を突き出して、誓の方から取りに来るように指示している。
相変わらず尊大だと誓は思った。手に取ると手に思った以上の力ががかかる。金属の重さだ。武器だろうか。
誓が布を取り払うと、黒い鞘に収まった刀が出てくる。
「すげえな! でも、俺は剣なんか扱えないぞ」
訓練所では武器を扱う訓練もあったが、やはり誓は特別得意ではなかった。
聞く耳を持たない様子の燕天寺は、部屋の壁をなぞったり、机に腰掛けてみたりしている。
「相変わらず独特の趣味をしているな、あの女は。私有の機体とはいえ、こんな装飾にする事もなかろう」
誓はおそらく氷雨の事だと思った。
燕天寺は部屋の出口にたって、思い出したように振り返ると、誓の眼を見た。
「剣術はあの女にも習える。教えてもらえ、まぁはるかの事頼むぞ」
それだけ言うと、すぐにドアを閉めて出ていった。
誓は呆然として見送っていると、部屋に荷物を置いたエニスとエリックが入ってくる。
それと同時に部屋の天井近くに取り付けられたスピーカーから声がした。
「当機はまもなく離陸します。今行ってる作業を止め、なるべく安定し場所に移動してください」
エニスとエリックが低い歓声の声をあげた。
「おい、はるかを誘って一緒にデッキに出てみようぜ!」
エニスが一目散に掛けていくのを誓とエニスも追う。エリックっ部屋の場所が解ってるらしく、女子の部屋のドアの前でノックした。
はるかが部屋から出てくる。眼が見えていない彼女にとっては、まだ感覚がつかめないようで、ふらふらと壁に手を付きながら歩く姿が危なっかしい。
エリックがはるかの手を取る。はるかがその肘のあたりを掴む。
「はるか、皆でデッキに出てみようぜ。この飛行機。離陸中もデッキに出られるらしいぜ!」
操舵室にある別の階段を上ると、デッキの入り口になっていた。
突然少し機体が後方に向けて傾いた。咄嗟に階段の策を掴んだ誓の足をさらにエニスが掴む。ゆっくりと後方も上がり始めて、床が平行になる。
「こ、これ浮いてるのか!」
誓が叫ぶ。本当に滑走路を必要としないようだ。
エニスとエリックがはるかを連れてドアを開けた。
外に他の船員や訓練生達もいてはしゃぐ声が聞こえる。
誓が恐る恐るドアを開け、外に出ると、突然風が吹き込んで来る。殴られるかのような衝撃があって、髪が後ろに引かれた。
風は一方向からだけではなく、小刻みに方向を変えながら、デッキの上に立つ人間達をもみくちゃにしていく。
「あはは! ちょっと怖いかも!」
はるかは少し腰を落としながらエニスとエリックにしがみついた。しかし、楽しくもあるようで、笑顔を見せている。
エリクがしがみつかれて嬉しそうに鼻の下を伸ばしているのを誓は見逃さない。
四人が船の端によって外を見ると、少しずつだが機体が機体が地面が遠くなっていくのが解った。
燕天寺をはじめとする見送りの人の顔も少しずつ小さくなっていく。
機体の下からは青い炎が吹き出し、機体を持ち上げている。
飛行機はこうして話す間もさらに高度を上げる。遮蔽物のない青い空に包まれて、誓は平衡感覚が狂うのを感じた。
進む先には巨大な雲が積み上げられている。
「空飛びてえな」
誓は思わず脈略の無い言葉を口にして、自分でも驚いた。
突然、機械音がして、誓の機眼が話しかけてくる
「今、誓はこの飛行機に乗って飛んでいる。飛びたいというのはどういう意味だ?」
久しぶりに機眼に話しかけられて誓は驚いた。やはり機眼の声は誓以外にも聞こえているようで、周りの訓練生も驚いてこちらを見ている。
訓練生たちと目を合った誓は慌てて顔をそらした。何だか恥ずかしい。
質問に対して、何と答えていいものか自分でも困って、首をかしげる。
「いや、なんていうか自分の羽根で自分の好きなように飛んでみたい。……ていうか、お前こそなんだよ突然。機械のお前にはそういうのわかんねえだろ?」
処理に時間がかかっているのか、いつも機眼が動く時の何かが回転するような音が激しくなり、少しなっている時間も長くなった。
十数秒たったかと思うとようやく話し始める。
「わからない。しかし、誓が私に情緒というものがないと思っているなら、それは違う」
機眼は変わらない抑揚で話しているが、単純な文章として見るなら怒っているとも取れる言葉を使っている。誓は驚いた。
無意味な事とはわかっているが、思わず機眼ではない方の眼を寄せて、機眼を見ようとする。
「どういう事だよ」
「私にも感情はある。正確には感情にあたるものとして作られた評価係数だ。
誓と情報共有をしたり誓の役に立つ事はプラスであり、それを目指して普段私は計算し学習する。
マイナスは誓や自分に危険が及ぶ事や、誓が私を不便に思う事だ。マイナスの状況に陥らないように私は活動し、陥る事があればそれを避けるために反省をする。
誓や誓にとって優先度の高い人間、例えばエニスが攻撃され、状況への評価が一定の値を下回れば、他の計算を切り捨てて、相手を傷つけてでも、それを止めようとする。
これは人間や他の生き物で言う怒りにあたるだろう。激昂して声を荒げたり、落ち込んだりしないのはそうする事に意味がないからだ」
機眼は言い切るとそのまま、また電源を切って休止状態になってしまった。
大した興味もなく始めた議論だったが、納得する部分もあり、やる気のない嘆息をして、誓はうなずいた。
いつもだったら勝手に終わらせてしまうような議論だが、機眼の方から指示以外で何かを伝えようとしてくる事に誓は好奇心を感じて、話に乗ってみる。
「ふーん。でも、激昂したり、泣いたり、空を飛びたいとか、そういう取り留めない事を思うのが人間なんだろ。お前のいうそのヒョウカケイスウっていうのは感情とは違うんじゃないか」
「私は人間の持つ感情と私の持つ感情の違いは人間の生物としての成り立ちに関係するように思う。
私は機械だ。必要な判断は複雑になる事もあるが、目的は誓の役に立つそれだけだし、出来るのは結局の所、誓との情報共有だけだ。
しかし、人間は生物として生きる上でもっと沢山の事を為さなければならないし、出来てしまう。
おそらくその上で時に応じて、激昂する事で誰かを威嚇したり、落ち込むことであえてやる気をなくし、体を休めたり、落ち込む様子を見た誰かの助けを促したりする必要があったのだろう。
私は誰かを威嚇する必要は無いし、助けられたり、休む必要がない。、
空を自分で自由に飛びたい、深海を見てみたい。巨大なものを好む、などの特に意味のないものへの憧れと呼ばれるような欲求は確かに理解が難しい。
しかし、それもきっと人が人であるからこそ抱くものであって、それが無いからと言って私に感情がないと思われるのは遺憾だ」
突然、ガラスのような透明な壁が誓達の前に下から突き出した。そのまま上まで伸びたかと思うと、デッキを覆い隠してしまう。
スピーカーから氷雨の声がする。
「はーい、お楽しみはここまでえ」
吹き込んでいた風がやみ、機体は普通の飛行機と変わらない速度で上昇を始める。
下にある街や建物たちが色のついた点にしか見えなくなった頃、食堂にみんなが呼び出されて、訓練所の時のように乗組員への説明があった。
「これから二日後ぐらいには船は新大陸に入るが、新大陸に入った後の探索地への移動もこの船で行い、探索の間はここで寝泊まりする事になる。
これから新大陸探索の間はこの船が君らの家だ。みんなお互い協力してね」
氷雨がそう説明した後、先程、部屋への案内をしてくれた男が船での仕事の分担や内容を説明していく。
「誓君は掃除と食事の準備と配膳だな」
その夜、部屋に戻った誓は寝付けずに、窓の傍に椅子を置いて暗闇の中から眼下の雲を見つめていた。
耳をすませば、風の音なのか機械の音なのか鈍くかすれたか細い音がずっと聞こえている。窓の縁に肘をかけると、小さな振動を感じた。
どうしても落ち着かない誓は寝る事をあきらめて、部屋を出る。廊下や階段も昼間に比べて、灯りがまばらだ。
他の沢山の部屋に繋がっている操舵室に出ると、ある部屋の一室から光が漏れているのに誓が気づく。
「どうした? 入りなさい」
心地よい静寂を壊さず、それでいてドア越しにもはっきりと聞こえる良く通る声がした。氷雨だ。
恐る恐る誓が部屋に入ると、中では氷雨が本を読んでいた。机の上に置かれたランプの光が氷雨を下から照らした。
氷雨が顔をあげて、少し誓の方を見る。小さく揺れる顔の陰影が美しい。
「眠れない?」
氷雨にそう訊かれると、誓は何故か緊張して目を伏せた。
「はい」
誓が答えて、相手の方を見ると氷雨はまた本の方に目を落としている。
誓は自分から見て左の壁が古めかしい装丁の本が詰め込まれた本棚で覆いつくされている事に気付いた。
細い指で紙をめくりながら、氷雨は話を続ける。
「そこに座りな……無理もない。私も初めて飛行船に乗った時、と言ってもそう昔ではないけど、興奮して眠れなかった」
誓は言われた通り机の真向かいにある革のソファに申し訳なさそうに小さく腰掛けた。
なぜか自分が敬語で話している事や敬語で話すのが久し振りである事などを思い出す。
「あの、何の本を読んでいるんですか」
「暗黒大陸から出土した本だよ」
氷雨は読んでいたページに指を挟んで本を手に持つと、背表紙を眺めた。
誓は頭ににうっすら浮かんだ歴史の知識を記憶の底から手繰り寄せる。
「今は魔族でも人間語で話すけど、確か昔の魔族は別の言語を持ってたんですよね。古代語が読めるんですか?」
氷雨が端に置かれていたグラスを手に取り、口元へ持ってくる。
誓は中身の紫の色の液体が氷雨の口へ流れ込み、グラスが空く様子を見守った。
氷雨はグラスを置くと、ゆっくり頭を振る。
「いや……この本は私達が使っている共通人類言語で書かれてる。言葉遣いもそこまで古くない。昔から暗黒大陸からはよく人間の言葉で書かれたものがよく見つかるのよね。
オカルト好きで魔族が宇宙人で昔は暗黒大陸にも人がいたんだって説の根拠にする奴もいるし、さらに発展して魔族が嫌いな人種主義者が人の古代文明が魔族に壊された痕跡だって主張したりする事もあるわ。
だけど、実態はよくわからない。この本も何かの物語であって、昔に何があったかを直接教えてくれるものじゃない」
既に長い間、本を読んでいたのだろう。氷雨は疲れた様子で背もたれに体を預け、首を反らせた。片手で目の間をつまんでいる。
落ち着いたのか大きくため息をするとまた誓の方を見た。
机の下から新しいグラスを取り出して、氷雨がソファに寄ってくる。誓の前に酒の入ったグラスが差し出される。
「少しぐらいなら付き合えるだろう。これを飲んだら部屋に戻りなさい。明日からは眠りたくても眠れないようになるぞ」
その言葉に嘘はなく、誓は朝、警報で起こされたかと思うと、朝は配膳、物資の移動、掃除など午前中は休む間もなく働かされ、午後からは訓練所の時と同じように訓練を受けさせられた。
飛行船の中では常に誰かが指示を大声で出し、誰かが必死になって駆け回っている。
エニスに至っては機械扱えるからか、船のメンテナンスまで手伝わされた。
「君は本当格闘以外はてんで駄目だな」
訓練の時、小さく笑いをこらえながら氷雨が言った。
誓は燕天寺に言われた通り、普通の訓練の後、氷雨に刀の扱い方を教えてもらえるように頼んだのだ。しかし、氷雨の誓に対する評価はさんざんだった。
エリックが相手役をしていたが、誓は体のあちこちを撃たれてやられたい放題だった。
「兄貴はほんとうでっぷしだけだね」
エニスまで余計な事を言うので頭を小突く。
入口の脇でははるかが笑顔で座っている。
「誓はやさしいから」
曖昧で中身のない擁護をされた誓はなんだかいたたまれなくなった。
次の日の朝には船は大陸の上空に入った。
森林、平野、山、通り過ぎるすべての地形が誓達が知るそれよりはるかに大きい。
木や岩などの障害物を取り除いただけの舗装されていない道が細い線としてちらほら見られる以外には、人工物も見当たらない。
平野をしばらく進むと、小さな建物が集中している基地らしき場所が見えて来た。
降下していくにつれ、点のようだった建物が大きくなっていく。青いドーム状の天井を持つ白い建物を中心に周囲にテントだったり小屋だったりと言った簡素な建物が寄り添っている。
正面にはこの船のような飛行船の停泊する為の空間があり、既に二機の機体が降車しているのが見えた。
「なんだありゃあ!」
突然、エニスが指さして叫んだ。
船の正面で基地の裏にあたる場所に巨大な森が現れた。
木の一本一本が小さな家のような太さで高さは降下中とはいえ船の高度よりもさらに高い。そんな植物が密集して壁のようにそびえたっているのだ。
船が着地場所の真上に来ると基地の方から人型の機械が何体か昇ってくる。
汚れのない塗装といい、球体の関節といい、角の少ないなめらかな造形といい明らかに誓達が訓練場で乗っていた機体より、新しくすぐれたものだと解る。
「ほあああああああああ!」
エニスが興奮して、誓の服の袖を掴む手に意味もなく力を籠め、悲鳴を上げた。大きな目はいっぱいに最新型の人型兵器を映して、輝いている。
人型の機体が船を取り囲むようにして、空中で陣形を作ると、顔の横についたライトを点滅させ、手を大きく回しだした。どうやら着地までの誘導をしているらしい。
大きな衝撃もなく船は着地した。しばらく氷雨の声で安全確認の放送がかかった後、訓練生達は集合し、荷物を持たされて整列させられた。
重い荷物を持ちながら基地の中心の建物に向けて、どんどん列が進んでいく。
先頭が動かなければどうにもならないのだが、後ろから作業の監督をしている男が怒鳴り散らしながら急かすので、誓達は後ろから突き飛ばされながら運ぶ事になった。
誓は周囲の景色や人の流れを眺めながら、なんとなく理解した。この基地はあの大きな建物を中心に飛行船を居住空間にする事で成り立つ小さな村のようなものらしい。
建物の脇には何かが栽培されているようで掘り返されて湿った土が畝になっていて、周囲を武骨な有刺鉄線で囲まれている。
森の反対側をふと見て、誓は息を飲んだ。
気持ちの悪くなるくらいに濃い青空の下、薄茶色の枯れ草にまばらに緑が混じった大地が視界の届かなくなるまで続いている。植物の青臭さと土の水分の混じった匂いが立ち込めた。
叫びながら走り出したくなる衝動が誓の中に湧き上がってくる。
興奮のあまり、気管と肺が締め付けられ、心臓が釣り上げられるような感覚に陥る。誓は自分の心臓の音を聞いて、胸を膨らませ大きく息をした。
自分の中の冒険心や好奇心を抑えて、名残惜しそうに様子を伺いながら、誓は作業に戻ろうと振り向く。
すると、その左右をエニスとはるかを背負ったエリックが叫び声をあげながら走り去っていった。
「うわああああああああああ!」
「いやっほおおおおおおおおおおうい!」
「きゃあああああああああああ!」
誓が唖然として三人の背中を眺めていると、許可が出たと勘違いしたのか、三人を見ていた他の訓練生達が次々と雄叫びをあげながら走っていく。
「ああもう、クソ!」
仕方なく付いていくような顔をして誓は全力で地面を蹴った。しかし、漏れる笑みが隠せない。
一人また一人と訓練生達を抜かし、エニスに追いつくと、その腰を掴んで抱えたまま走り出す。
「おらあああ! 遊んでんじゃねえ!」
エニスは悲鳴をあげて、腕の中で身を捩った。
「ぎゃああはははは! アニキ、離して! 離して!」
少し離れた建物の下で、その様子を氷雨は眺めていた。
氷雨と共に運搬物資の確認をしていたサングラスをした女性の係員が頬を無理やりあげて苦笑いしている。
「氷雨さん。何なんだ、これ。こんな訓練生初めてみたぞ。集団行動が出来ないのか?」
氷雨は額に力を込めながら顔を背けた。顔には嫌な汗が滲んでいる。
「少し変わってるとは思ってたけど、これほどとは思ってなかったわ。訓練所は何をやってるのかしら」
誓とエリックはお互いにエニスとはるかを抱えて競走していた。
しばらくして気付けば、訓練生達の中でも基地から一際遠くに四人はいた。
作業の監督をしていた男が怒鳴っているのを聞いて、大慌てで来た道のりを戻って行く。当たり前だが遊んでいた分作業は遅れ、誓達の船の訓練生は夕飯の時にこっぴどく叱られた。
夕食時には自由行動の時間が与えられる。船の中の食堂だけでなく、基地の中には外食店がいくつかあり、そこでも食事がとれるらしい。
誓はエニスとエリックと船の外に出て、基地の中を出歩いてみた。
不規則に並んだテントや建物の群れから暖かい色の光が漏れる様子は見ていて落ち着く。
看板が出ている建物の近くに寄れば、男性の怒声や女性の嬌声が絶えず聞こえていて、騒々しい。
誓達は賑やかさに心惹かれる所はあったものの、体が疲れていた事もあり、少し客の少ない店に入る事にした。
口元にひげを蓄えた店主に威勢のいい声で招かれて、誓達は床に砂埃が舞いう店内が入った。
カウンター席が多く、料理店というより酒場のようだった。子供がおらず、女性が少ない事もあって、基地の中の外食店はほとんどが酒場でもあるのだろう。
建付けは悪く、壁は軋み、閉まり切らないドアからは風が吹き込んで来る。それでも繁盛してはいるようで、客席の多くは埋まっていた。
「何だこりゃ? おすすめが炒飯にラーメンにスパゲッティに寿司って」
「ここは多国籍だからね! 色んな地域の料理を扱ってるんだ! どれも上手いぜ!」
誓はうなずきながら、口を結んだ。きっと多くの料理が揃っていても、注文してまともなものが出てくるのはごく僅かだろう。
相容れないはずの料理が多種多様に並んだメニューから、誓達は思い思いに注文した。
「俺! 炒飯!」
勇ましくそう注文したエリックに驚愕しながら、誓とエニスもパスタを注文した。
しかし、実際に机に皿が並んでみれば、意外な事にどれも見た目は悪くない。口にしてみても、大雑把な味付けではあったが、基本には違わぬ素朴で美味しい出来だった。
炒飯も卵の黄色で綺麗に染められて、誓の目から見てもおいしそうだ。
思わず誓とエニスが匙を伸ばすとエリックは器ごと持って逃げ出した。
「やらねえよ!」
しばらく皿と二つの匙の鬼ごっこが続いた。
机に背を向けて食べ始めるエリックに対して、エニスが椅子を離れ、いよいよその膝によじ登り始める。
「うおお! くれええええええ!」
結局、エリックは降参した。嫌そうな顔をするエリックから誓とエニスは一口ずつ炒飯を分けて貰う。
見た目に違わず、あっさりとして食べやすい。中々の出来だ。
静かだった店内を賑わせながら、誓達はしばらく食事を続けたが、やがて誓は自分の瞼が重くなり、目を閉じている時間が長くなっていくのを感じた。
早めに食事を終え、エニスやエリックを置いて先に船の中の部屋に戻る。船内の部屋までの道の途中、突然、背後から声が聞こえた。
角にある女性用のトイレの中からだ。
「あんた、今回の船で訓練生と一緒に来た目が見えない人?」
振り向くと、はるかともう一人の女性がが立っていた。
はるかに話しかけた女性の方は歳は誓達と変わらないぐらいだろうか。細い顎回りに中央の大きく膨らんだ猫のような目をしていて、ともすれば神経質そうだ。
女性ははるかの顔を見つめたまま、観察するように周りを円を描いて歩いた。
「あ、はい! 色々不便だったりしますけど、早くここでの仕事にも慣れなくちゃ」
はるかは手に濡れた掃除道具を持っている。おそらく、ここでの仕事として掃除が割り当てられたのだろう。
女性の身長ははるかより少し高く、腰周りの筋肉は発達していて逞しいが、四肢の先は細く、すらりとした印象を受ける。まるで相手に覆いかぶさっていくような気迫だ。
鍛えられている、そう誓は思った。
女性が音を立てないようにすり足ではるかの方に一歩近づいた。
聴覚に頼って生活しているはるかに聞き取れないはずもなく、はるかはおびえた顔で小さく下がる。
「すごいね。やっぱり普通の人より耳が良いんだ」
ものものしい雰囲気を感じとった誓は入って行こうかと考えるものの、場所が場所だけに進めない。
後ろに騒がしい声が近づいて来る。
誓を見つけたエリックが気分良さそうに笑いながら軽やかな足取りで跳ねながら、走って来ている。
「おい、むっつり! 女子トイレの前で何やってんだ!」
エリックは走ってくる勢いそのまま誓の肩に手を振り下ろした。
誓は咄嗟にエリックを押しとどめようとするが、その甲斐むなしく、声で中にいたはるかと女性に気付かれてしまう。
女性は目を細めてはるかをにらむと、もう一歩はるかに詰め寄った。
「ねえ、でも、こんな所に来て危なくないの? 基地とはいっても野生生物や魔族が入り込んできて、ここで戦闘になる事もあるのよ」
女性は首だけを伸ばし、息がかかる距離まで顔を寄せると、はるかを横からなめまわすようにして眺めた。
はるかは何も言わず正面だけを見て、笑顔をを崩さずにいる。
「で、ですよね。みんなに迷惑かけないように私もその分頑張らなきゃ」
はるかがそういうのを聞いて、女性が意地悪く口元を歪めた。
何も言わずにはるかの横を進み、すれ違いざまに肩で相手を突き飛ばす。
はるかはされるがまま肩を抑えて尻餅をついた。
「おい!」
エリックが怒鳴ったのを合図に二人は前のめりになってはるかに駆け寄ろうとするが、女性の見下ろす視線で釘を打たれたように足が動かなくなってしまう。
誓は女性から目を一瞬離しながらはるかの方を見る。目が見えていないはずのはるかはそれに反応するかのように赤くなって顔を背けた。
誓は声をかけようとするが混乱と焦りで何を言うべきなのか解らなくなって、小さく口を開けたまま固まってしまう。相手が男ならまず目の前に立ちはだかっている相手に突っかかっていけばいいが、そうもいかない。
「はるか……」
やっとの事で息を吐くようにして名を呼ぶが、はるかは動かない。
エリックは目を見開いたまま相手をにらんだ。相手はおびえるどころか、斜に構えて優雅な笑みを返している。
女性はまたはるかに向き直った。
「あら、ごめんね。怪我してない? でもさ……あんたが言ってるのって要は可愛い私が頑張ってるんだから周りから守られて当たり前って事でしょ。それってちょっと図々しいよ」
女性はそう言い放つと誓達の前を通り過ぎて行く。
二人は警戒と困惑を込めた視線でその背中を見送ると、はるかの両脇から肩を貸して立たせた。服が背中から足にかけて濡れている。
はるかは目を閉じながら口角を思いっきりあげ、恥ずかしそうに笑った。
誓もエリックもその笑顔が本物でないのを感じ取った。頬の筋肉が強張っている。
「ありがとう。あ……あーやっちゃったなぁ」
はるかは少し力を込め、振り払うようにして誓とエリックから離れると、壁に手を当てながら大股で歩いていった。
エリックと誓は緊張した面持ちでお互いの顔を見合わせる。
誓はどうするべきだったのか答えが出せない自分が情けなく、何もない地面を思い切り踏みつけた。
次の日の朝、誓はまだ暗い早朝に目覚め、そのまま眠らずにいた。はるかの事は気になったが、今日は初めて探索に参加する日でもある。
机の上の電子時計をちらちらと見ながら、時間が過ぎるのを待ち、外が明るくなり始めた頃、ようやく部屋を出た。
誓は冷たい空気を深く吸い込んで眠気を飛ばす。無意識に体が縮こまってしまう程、早朝は肌寒い。
視界には薄く霧がかかり白っぽく見えた。
誓は一際早く出てきたつもりが、すでに集合場所に多くの訓練生が並んでいる事に驚いた。
自分の肩を抱きながら、列に並ぶと、隣で同じように肩を抱きながら丸まっている青年と目が合う。
「寒いよね」
東洋人らしいその青年が話しかけて来た。その肌は霧の中でもなお白く、体の線がしなやかだ。
誓は億劫に思いながらも、顔を上げ、首を少し曲げて、相手を見た。
「おう。さっさと始めて、さっさと終わらせてほしいぜ」
早めに来た訓練生達からは大分遅れて、時間ぎりぎりにやる気のなさそうな訓練生達が薄目のまま不機嫌そうな顔で集まりだす。
その中にエリックの姿はあった。エリックは無言で誓の後ろに並ぶと、しばらくは周りの様子を伺ったり、鼻をすすったりしていた。
しかし、数分経つと、目を閉じて、ゆっくりと頭を上下させ始める。
エニスは探索への参加はしないようだ。そもそも配属された役職や班が違うらしい。
気持ちよく眠っていたエリックも耳をつんざく嫌がらせのような号令で否応なしに目を見開く。
訓練で習った通りに移動をして、班に分かれる。
誓とエリックは同じ班であった。無表情で眼だけは開けているが、明らかに頭の働いていないエリックを後ろから小突きながら、誓も移動する。
「おまえ!」
突然、エリックがそう呟いて止まる。
誓がエリックの肩から顔を出し、前方を見た。
あろうことか目の前には昨日トイレではるかを突き飛ばした女性がいる。
女性の方も一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに溜息とともに顔を背けた。
隊でまとまったまま目的の場所に合わせて、その近くまで隊員たちはばらけていく。
誓達も昨日見た巨大な森の傍まで集まった。
そこで隊長らしき人物が立ち止まり、向き直ると、隊員の名前を読み上げ始めた。
「エリック、パンドラ、誓、ラウル。以上を4-23小隊として今後の探索活動にあたる。今日は大樹の森の探索だ。
その殆どに人の手が及んでいるとはいえ今日でも暗黒大陸は危険な場所であり、特に危険が多い探索隊では年数人の死者が出る。
上官の指示に従い常に迅速で無駄のない行動を心がけうように!」
あの女性はパンドラというらしい。隊長の指示に従い、隊長の後に続いて隊員は走り出す。
近寄れば近寄るほどその巨大さが実感されて、驚かされる。
一本一歩の木の太さが人間の足で言えば二十歩歩いてなお余る程あり、高さは見上げて先が見えないほどだ。
何層にも重なった葉のせいで、朝だというのにあたりは少し暗い。
誓達はお互いに寒さや眠気どころではなくなり、黙ったまま移動を続けた。お互いの顔を少し見る事もしない。
誓は軍人のように扱われて、ただでさえ気がめいっているのに、この雰囲気のせいでさらに疲れが増すように感じた。
三十分以上走らされて、流石に疲れが見え始めるかと思いきや、誰も弱音を吐くものはいない。訓練の成果なのかもしれない。
森の中に入って先に進むにつれ、木の密度は高くなっていき、それに伴ってあたりはさらに暗くなっていき夜のようになる。
そんな暗闇の中、誓がふと見上げると、葉の隙間から遥か高い所に火のように揺れる小さな明かりが集まっているのが見えた。
思わず目を追うと、隊長が察したのか、その光を指さす。
「あれはこの森の原住民の集落だ。大きな街何個分かの大きさがあるこの森には独自の宗教や文化をもった民族が一つではなく複数存在する。その多くは友好的だが、そうでないものもいる。
探索班の取るルートはなるだけそういった敵対勢力と接触を避けられるように作られている。なるだけ隊から離れないように行動しなさい」
誓は疑問に思い始める。このまま何もない地面を走り続けるのだろうか。あたりには方向を示す看板など、人工物も見受けられるくらいだ。どうにも雰囲気が出ない。本当に探索する程の場所なのだろうか。
やがてその火以外にも蛍光灯のような白っぽい光をたまに見かけるようになり、さらにその先に一際大きな樹が見えてきた。
辺りの木のさらに倍以上大きい。
それに人が吸う人並んで歩ける程太い幅の巨大なつたが巻かれていて、そのつたに手すりがさしてある。
「い?」
誓は一瞬違和感を覚えたが、隊長は構う事無く、そのつたを上り始める。この樹をどこまで登っていくのだろうか。
樹に登る前から延々と走らされ、気に登り始めてからも数時間経つが、そこまで疲れを感じていない自分に隊員達は気付く。いよいよ訓練の成果が表れているようだ。
何十の葉の層を越えた頃だろうか、だんだんと葉がまばらになり周囲が明るくなっていく。
誓はようやくちらりと後ろを振り返り、パンドラの顔を見た。
無表情だったパンドラが誓と目が合うと、物凄い形相でにらんで来る。
話した事もない人間がそこまでにくいものだろうか。呆れて何も言えない誓はさらに後ろのエリックを見た。
エリックもエリックで目の前にいるパンドラから意地になって顔を反らし、苛ついた様子でつたの階段の下をずっと眺めている。
広い葉の層の上に漏れ出した日光の濃淡で美しい模様が映し出されている。顔を上げれば、揺れる緑の隙間から万華鏡のように美しい木漏れ日が見えた。
突然つたの階段に手すりが無い場所が現れて、隊長がそちらの葉の層に向かって飛び出した。
誓達は恐る恐る足を延ばしながら葉の上に移る。どうやら下に大きな枝があって道になっているようだ。
隊長が少し歩く速度を緩めながら、移動を始める。
「ここからは完全に人の手が加わり切ってはない場所だ。葉に隠れて急に下が穴になっている所もある。私の後ろにちゃんと付いて着て貰わねば安全が保障でき」
「のあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
隊長の説明の最中、気付くと、誓は枝の隙間に足を踏み外し、どこまでも落下を始めていた。
誓には時間がゆっくりに感じられる。咄嗟に自分の手を掴もうとしたパンドラと目が合った。
パンドラは空を切った手を伸ばしたまましばらく固まっていた。