嵐の後
【誓】
誓は暗闇の中で目が覚めた。目の前の闇がどこまで広がっているか解らず、そこが現実と切り離された空間のように思えた。
朦朧としていた意識がはっきりとしていく内、誓はようやくドアの隙間から漏れる外の細い光や空調の回る静かな振動を感じ取った。
ベッドがいくつか並び、そこに沢山の人間が眠っている。
体を起こそうとした次の瞬間に、誓は後悔した。意識を再び奪っていきそうな痛みが胸を貫いている。
誓は暗い部屋で憂鬱な雰囲気に飲まれそうになりながら、時間を過ごした。
しばらくして、誓に注意を払っている誰かの気配に気付く。
起きている人間が他にいる事に気付かなかった誓は驚いた。
相手も誓が気付いた事に気付き、顔を伏せる。
「大怪我をさせた。すまない」
誓は相手の言っている事が解らず、黙った。誰かと勘違いをしているのだろう、そう思った。
それを相手に説明してやる気力もなく、誓はそのまま寝転がっていた。
しかし、誓がもう一度目が覚めた時、気配を感じた場所のベッドには誰も眠っていなかった。
周囲を台車を押した看護師達が駆け回っている。
誓が体を起こして、部屋の外に出た。
通路に出て、誓はそこがいつも乗っている飛空艇の上だと気付いた。近付かない場所だったので、こんなに大きな救護室があるとは知らなかったのだ。
机と椅子が置かれた簡易な休憩所のような場所にエリックが座っていて、こちらに手を振ってきた。
エリックは軽い調子で笑っているつもりだったが、頭に巻かれた包帯のせいで誓には彼が重体のように思えた。
「珍しく辛そうじぇねえか」
「そうか?」
誓に言われて、頬骨のあたりを腫らしたエリックが包帯が巻かれている腹を撫でる。
それから誓とエリックはお互いに素っ気なくお互いの怪我の容態を教え合った。
しばらくして、エリックは椅子に浅く腰掛けて、頭をのけぞらせて伸びをした。そうして、ヴントの話をし出す。
「あの王子様な、ある種の催眠状態だったらしい」
「催眠状態?」
「小さい頃から洗脳教育したり、幻覚を見せるタイプの魔法か魔眼なんかも使ったりして、母親と教会の人間の言う事に従う別人格みたいなものを作ってたらしい。
そんな事が出来るなんて俺も初めて知ったけどな」
誓は口を一の字につぐんで、思わず黙ってしまった。軽い世間話のように話してしまうエリックにちょっとした嫌悪感を覚える。
誓は少ししてからまた口を開いた。
「教会? 母親はなんで?」
「王子の母親は教会の中心人物同士の家に生まれた人間だ。
だから結婚の時には王家と教会が接近する事になるって言うんで、結構な騒ぎになった。……まあ俺達が生まれる前に話だけどな」
半日もしない内に誓はジャングから武道場に呼び出された。そこで一対一で鍛錬をさせられていた。
空調はあったが、窓があるわけでもなく締め切られた空間なので、誓はどうにもむさくるしく感じてしまう。
数十分動き続けた頃、汗一つかかずに半身のまま動かないジャングを前に誓は視界がかすむほど汗を掻いていた。
ふと誓は天井を見上げた。天井から吊り下げられた明かりがやけに近くに感じる。
「もう十分だろうが!」
誓が構えを解いて、目の前の相手を怒鳴った。口の周りの汗を服の袖で拭う。
ジャングは構えたまま、その場を動いていない。
誓は冷めた目線でジャングをしばらく見た。
誓が自分から動こうとしないのを見て、ジャングが淡々とした口調で話し始める。
「母胎の自己防衛機能に対抗できる可能性があるのはお前の機眼だけだ。相手が思ったよりも早く動いたせいで、量産が間に合ってない」
「こっちは大怪我してるんだっつの!」
誓は吐き捨てるように言って、呆れた様子で頭を左右に振る。そして、そのまま相手の言葉を無視して、ドアの外へ出て行った。
同じ頃、旭は船の一室の前で立ち止まっていた。
シモンがその背後を興味無さそうに通り過ぎていく。あの時から、肌は黒く、髪の毛は白いままだ。
旭は意を決して中に入る。白い床と壁の部屋に白衣を羽織った男の医者が腰掛けている。
旭は顔を上げた医者と目が会うと、小さく頭を下げて、奥へ進んだ。
「ヴントなんですけど、どうなりましたか?」
医者は口を半開きにして、旭を見た。状況を察すると、小さく笑みを浮かべながら机の上にある紙の束から一枚を抜き出して眺める。
「今は落ち着いているようですよ。何故か白くなっていた肌も元に戻ったようです」
「会えますか?」
「実際は大丈夫だと思うのですが、社長の指示で工作員以外の職員や部外者は接触させないように指示が出ています。申し訳ない」
肩を落として部屋を出てきた旭の前をまた興味無さそうにシモンが横切っていく。
船を地面に付けたまま、夜が更けていった。
船員達が気を張り詰めながらも寝床に入った頃、船内の暗い一室に誓が入って来る。
誓が歩くと、冷たい床が引きつった甲高い音を立てた。
部屋は中でさらに小さく分けられている。その一つの前で誓は立ち止まった。
独房のようになっている小部屋の中にはベッドとラジオだけが置かれ、そのベットの上には男が体を丸めて座っている。
男の目には目隠しがされて両手には手錠が掛けられている。
男と誓はお互いに気付いたが、それでもしばらくの間は皮膚に染み込むような静けさをどちらも破ろうとしなかった。
「大変だな」
誓の声を聴いて、男は驚いたように顔を上げた。それからゆっくりとまた頭を下げる。
男は先程よりも体を丸め黙り込むと、小さな声で話し出した。
「すまない」
誓は小さく笑った。片膝を抱えて、床に腰掛ける。
「それはさっきも聞いたけどよ」
ヴントは鉄の檻の向こう側に向かって、皮肉った笑いを返した。
「自分で母親を倒せると思っていたんだ。だが、動き回った末、結局母親の掌の上で踊らされていた」
誓は否定せず、相手の話を聞いていた。そんな事はない、と言い切ってしまうのは無責任だと思った。
誓はただ相手の話を聞きながら、土に汚れた自分の足元を見つめている。
ヴントは返事を聞く代わりに目隠しの裏から相手の気配を感じ続けていた。
、誓は音を立てずにに息を深く吸った。
「そう言えば、俺も誰の言う事も聞かずにやってやろうと思ってたのに、いつの間にか会社に言われるがままだ……
でも世界の終わりだなんて言われて、他にどうすればいいのかわかんねえよ」
誓はゆっくり立ち上がった。
「次は教会の連中を倒すみたいだけど、お前も戦うのか?」
ヴントが首を振る。
「何がきっかけでこの前と同じ状態になるかわからないから、ここから出られない。……力にはなりたいが」
「そうか」
部屋を出て行こうとする誓を突然別の声が呼び止める。
入り口側の独房の奥から声が響いてくる。
男は暗闇から大きな体を引きずって、檻に近付いていた。
「俺を殺さなかったな……」
誓は黙って男の方を見ていた。
男は髭の伸びた顔で、檻に額を押し付けながら話し続ける。
「このまま誰も殺さないつもりなのか?」
「さっきも言っただろ」
誓は体の向きを変え、アーロンのいる檻に真正面から向き合った。檻を掴んで、顔を近付ける。
「訳も解らない内に一人殺しちまった。だから、次に誰を殺す時は自分で決める」
食堂ではエニスが他の隊員に取り囲まれていた。隊員達は料理を頬張りながら、エニスの肩を叩き、騒いでいる。
当のエニスは沢山の料理の皿が並んでいるが、それに手を付けず、照れくさそうにしていた。
誓が通りかかると、エニスは悪戯っぽく笑う。
エニスの傍にいた隊員の一人が誓に話しかけて来る。
「こいつ、すげえんだよ。まるでベテランのパイロットみたいに戦いやがる」
誓は感心しながらも、自分が人型兵器に乗って戦った事を思い出していた。感嘆を相槌と声だけで表現して、エニスに掌を見せて挨拶すると、その場を後にする。
しばらく誓はベットの上で大の字に体を投げ出していた。そうしていると今まで考えた事も無かったような事が頭に浮かんで来る。
自分が会社に入って何をして来たのか、何が今から出来るのか。体は疲れていても、頭と目だけが冴えて、眠るに眠れない。
エリックがノックも無しにドアを開けて入って来る。
エリックの部屋にエニスとはるかがいた。
「誓、大変だったってね。大丈夫?」
はるかは誓の腕や首を触れるて、肩の位置を確かめると掴んだ。誓はゆっくりその手を外して、自分の両手で包む。
「刃物で刺されるの初体験だったわ。エニスは大活躍だったんだろ?」
エニスは何故かぼーっとしていて、声を掛けられてから慌てて誓の方を向いた。疲れているのか、瞼が下がっている。
「ずっと動き回ってたよ」
誓はエニスが思ったよりはしゃいでいない事が意外なような気がした。大好きな人型兵器に乗って、活躍したというからもっと喜んでいた気がした。
共に町を出て数か月が経ったからだろうか、誓にはいつもより元気のないエニスの表情がやけ大人に見えた。
それから数日後、EMMA社の飛空艇が町の上空に編隊を組んで、ガリア上空に集まっていた。
「王子が教会中枢の強硬派と王妃の接近を伝えに来たあの日から5年。あなたが教会の研究部門を独立させ、EMMA社を設立した時からすれば、30年近くが過ぎたのね」
機関室から眼下の城を見下ろしてメルヴィナが言った。氷雨がジャンクの反応を待つが、ジャンク本人は何も言わない。
褪せた青い屋根の尖塔を人型兵器が取り囲んでいる。静かな城を前に、指揮官が指示と連携を再確認した。
「ヴォイニッチ城内部の標的の位置は不明。魔眼で障壁を張っていると考えられるが、必ず城内にいるはずだ。
相手にはもう勝ち筋が無い。捨て身で来るぞ。気を引き締めろ!」
様々な無線の声が入り乱れ、騒然とする中で、メルヴィナはジャングを睨み付けてた。
「あなたは今でも何も感じないの?」
【ウェルギリウス】
「どうすればいいのでしょう教皇様」
王妃が長い足の膝を地面に着き、椅子に腰掛けた青年の手に縋っている。
青年の方はフードに顔を隠しながら横を向いていた。鼻から顎への美しい輪郭だけが王妃からは見える。
この青年は最初に誓がエニスの町に来た時見かけたネイル教の集団の中にいた彼である。そして、ヴントが城に捕えられた時、王妃と共にいたのも彼である。
答えを返さない青年にしびれを切らした王妃が立ち上がり、やけになって手を上下に振りながらわめき散らす。
「どうすればいいのよ!!!!!!!!!!!」
青年は王妃の悲鳴を楽しむように頭を傾けて、耳を相手に向けていた。
やがて立ち上がり、王妃の前に立つ。王妃の顎を人差し指と中指の先で持ち上げると、その顔を笑顔でじっと見つめた。
王妃の顔が上気し赤らむ。
突然、青年は肺の空気を吐き切るような勢いで噴き出した。そのまま腹を抑えて笑い転げる。
落ち着いたかと思うと、時折困惑した王妃の顔を見ては、また悲鳴を上げる様に笑った。
「へ?」
たじろぐ王妃の前で、青年はやがて頭からフードを外した。銀髪の頭には猫のような突き出した耳が生えている。
青年はおどけた表情を浮かべながら、耳を小刻みに動かして見せる。
残酷な笑みを浮かべる青年の傍から王妃は悲鳴を上げて、飛び退いた。
「そんな……勇者騎士団の長で、教会では魔族排斥活動の中心人物だと」
王妃は絨毯の上に手を付き、毛をむしるように掴んだ。無意味に部屋の中を見回して、状況を理解しようと必死になっている。
青年は王妃の傍まで近付いていく。
「その通りです。あなたのおっしゃるどの肩書も私のものだ」
「何故魔族が!」
王妃の声をかき消すように、外からは人型兵器や飛空艇のエンジン音が聞こえ始めていた。
青年はまた椅子の腰掛けた。手すりに手を置いて、口を開く。
「母胎の制御権限を持っているソラトを従わせるには、始祖の血が必要だ。しかし、始祖の血はヴォイニッチ家だけでなく、魔族にも枝分かれしていたのです。
あなたが城に王妃として入って行ったのと同じ時期、そちらの血を使って母胎を操作する計画も、保険として立ち上がりました。
計画は勇者騎士団の中でもごく一部の人間によって進められていき、そうして生まれたのが私です。
連中は最後まで魔族である私を信用していませんでしたし、救世主として表に出すのは嫌がっていましたがね」
青年の後ろにどこからともなく現れた二つの巨大な眼が浮かび上がっている。
青年は口元を手で隠し、不気味に声を漏らしながら笑った。
「母胎がこの世界に連れてきた魔族の為に人間を追い出す? 馬鹿馬鹿しい!
太古の昔、魔族のいたこの世界に一つの都市、【東京】ごと母胎が人間を送り込んできたんだ。
貴様らが人類共通言語と呼んでいるのは日本語、第一古代語は英語と呼ばれていた言語だ。
そして、生活圏を広げた人間どもが元いた世界の再現を主導し統制する為に生まれた組織こそが教会だ。
だからこそ、いくら大衆に平等の教えが広まっても、教会の中枢には魔族差別が残り続けていた!」
【誓】
人型兵器が銃火器で壁に風穴を開け、三か所から突入していく。
後に続く隊員達も推進器の向きを器用に変えながら、次々と足から滑り込むように城に入って行った。誓も多くの隊員と共に城の西側から突入したが、その傍に敵の動きはないようだった。
偶然近くで活動していたエニスが無線で誓に連絡を入れて来る。
「連中、流石にほとんど逃げ出したみたいだなアニキ」
「ああ」
しかし、城の反対側からは銃声が響いている。
誓は機体の脇を締め、銃を構えた。全方位をカバーできる程ではないが、兵がいるのは間違いない。
誓達がふと気付けば、地鳴りのように城の床が揺れている。他の隊員達も騒ぎ始めるが、誰も原因がわからない。
突然、通路の角から壁を崩し、床を踏み抜きながら巨大な白い影が現れる。
「人型兵器!?」
這っている人間のようにも獣のようにも見える動きで白い機体は誓の方へ突進してくる。人型兵器より一回り大きい。
一秒にも満たない時間を誓にはやけにゆっくりに感じた。何もかもがゆっくりに見えて、じっくりと観察できる。そして、必死で避けようと操縦桿を動かすが、機体が付いて来ない。こんな感覚が初めてだった。
次の瞬間、誰よりも早く反応したエニスが誓の前に躍り出る。白い機体が口を開き、異様に数の多い牙がエニスの機体に食い込む。
音も時間も意味を失った世界で、誓は一瞬固まった。コマ送りの世界の中で、隊員達が白い機体に武器を向け攻撃しているのは解ったが、どこか遠くのような映画の中の出来事のように誓は感じている。
白い機体はもがき苦しみながら、城の外へと落ちて行った。
「警戒を怠るな!」
辺りが静かになり、指揮官がそう叫ぶ。
コクピットを飛び出した隊員達が周囲を気にしながらエニスの機体に駆け寄っていく。
エニスの機体のコクピットが開いて、真っ赤に染まった操縦席が現れた。
誓は自分でも自分が制御できずにただ真上を向いて、声も出さずに口を開いた。ひきつけを起こしたようにおかしな呼吸をしながら吠える。
「はあ、はあああああ、はああああ!!!!!! うわああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
【ウェルギリウス】
青年はうっとりした顔で振り返り、母胎を愛おしそうに眺めた。
「君達は母胎の力を都合の悪いものを消し飛ばす力だと思っているようだが、これはそんな残酷な機械ではない。
事物の可能性を歪めて、一人一人の望みに最も近い平行世界、天国に連れて行ってくれるものだよ。
能力を使う際に幻を見せて感覚を狂わせるのも、その生命が深層心理で望む世界をその者の意識から引き出そうとするからだ」
母体が輝きだし、その光が一気に星を包んだ。
【誓】
四角い空間の床を煤や砂が走っている。
誓はそこで壁を背にして、地面に腰を降ろしていた。
右隣の壁際で少年がコンピューターの画面に向き合って、マウスを動かしている。時折、気取った感じで頭のヘッドホンを抑えながら、四つ打ちのリズムを足で刻んだ。
そして、その少年の向かい側ではエニスが自分と同じぐらい背が高いロボットをいじっていた。
誓の頭に何か引っかかるものがあったが、誓にはそれが何か解らない。
開かれたシャッターの向こう側に強い日光で真っ白に照らされた芝生が見えた。
誓は不意に様々な事を思い出す。自分自身の記憶が自分に話しかけて来る。
「ここは俺達兄弟が遊び場にしているガレージだ。右にいるのは、俺の弟。そして、その向かい側で機械をいじっているのは近所に住んでいるエニスだ」
「兄貴、何ぼけっとしてんの?」
弟がヘッドホンを外して、怪訝な目で誓を見た。
誓は瞬きをして、立ちあがった。ガレージの外に出るついでに、弟の脛を蹴り上げる。
「いって! おい!」
外に出た途端、誓の目の前をトラックが横切って行った。トラックは引き締まった音を立てて、隣家の前で止まる。
誓はその家が空き家だったと記憶している。
隣家から背の高い男が出て来た。長い髪を後ろで縛った男は落ち着いた様子で荷物が運び込まれるのを眺めている。
中年にも青年にも見える独特の容姿だ。肌つやや足腰は力強さは間違いなく若者だったが、痩せた頬と瞳があまり動かない目は老人にすら見えた。
誓はその男が妙に近しい様にも、不気味なようにも感じ、思わず見つめてしまった。
男の方も誓に気付くと、何かに驚いたように固まった。
ガレージの横にある誓の家の中から、誓の母親が出て来る。誓の見ている方向を見て、母親が頷く。
「ああ、お隣さんね。最近引っ越してきたんですって……ちょっといい男よね?」
誓は無視した。
隣家からはさらに少女とその母親が出て来る。少女は耳をつんざくような歓声をあげて、男の足に飛びつき、体をよじ登ろうとする。
母親は笑いながらも、静かにするように子供に諭した。
男は笑顔で少女を抱き上げて、家の中へと入って行った。
誓の母親は、微笑ましいといった表情でそれを眺め、弟とエニスがいるガレージに入っていく。
「エニスも家で夕食食べていくでしょう?」
「もちろんっす」
エニスは即答した。
弟の呆れた声が聞こえて来る。
「てめえは遠慮ってもんがねえのか?」
居間のテーブルに料理が並び、当然のように無口な父親も席に着いている。
各々が料理の感想を言いながら、食事を済ませた。
誓は二階の自分の部屋に入って、ベットに寝転がる。
誓は頭を抱えた。昼頃から続いているこの違和感は何だろうか。
隣の部屋からエニスと弟が遊んだり、はしゃいでいる音が漏れている。
やがて深夜になり、二人が静かになっても、誓は自分の感じた違和感について考え込んでいた。
外から鈴を素早く振り回したような虫の鳴く声が聞こえた。
誓が意識を集中させると、ゆっくり転がすような音や小刻みに振ったような音も聞こえて来る。
不意に家のドアがノックされる。
「誓、出てちょうだい!」
母親の部屋から声がした。
誓は仕方なく階段を降りて、ドアを開けた。そこには昼に見かけた隣人が立っている。
隣人と誓はお互いに驚き、また黙ってしまう。
少し黙った後、緊張した様子で隣人は話を切り出した。
「誓。私だわかるか?」
誓には、聞き覚えのある口調と聞き覚えのある声だ。なのに誰か思い出せない。
「誰だ?」
「私だ。君の機眼だ」
「はあ? 何を言って……」
誓はまた急に色々な事を思い出した。自分が既に目と弟を失った事。そして、機眼を入れていた事。
二つの世界の記憶が同時に誓の頭に流れ込んで来る。誓は痛みに耐えきれず、抑えた。
「誓。元の世界に帰らなくては」
誓は相手に背を向けて、部屋の中へ数歩逃げ出した。苦しそうに地面に手を付き、エニスや弟がいるはずの方向を見る。
「こっちの世界に居る弟はどうする……おふくろは? エニスはどうする!」
誓は久しく出していなかった子供のような駄々をこねる声に自分で驚いていた。
隣人は誓の後をやはり数歩追った。同じ距離を保ちながら、姿勢よく誓の背後に立ち、声を掛け続ける。
「では元の世界のエニスはどうする?」
誓は俯いて目を閉じ、耳を塞いだ。じっと感覚を閉じて、瞼の裏を見つめる。
それでも機眼の声が響いてくる。誓はやがてそれが外側ではなく、内側から響いている事に気付いた。
しかし、機眼の声はそれまで聞いていた機械的な声とは少し調子が違っているようだった。
目の前にいる誓の機眼でもある隣人は誓の両肩に手を置いてくる。
「誓、聞いてくれ。私は人間の感情と私の持つ評価係数による判断基準の違いが何かずっと考えていた。
確信は無いが、それでも君の望んだこの世界で肉体を与えられたからか、一つ答えにたどり着けた気がするんだ」
一息置いて、機眼は続けた。
「あり得ない話だが、例えば依存性が薄く、体への害がほとんどない快楽を与える薬があったとして、
評価係数の判断に従えば、私はその使用を君に勧めるだろう。
しかし、それが人間の望む幸福でない事とそれが望まれない理由を私はようやく理解した。
重要なのは文脈なんだ。薬物で与えられる幸福と人の望む幸福の一番の差は文脈にある」
機眼はさらに誓に詰め寄っていく。
「君の生きていた文脈と切り離されたこの世界の幸福と薬で与えられた幸福の何が違う?」
「エニスは俺をかばって死んじまったんだぞ……あっちの世界には弟もいない」
「エニスが君をかばって死んだ事を無かった事にするのが君の贖罪なのか?
自分の責任だと思うなら、都合が悪くても、それを忘れようなんて思わないでくれ」
打ちひしがれている誓の目を隣人が覗きこむ。
「誓。君は君の理想とする世界で、ただの機械である私にまで自ら歩ける体と家族を与えた。
その優しさこそが君の幸せの本質だ。
この世界は母胎が君の意識から可能性を歪めて作り出した現実だ。
こちらの世界に存在する幸せは、いつも君が自分の中に生み出す事が出来るものなんだ。
誓、帰ろう。君の文脈を取り戻すために」
誓の目の前の隣人が消えていく。そして、誓の両方揃っていた目の片方が機眼に変化した。
階段を激しく踏み鳴らしながら、誰かが一階に降りて来る。
「兄貴?」
弟が涙を流す誓の顔を見て困惑している。
誓は弟の方を向いて精一杯笑った。
「ちょっと行ってくる」
誓の意識が薄れていく。
気付くと誓は、人型兵器に乗って、様々な色と光の渦の中に浮かんでいた。