珈琲の香りに忘れてきたモノー中編ー
「あいたたた・・・、」
倒れた先輩はまたもや店内の注目を浴びている。
無論、私も視線を感じる。席から立ち歩こうとするだけでああも派手に転ぶとは。
なかなか起き上がらない先輩を見るべく、私も席を立とうとテーブルに手をかけると
「あの・・、大丈夫ですか?」
一つ奥のテーブル席に座っていたお兄さんに心配そうに声をかけられる。
見れば彼のテーブル横の通路に先輩が、流石に目の前で派手に倒れられたら声をかけずにはいられないだろう。ラフな格好をしたお兄さんだ、名前も知らない人の麗らかなひと時を邪魔してはいけない。
先輩、早く起きて!
「ああ、これは失礼しました。いえ、大丈夫です受け身は取慣れてますので」
立ち上がった先輩は、彼に答えつつ膝を払う。
先輩はよく転ぶのだ。場所を問わず、人目を憚らず。
彼に小さく会釈し、そのまま何事もなかったようにトイレへと向かう先輩。何事もなかったように。
先輩のあのへこたれない精神は素晴らしいと思う、見習いたい程だ。
私ならあんなに盛大に転んでは、羞恥で顔が真っ赤だろう。他者の気遣いにも恐縮していまう。
同席していた私の方にも視線を向けてきた、彼と目があったが小さく会釈を返した。恥ずかしい。
羞恥をごまかそうと席に残された先輩の上着を手に取り染みと格闘することにした。
軽く叩くように拭うがあまり効果がない。これはクリーニングに出した方が早いな。
仕方がないので私は残りの珈琲に口を付ける。
「ふぅ」
なんとか落ち着いた私は、丁度席へと戻ってきた先輩に気が付く。
しっかり顔を拭いてきたようで、先ほどまで珈琲に溺れていたとは思えない。
「いやはや、すまないね。咄嗟に堪えようとしたんだが無理だったよ。駿助くんにはかからなかったかい?」
訪ねてくる先輩は無事だった珈琲を片手に、申し訳なさそうにこちらを見る。
「ええ、被害は免れましたとも。自分の服は無事です」
「残念ながら先輩の服は・・・クリーニングに出すのがよさそうですが」
預かっていたジャケットをチラリと見てから先輩に言う。染みになる前に洗えと。
「そうだね、そうしようか。そうと決まれば善は急げだ、さっそく向かおうか」
私のカップが空だったのを見たのか、自分の珈琲をグビリと呷り伝票片手に席を立つ先輩。
会計を済ませる先輩がマスターにタオルを返して礼をいっている。
「タオルをありがとうご主人。また来ますよ」
「ええ、これはご丁寧に。またのお越しを」
柔らかい笑みを浮かべてお釣りを渡してくるマスターは「また来たいな・・・」と自然と思わせる魅力がある。うん、また来よう。できれば一人で。
店を出て事務所がある方へ進みながら先輩と歩く。たしかクリーニング屋さんが事務所の近くにあったはずだ。
まだまだ暑い夏の昼下がり、アスファルトの照り返しに行き交う人も心なしか元気が無い様に見える。
「しかし、暑いね。これではさっき補給した水分がすぐに出ていってしまうよ」
額に汗を浮かべ、先輩はそうぼやく。
全く同感だ、打ち水をして道路の気温を下げるボランティアでも立ち上げたらいいだろうか。
「そうですね・・・いっそ雨でも降らせたい気分です」
熱にやられて思考がおおざっぱになっていると着信メロディが響く。
私の携帯に電話が来たようだ。
「先輩、ちょっと失礼します」
そう断って画面を見ると「香織さん」と出ている。はて、先輩でなく私に?
そう思いつつも応答ボタンを押す。
「はい、もしもし和戸ですが」
『もしもし和戸くん?香織です。今いいかしら?』
電話の向こうから聞きなれた口調の女性が響く。
「ええ、大丈夫ですよ。どうしました?」
『あのね、そっちに先生がいらっしゃらない?携帯にかけても出なくって』
「えっ、先輩ですか?」
すぐ横に居る先輩に目を向ける。
電話する私を見ていたのか、目が会って「どうした?」と首をかしげている。
「はい、すぐ横にいますけど。代わりましょうか」
『あら本当?よかった、お願いできます?』
そのまま携帯を先輩に差し出し、手渡す。
「香織さんからですよ、先輩の携帯にも電話してたみたいです」
「えっ!?本当に?分かった、とりあえず代わるよ」
携帯を受け取った先輩はそのまま香織さんと話始める。
「ああ、僕だよ。ごめんごめん、どうしたんだい?」
『・・・・。』
「あれ?そうなのかい?うん・・・うんうん」
電話しながら反対の手でポケットを探る先輩。どうやらあの様子は・・・。
そして要件を聞き終えたのか、返事を返す先輩。
「わかった、それならこっちから連絡するよ。・・・はい、事務所でね。」
『・・・・。』
通話を終えて、こちらに携帯を差し出す先輩。少々伏し目がちに口を開く。
「ごめんね、駿助くん。どうやら携帯を喫茶店に忘れて来たみたいなんだ。」
ええ、わかっていますとも。戻りましょうか、あのお店に。
「・・・そうですか、わかりました。すぐに向かいましょう。」