髪飾り 4
「早く」
急かすフィアールカの声に俺は後ずさった。いったん意識してしまってからは優しく唇に触れる、その光景と感触が鮮明に浮かんできて離れない。今にも彼女の潤んだ唇に吸い寄せられそうだった。
「ちょっと待て! いったん待て!」
「どうして?」
「いや心の準備とか!」
フィアールカはゆっくり目を開ける。
「髪飾りを付けるのに心の準備がいるのかしら?」
「え? あ、うん。」
そっちですか……。何をあらぬ期待をしていたんだ俺は。うわ恥ずかしい。目の前に柱があったら頭を擦り付けたあと摩擦の力を利用して貝になりたい。そんな俺を見るフィアールカは目を細め、拳を口元に押し当てて必死に笑いをこらえている。
「ねえ、どうしてそんなにガッカリしているの?」
「してねえし!」
俺は髪飾りを両手でつかんで胸の前に持ってきた。
「ほ、ほら! 今から付けてやるから」
「私はさっきからずっと待っていましたのに」
フィアールカは笑い声を押し殺すように空気をもらし、そのあと再び目を閉じた。
俺は一息ついた後で彼女の顔をじっくり見つめる。目を閉じた彼女は一流の職人に設計された人形のようで、本当に同じ生き物なのかと疑いたくなる。
「ねえサルワタリ」
「何だよ」
「目を閉じていると何も見えないわね」
「何を当たり前のことを……」
「これでは貴方にキスされても抵抗できませんわ」
こんな時「して欲しいのか?」とか「じゃあ目を開けておけよ」と溜め息交じりに言えたらカッコよかったのだろうが、何を隠そう忍者なのに魔法使い一歩手前の俺である。
「何もしねえよ!」
と、どもりながら言い返すのが精いっぱいだった。
「ねえサルワタリ」
「なんだよ!」
「またキスしたい?」
動揺した俺は両手で持っていた髪飾りを落としそうになった。一方のフィアールカは何事も無かったかのように優しく目を閉じているだけだ。どこまで俺をおちょくる気なんだこの女。もし俺が文字通りの「猿」であればこの場で強引にお前の服を脱がせて「僕のバナナをお食べよ」とか言ってキスどころの騒ぎじゃ無くなんるんだぞ。
「うん。またキスしたい」
何を思ったか俺の口走った言葉はそれだった。それに対してフィアールカは
「そう」
と囁いただけで、その表情は相変わらず穏やかなままだった。しかしよく見ると少し顎を上げて構えている。優しく閉じられた瞼と相まってその表情は恋人とのキスに備えている少女のようだ。これ以上正面に立っていると変な気を起こしてしまいそうだと感じた俺は一歩斜めに踏み出しフィアールカの右手に回った。
俺は一度息を整え、改めて横からフィアールカの髪を観察する。艶やかな銀色の髪は部屋に降る朝日をみずみずしく照り返していて、まるで流れ落ちる水のようだ。この艶やかな髪も、透き通るような白い肌も、すべて俺のものにしてみたいと思った。
「ねえ、まだかしら」
フィアールカの催促する声に慌てた俺は、素早く左手で髪の結われた箇所を掴み、右手でゆっくり髪飾りのピンを差し込んだ。
……これで良いのか……?
不安になった俺は後ろに下がって髪飾りが狙った位置に付いているかを確認する。
すると遠くから見ても、狙った通り、耳の上に真っ直ぐ付いていてホッと胸をなでおろすことが出来た。
ああ、この屋敷に来るまで命の取り合いをしていた俺がこんなことに腐心しているなどと同期が知ったらなんと言うだろう。「サルワタリほんと猿」とか言われるのだろうか。
改めてフィアールカを見ると、銀色の髪に紫色のアクセントが加わったことによって妖艶な雰囲気がより強調されている。この女には紫色がよく似合うようだ。
「出来たぞ」
俺の言葉にフィアールカの瞳は蕾が開花するかのようにゆっくりと開いた。
フィアールカは右手で髪飾りの位置を確認したあとコチラに身体を向け、そのままじっと俺の顔を見つめる。いつもの事だと思っていたらフィアールカは何も言わず、そのまま固まってしまったのかと思うほど じいっと見つめてくる。いつもなら俺が「なんだよ」とか言って降参するところだが、今はどうしてだろうか、フィアールカの顔から眼を離せなかった。
呼吸を10度繰り返す間、俺はずっとフィアールカの顔を見つめていた。ひょっとしたらその黒く大きな瞳は魂を吸い取る力を持っていて、俺はもう彼女の術中にはまっているのかもしれない。
「ありがとう」
その声にハッとする。気付けばフィアールカは目じりを下げて目を細め、とても柔らかい笑顔で俺を見ていた。いつもの人を試すようなジットリした表情も良いが、俺はこの笑っている顔が一番好きだ。
「それじゃあ俺は行くからな」
俺は今度こそ部屋の出口に向かって歩き出した。この後やることがあるのだ。
「カティアのところへ行くのかしら?」
図星をつかれて思わず立ち止まってしまった俺へ追い打ちをかけるように、フィアールカは隣まで歩いてきて言った。
「私も行きますわ」
「え? な、なんで?」
「駄目なの?」
フィアールカは眉を下げ、濡れた目で俺を見る。そんな目で見られたら駄目とは言いづらい。
「だ、駄目じゃないけど」
「じゃあ決まりですわね」
決められてしまった。動揺する俺を見て楽しむように、フィアールカはいつものジットリした表情を俺に向けてくる。
諦めた俺はフィアールカの歩幅に合わせてゆっくり歩き始めた。そして気付く。いつも並んで歩くときは拳一つ離れているフィアールカとの距離が、今日は肩が擦れ合うくらいに近いのだ。まるでカティアと歩いているときのように。
対抗しているのだろうか? いや、まさかな。
おわり
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