髪飾り 1
俺には日課がある。
朝の牛乳配達。
朝食後の忍術と体術の鍛錬。
昼食後の忍術と体術の鍛錬。
寝る前の妄想。
何も予定がなければ少なくとも1日8時間は鍛錬に費やしている。
それは単純に忍者としての腕が鈍るのを防ぐためでもあるが、それよりも俺が心配性であることの方が理由としては大きい。
もしもこの屋敷が襲われ、俺の力及ばずフィアールカを連れ去られてしまったら……?
そう考えただけで寒気がする。
確かにこの街はとても治安が良いし危ない目に会ったことは一度もない。
だからといって危険への対処を怠るなど愚の骨頂。
常に最悪の事態を想定して最善を尽くすことこそ兵の務めだ。
こんなことを言うと俺が優秀な人みたいに聞こえるかもしれないが、要するに俺はどこまでもネガティブな人間なのだ。
春といえどもこの島の朝は肌寒く、息を吸えば冷たい空気が鼻を突き、吐けば白い吐息が溶けていく。
朝食を済ませた俺は一度自室へと戻り、鍛錬のための道具を準備していた。
鍛錬場は南に向いて立っている屋敷の北東に位置し、裏手の庭園とは兵舎で区切られているため一つの箱庭のようになっている。
今日は徹底的に下半身を痛めつけるメニューだ。気合を入れていこう。
俺が大理石張りの廊下を歩いていると、向こうからカッカッカッと誰かが走ってくる音が響く。
「おーいカッペイちゃん!」
靴の音に続いて元気な声。
ツインテールの赤髪を揺らせながら走ってくるメイド服の少女はカティアだ。
カティアはこの屋敷に3人いるメイドのうちの一人で、とても元気がいい。
今もおおよそ止まる気などないかのような勢いで俺の方へ走ってくる。
……いや、あれは本当に止まれるのか?
案の定バランスを崩したカティアは前のめりに突っ込んできた。
俺は素早く中腰になり、やや後ろに下がって勢いを殺しながらカティアを受け止める。
衣服の上からも分かる柔らかい少女の感触が俺の身体と重なり、甘い臭いが俺の鼻を満たす。
「大丈夫か?」
俺の背中に手を回して しがみついていたカティアは俺の顔を見上げるや満面の笑みになる。
「ありがとう!」
一向に離れる気配がないどころか更に身体を寄せてくるカティア。
この少女は俺だけでなく誰と話す時でも距離が近いのだが、だからといってこんなところを誰かに見られたら色々と誤解されかねない。
俺はカティアの両肩を掴んでゆっくり引き離した。
「ところで俺に何か用があったんじゃないのか?」
カティアは思い出したかのように大きく目と口を開ける。
「そうそう!フィアールカお嬢様がね、カッペイちゃんを呼んで来いって!」
フィアールカが?
その名前を聞いただけで鼓動が速くなる。
「どこに来いって言ってた?」
「応接室だよ!」
カティアの両肩に乗せていた手をおろし、俺は無言のまま応接室に向けて歩き出す。頭の中では何故フィアールカが俺を呼んだのかと考えていた。
「どうかしたの?」
ついて来たカティアは俺の隣を歩きながら心配そうにのぞき込んでくる。この少女は元気だけが取り柄ではない。人の機嫌や健康状態を一目見るだけで察してしまうのだ。忍法を学べば良いクノイチになるだろう。
「何か考え事してるでしょ」
いたずらっぽく笑うカティアは相変わらず距離が近い。近いというか完全に肩と肩が擦れ合う距離で並んでいる。
俺はカティアと目線を合わせながらも、視点だけを胸元に集中させる。
これぞ忍術。
濃紺のメイド服、エプロンドレスの上からも分かるカティアの胸のふくらみは歩くたび揺れている。大きさだってフィアールカと比べても引けを取らない。
だがこの肉付きの良い少女は自分がどれだけ男を誘惑する身体をしているかなど考えたことは無いのだろう。
何故ならこの屋敷に男は俺以外におらず、唯一の男である俺も表面上は極めて異性に対して無頓着に振舞っているからだ。
そう。フィアールカの前以外では。
いや、いかんいかん。こんな純真無垢な少女をそんなイヤラシイ目で見てはいけない。
俺は一度かぶりを振って邪念を払う。
「そういえば聞いてよ! 昨日部屋にゴキブリが出たの!」
1階に降りるため階段へ差し掛かったところ、カティアがさらに体を寄せながら話し始めた。
「部屋って使用人の寝室?」
「そうそう、私とヴェラの部屋」
ちなみにヴェラとはカティアの双子の妹だ。
「もう昨日の夜は大騒ぎだったよ……。アンナさんにはうるさいって怒られるし、ゴキブリは見逃しちゃうしさあ」
俺は極力 カティアの顔に視線を向けようと試みるが、重力によって浮き上がってはストンと落ちる胸に集中力を奪われる。
「そりゃ災難だったな。今日はしっかり見つけて駆除しないとな」
「本当だよ。このままじゃ怖くて眠れないもの……。ねえ、カッペイちゃん」
カティアは急にエサをねだる子犬のような表情をする。
「この後、寝室まで来てくれない?」
俺は思わず足を踏み外しそうになった。
前後関係を知らずにこの言葉だけを聞いたら完全に「あ、そういう関係なんだ」と誤解されかねない。俺自身もそういう意味なのかと一瞬期待した。
「そ、そうだな! 任せろ!俺がお前の寝室に出たゴキブリを退治してやるよ! お前の部屋に出たゴキブリを駆除するためにはお前の部屋に入らないといけないもんな! 仕方ない!」
俺はわざと大きい声を出したあと急いで前後を見て誰かに聞かれていないかを確認する。
幸い誰もいないようだ。
「本当に?」
カティアの顔がパッと明るくなる。この表情の変化から察するに昨晩は随分心細い思いをしたに違いない。
「任せろ」
俺は得意げに胸を叩いてみせた。
男は女に良いところを見せようとする本能があるのだそうだ。今の俺の態度が正にそれだ。
「ありがとう!」
カティアは横から抱きついてきた。
「おいおい。階段降りてる時に抱きついてくるなよ危ないだろ」
と苦笑する俺は、その肉感的な身体を抱き返したいという欲望を必死に押し殺していた。
俺が理性的な変態で良かった。
カティアは俺に抱きついたまま階段を降り、西に曲がったところで急に俺から離れた。
通路の先の扉は開け放たれていて、緑色の木漏れ日があふれている。
その木漏れ日を背景にするように、それらの光とは対の存在であるかのように、薄暗い廊下に立っている少女がいる。
黒を基調としたドレスに白銀の長髪。
離れていても分かる彫刻的な輪郭。
フィアールカだ。
なるほど、流石にカティアもフィアールカに見られたら誤解されると思ったのだろう。それとも仕事を怠けていると思われたくなかったのだろうか。
しかし先ほどまで離れて欲しいと思っていた俺だが、いざ離れられると寂しい気持ちになる。
「それじゃカッペイちゃん、後でね。お嬢様との用事が済んだら声をかけて!」
カティアは小声で耳打ちしたあと足早に階段を上がっていった。
俺が廊下を歩いていくとフィアールカは何も言わずに応接室へ入っていった。
つづく
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