本 2
応接室の入口に立つと先ず正面奥の分厚いカーテンに目がいく。金具覆いを備えたそれは非常に豪奢なものだ。夜であるため締められているが、昼間は窓の外に巨大な庭園が見える。
部屋をぐるりと見渡せば金箔の額装の施された絵が壁一面に飾られている。
目線を下に向けるとカード遊びをするための膝の丈ほどの小さなテーブル、周りには雑然と並べられた椅子がある。
その窓側の一つにフィアールカは座っていた。
シャンデリアの明かりを照らし返す艶やかな銀色の長髪。深い紫色の髪飾り。薄い陶器のようなきめ細かい白い肌。
そして、「これは等身大の人形です」と言われれば信じてしまいそうなほどハッキリ整った顔立ち。
最初に目が合ったときもその世離れした美しさに命を吸われるのではないかと心配した程だ。
今でも目が会うたびに心臓の半分が爆発しているわけだが、この時俺の目を奪ったのは身につけている白いレースのローブだった。
いやレースのローブに目を奪われたというべきか、その薄い布の下に膨らんだ双丘に視線を吸い寄せられたというべきか。僕はその谷間に飛び込んでみたいと思いました。
「お嬢様。サルワタリ様をお呼びいたしました」
アンナの刺々(とげとげ)しい声に俺は目線を上げる。
分かる。忍者の俺にはアンナが後ろから俺のうなじのあたりを刺し通す勢いで睨んでいる事が明確に分かる。
「こんばんは。サルワタリ」
特徴のある、やや低くねっとりとした声が俺の耳に絡みつく。
その大きな瞳は机に置かれた本に向けられ伏せたままだが、口元が少し上がって微笑んでいるように見えた。
「こんばんは。俺をご指名か?」
俺は極めて平生を装い声を発した。
一応言っておくがお嬢様に対して最初からこんな舐めた口を叩いていたわけではない。この屋敷に来た当初はしっかり敬語を使って会話をしていたのだが、フィアールカの方からもっと くだけた口調で話して欲しいと注文があったのだ。
正直敬語で話していた方が楽だ。口調が変わると急に距離が近くなったみたいで、まだこの距離感に慣れていない。
フィアールカは伏せていた目を上げ、その黒く大きな瞳で俺の目を貫いた。
その眼差しだけで心臓の半分を持っていかれる。もう半分は大事にとっておこう。
「こちらにいらして」
そう言ってフィアールカは妖艶に目を細め、じっとりと口を吊り上げて微笑む。
え? 挨拶だけじゃダメなの?
「なんだよ」
俺は普段通り歩いていたつもりだが、おそらく肩に力が入って不自然な歩き方になっていただろう。
俺が暖炉のそばを通ったあたりで
フィアールカは座っていた2人がけの椅子の端により、開いた場所をポンポン叩いた
「座って」
座れと言っている。
間違いなく隣に座れと言ってる。
「座るの?」
「座って」
フィアールカの言葉は抗いがたい執行力を持っているようだった。
俺はまるで熱湯に浸かるかのような慎重さでゆっくりゆっくりフィアールカの隣に腰掛ける。
その瞬間甘ったるい、それでいて爽やかな匂いが俺の鼻を満たす。
風呂上がりなのだろう、いつもよりしっとりとした香料の香りが俺の頭を優しく、しかし強引に覚醒させる。
なぜこの女はこんなに良い匂いがするのだ。
俺の理性を殲滅するつもりなのだろうか。それともミツバチを集めて養蜂でも始めるつもりなのだろうか。そんな訳のわからない事を考える事で俺は必死に欲望を押さえつけていた。
「あなたは部屋の外で待っていて」
フィアールカの声にハッとして目線を上げると部屋の入り口に立っていたアンナがフィアールカの方をじっと見ている。
アンナはしばらく静止していたが、やがて一礼をして部屋から出て行った。
出て行く一瞬、俺に向けられた刺し貫く視線をしっかり感じた。
何故だフィアールカ。何故アンナを部屋から出した。俺に何をするつもりなんだ!
「なんでアンナを部屋から出したんだ?」
俺は極力自然に笑ってみせながらフィアールカに問った。
すると顔を俺の方に向けたフィアールカは上目遣いの視線をひたすらに投げてくる。
何も言わずにじっくり、まるで反応を楽しんでいるかのように一点俺の顔を見つめている。
あまりの目力に押された俺は狭い2人がけの椅子の端の端の端の端の端まで後退した。
「ねぇサルワタリ。この本、面白いのよ」
フィアールカは目線をパッと机の上の本に切り替える。
がんじがらめの糸から解放されたかのように身体が軽くなった気がした。
落ち着こう。相手は19歳の俺より4つも下の子供だ。
バレてないバレてない。俺がドキドキしているのは絶対にバレてない。
「どんな本なんだ?」
「男の子と女の子の身体が入れ替わってしまうの。2人は必死に元に戻る方法を探すのだけれど、中々見つからなくて、絶望したり喧嘩したりするの」
フィアールカは前かがみになって本をめくりながら言った。
その枝毛一つない艶やかな銀髪はユラユラと暖炉で揺れる炎を照り返している。
相変わらず惚れ惚れする。どれだけ手入れをすればその長い髪を完璧な状態で保てるのだろう。
惚けていると急にフィアールカが屈んだままこちらに顔を向けた。
暖炉の光を映す大きな瞳が怪しく光っている。
その押し付けられるような視線を浴びて俺はまた後退する。
「ねぇサルワタリ。もしワタクシと身体が入れ替わったら、貴方は何がしたい?」
フィアールカの声はねっとりとハチミツのように甘ったるい。
なんだその質問は。俺に何を求めているのだろう。
俺は腕を組み「うーん」と考える仕草をとった。
実際考えていた。この質問への応答は慎重さが求められる。
そんなもの、あれを揉んだり掴んだりするに決まっている。
しかしそう正直に答えすぎると変態扱いされ、よそよそしすぎる答えだとフィアールカの性格からして、更に答えづらい質問に踏み込んでくるだろう。
チラリとフィアールカの方を見ると相変わらず微かな笑みを浮かべた上目で俺を見つめている。
その視線は一切動かない。
「あ、そうだフィアールカ。お前なら俺の身体と入れ替わったらどうする?何がしたい?」
フィアールカは屈んでいた態勢から起き上がった。
かと思うといきなり押し倒す勢いで俺の両腕を掴んで言った。
「もちろん貴方を襲いに行くのですわ」
喉の奥から「きゅっ」と変な音が出た。
さっきまではまだ余裕のあった俺の顔は一気に真顔になっていることだろう。その証拠にフィアールカが楽しそうに俺の顔を見つめている。
しばしの間沈黙が流れ、暖炉から木の弾ける乾いた音だけが聞こえて来る。強烈な視線から逃れたい気持ちもあるし、その美しい顔をこのまま永遠に眺めていたい気持ちもあった。
「冗談ですわ」
フィアールカは満足げな表情を浮かべて俺から手を離した。全く動けなかったのがくやしい。
「とくにここが一番面白いの」
フィアールカは机の上に置いてあった本を自分の膝の上に乗せる。
「どこだよ」
と言った俺の目は本を見てはいない。
理由の一つはフィアールカが本をだいぶ手前に引き寄せたため、物理的に見えない事だ。
しかしもっと大きな理由があった。
白いローブからのぞく胸の谷間に強烈に目を奪われていたからだ。
俺の位置から本を見ようとすると丁度フィアールカの胸に視線がぶつかる。
今、俺の脈拍は風車が回せるかもしれないと思えるほど速まっている。それほど激しく興奮を覚えていた。
それが普段から見たくて見たくて堪らなかった、しかし決して見ることの出来なかったものだったからだ。その白く柔らかく膨らんだ胸が間近で見え、手を伸ばせば届くこの状況で変態の俺が素面で居られるはずがない。
その秘密の渓谷は全てを捨てても飛び込んで見たいと思わせる、正に魔力を秘めていた。
抗いがたい衝動を両手に感じながら俺はそれを握り潰して必死に抑える。
「あらぁ。何を見ているのかしら」
フィアールカが急に俺の方を向く。
心臓が止まりかけたという表現はこの状況のために作られたのだろうと思うほど、俺は上下にビクリと動いた。
「いや! 何も見てない! 俺は何も見ていない!」
フィアールカは必死に目を泳がせながら答える俺を、やはり楽しそうに、うっとりとした表情で眺めている。
「あらぁ? 本は見ていなかったのかしら」
「あ! いや! よ、ヨンデタヨ!」
この女、絶対分かってて やりやがったな!
「ふぅん」
フィアールカはじっとりと嬲るような視線で俺を舐める。
挙動不審な男の顔を見て何がそんなに面白いのだろうか。
ひとしきり俺の顔を観察した後フィアールカは正面に向き直り大きく伸びをした。
洗練された彫刻を思わせる体のラインがまた俺の視線を吸う。
「眠いですわ」
伸び終わったフィアールカはゆっくり俺の方に傾いてきて頭を俺の肩に乗せた。
一瞬、身体を震わせてしまったのは気付かれてしまっただろうか。
「ねぇサルワタリ。ワタクシを部屋まで連れて行って」
フィアールカは今にも消え入りそうな声で言った。
そのかすれた弱弱しい声が余計に俺の欲情を駆り立てる。
そして俺の理性を追い立てるようにフィアールカは倒れ続け、とうとう俺の膝の上に頭を置いた。
いつも覗いてみたいと思っていたスカートの中身も、触れたいと思っていたハリのある肢体も、乱暴に撫でまわしてみたいと思っていた胸も、全てがすぐ手の届く位置にある。
何だこの状況。やっていいのか? やっていいのか? やっていいよな。もうゴールしていいよね。天竺へ行こうぜ。
もちろんこの女狐が狸寝入りをしていることは知っている。
それを承知の上でも俺の理性が負けそうだった。
この部屋に入ってからずっと上がり続けている俺の脈拍数はそろそろ頭打ちだ。
いかんいかん。気持ちを落ち着かせなければ。
俺は瞑想のように、ゆっくりと時間をかけて3度深呼吸をした。
いくらか気持ちの整った俺はフィアールカに語り掛ける。
「おいフィアールカ」
フィアールカは俺のひざ元で静かに寝息を立てたままだ。
そのあどけない寝顔を見ていると、やはりまだまだ15歳だなと感じる。
「これからお前を負ぶって部屋まで行くからな。良いな? ちょっとお前の身体に触れるけどイヤらしい意味じゃないからな。断じて違うからな」
するとフィアールカの右手がギュッとおれの服を掴む。
「お姫様抱っこが良い」
「起きてんじゃねえか!」
俺は一度フィアールカを真っ直ぐ座らせて立ち上がる。
そしてフィアールカの肩と膝のあたりに手を差し込みヒョイと持ち上げた。あまりの軽さに
「軽っ」
と声が出たほど軽かった。
いよいよ目の前に広がる絶景にまたも俺の下心がくすぶり始める。だが残念ながら手を出すことは出来ない。
そんな事をしたら大切なお嬢様を落としてしまう。
いや、なんかこの言い方はキモイな。
距離が近くなって強くなる甘ったるい匂い。せめてこの匂いを吸い込んで今日の夜食にしよう。
俺は音をたてないようにめいいっぱい鼻を広げてフィアールカの匂いを吸い込む。
ああ。目の前にお花畑が見えるよ。
「あらぁ?この部屋少し空気が薄くないかしら?」
バレテル・バレテル
「き、気のせいだろ」
俺は木の床を歩く足を速めて応接室を出た。
お読みいただきありがとうございました!