肯定についての小記述。
肯定。それはアイロニカルな呪文である。
肯定について語る前に、僕が、如何に人に対し、肯定するのが嫌いか、について語る必要がある。
僕は、比較的、真剣に話をする方だ。真剣に話ができる人間を相手にする際、高確率で喧嘩になる。
原因は決まっている。僕の特殊性にある。
僕の思想は歪んでいるらしい。生活環境がそうさせるのか、人間関係性が、原因を端的に見つける試みに意味はあるのかと、方法論的懐疑に陥ってしまう程である。
僕の癖の一つに、現状の方法論に、脱構築をかけてしまう点が、挙げられる。これを誰かとの会話中に、無意識下で行ってしまうと、会話の意味性=続ける意味性が不安定=不確定化してしまい、誰かが不在状態でも回るような事を思索してしまう。
これは、もう、端的に相手に失礼である。ここで本題の登場としよう。
肯定について。
相手を肯定すれば、相手は会話空間に於ける祝祭のポジションの獲得に成功する。今、書いていて、ふと思ったが、この時点で、不快である。祝祭されるべきは、僕自身である。
まぁ、いい。続けよう。
肯定とは、相手の祝祭化=ポジションの固定化である。その為のスイッチ=装置として、肯定という言葉がある。さて、肯定は、呪文なのである。呪われた言葉。
何故、呪われているか。それは、真実味を帯びていないから、である。肯定とは、真実ではない。
人を肯定する頻度が高い職業として、詐欺師が挙げられる。あれなんか、もう呪われた職業である。呪術的ですらある。他者の祝祭の先に、他者の資金を移動させる、他者の精神的快楽の果てに、他者の資金状況は空洞化する。詐欺師と絡み合うと、このような末路を辿る訳だ。これが、呪いではないのなら、新しい言葉を作らなければいけないだろう。
僕は方法論的詐欺師になろうか、と考えているのだ。何言っているの?という次第ではあるが、この言葉はとても真実味を帯びている。
方法論的詐欺師とは、方法論として、詐欺師=彼等のやり方を見習ってみようという、前向きな意思である。僕は詐欺師でいい。僕がいくら傷つこうが、周りが円滑(笑)に進行すれば、とりあえずは平和的状況の出現である。
僕は、平和主義者だ。争いが嫌い...でもあるし、僕を否定してくる全存在に、死ねばいいのに、と呪詛を投げかける程度には殺意を抱いている。会話も平和にやっていきたい。その為には、もう肯定しか無いのである。
肯定と肯定の連鎖。ラカンみたいな話だが...。肯定とは、肯定し続ける事も同時に示す。Yesは人を渡り、続いていく言葉だ。もう、仕方がないのだ。人は僕の思う以上に不安だ。この事実は、最近気がつくと同時に、内在系/超越系という、二項対立を設定した、宮台真司の偉大さにも再認識した。
肯定は、直接的解釈をするならば、不安に対する処方箋である。不安に対し、慰め(笑)の言葉として、配置/再配置を繰り返し、不安者の心へと浸透していく。それも又、呪文では、あるか。
兎に角、この文章は、僕の個人的決意表明なのである。別名、自己満足、今後の方針と換言しても良い。
誰も見ていなくても、僕が満足すれば、それで良いのである。