山野香港のプロフィール
(18):山野香港
山野電機の香港現地法人である「山野香港」は、九龍半島サイドの、地下鉄MTRび駅で言えば「ライチーコック」の駅上のオフィスビルにある。
その機能は、先ずは、山野シンセンの製造オペレーション。即ち、資金管理、購買、ワーカーの雇用と管理、製造、購買品や米沢からの自工具、供給儀品の物流、州政府との関係維持、税金の支払い交渉、製造完了商品の出荷手配。さらに販売機能としては、山野米沢本社の営業支援。海外OEM供給先のバイヤーの工場視察や品質管理者の品質確認作業のコーデイネーションといった製造課題での現場折衝を行っていた。
デービッド・ローは、香港生まれの38歳で、広東語、北京語、日本語、英語を使える。
日本語は、香港の日本語学校で習得し中央大学に留学した経験から日本語に関しては全く問題なかった。
社長の山野弘は、このデービッドを重用した。山野は、英語は出来たが英語での商売の経験は少なく、英語で交渉できるほどではなかった。日本語での商売でも実際の交渉や取引を自ら泥をかぶる覚悟でこともなく、社員がとりまとめた内容を承認したり、交渉が終わり契約を締結するセレモニーに出るといった経験しかしたことのない事情では、言葉の問題とは別にビジネスの現場を歩く実力はなかった。しかし、山野はそのような事実を自覚していなかった。オーナー会社の後継者として帝王学を学ぶ路線を歩いてきたと思ってている。
山野は、中小企業のオーナーの子弟が多く通うことで有名な東京の大学を卒業後、都市銀行にコネで入社し10年ほど努め、3年間の米国支店勤務も経験した。32歳の時、山野一郎が呼び戻し山野電機に入った。銀行とすれば、志しを持った創業者である山野一郎を経営者として評価し、X社の協力工場としてX社の成長の歩みと同じくして成長してきた経営手腕も評価し優良な融資先として扱っていた。従って、後継者である山野弘の就職も受け入れ、銀行業務の中で経験を積んだ上で山野電機に戻り、その経営を引き継ぎその取引が拡大することを狙って就職を受け入れるという思惑があった。
山野電機に戻ってからは、創業以来の社員が手堅く堅調に進めていた基幹事業を現場から経験して社業を勉強するということはしなかった。山野一郎も我が子には甘く、銀行ですっかり社会人及びビジネスマンの教育を実践で習得し実力はついているものと思っていた。入社して与えた役割は、海外本部長であった。
その当時の山野電機の海外営業は、X社を主に大手家電メーカーの黒衣としての協力工場での評判を得て、海外OEMも少し手掛けていた。その事業の拡大という課題を与えた。
山野一郎は、弘が米国駐在の経験から海外ビジネスのスキルを身につけたと理解していた。
しかし、邦銀の海外支店経験をしたからといって、製造業の海外ビジネスが出来るということでは全くないこと。また、語学力の習得に関しては、邦銀の海外支店が結局は日本人社会であり駐在員同士のやりとりが多く、担当業務によっては、現地駐在の邦人や日系企業の駐在員相手の業務が多いため高度なビジネス英語を必要とされないため語学力を上げることなく駐在を終えるということが多かった。山野弘の場合もこのパターンであった。銀行としても、優良な取引先の次期後継者に経験をつませたうえで、親元に帰った後自社のリスクで事業を進めてそのリターンを返してくれれば良かった。しかし、そのような中途半端な経験で事業を進められてもリターンは期待できないものであるが、結局は担保主義の文化であった。
しかし、本人は駐在経験の国際ビジネスマンとして自負がありその気になっている。山野電機に戻ってきてその気になって事業を進ようとしたが、メーカーの海外営業としての経験もなかったので、実際どのように現場を進めてよいかわからなかった。実際には、経験豊富な部下達が課題を進めて、弘は報告を受け、口を挟むことも出来ず決済をするだけであった。どこか、自分の活躍できる場はないかと探したが、年上で経験豊富な部下達が手際よく進めその余地はなかった。
たまに、学生時代の友人や銀行時代のコネを頼って取引のネタを取ってくることはあったが、それは、Ⅹ社など古くからの取引先の商品と競合する商品で、山野としてはとても受けられるものではなく、部下達に説き伏せられ成約することはなかった。
ビジネスレターであるコレスポンデウスレター、通称コレポンや貿易実務といった海外ビジネスの基礎を経験せず商談の現場での出番は、直接会っての商談の際の値段交渉において、海外部長判断として最終的な価格を提示するという出番位であった。そして、そういった客を接待するというような場面であった。そういうことは、地方都市で営業してきた山野電機の社員達は不得手でなところがあったので山野弘の出番として用意された。創業時は、運転資金にも苦労したとはいえ、弘はそういった苦労もなく、比較的堅調な中小企業の跡取りとして東京の私立大学を卒業し、コネではあったが都市銀行に就職しロス支店駐在を経験した弘に出来る仕事であった。実際、接待は上手かったし本人も好きな仕事であった。英語で商談を振り返ったり、これからのリレーションについて話しながら酒を飲み食事をする。海外事業を担当している気分になれる仕事であった。
そういった海外OEM先の客が増えてくるに従い、中国工場視察や品質確認や監査で山野シンセンに同行する機会が増えてきた。そういったアテンドも山野弘の仕事になった。
しばらくは、米沢から香港に出張し、米国からやってくる客と香港で落ち合ってアテンドするというような対応をしていたが、そういったアテンドのアレンジや客の要求する課題に迅速に対応する必要が出てきた。山野香港やシンセン工場のローカルスタッフやベンダー、フォワーダーとのやりとりがスムーズで役所を含めて各方面に顔が利き、製造課題だけでなく、香港とシンセンとの移動や接待のアレンジといったことにも要領よくフットワークのいい、広東語、北京語、英語、日本語、が使えるスタッフを探して雇い入れたのが、デービッド・ローであった。
デービッドは、最初は、山野香港のスタッフとして入社したが、そういった能力を発揮し香港内での成果を出したのと、日本語が出来ることと正確も穏やかであったので、山野電機の社員にも信用されるようになった。28歳で入社したが、米沢から担当者について仕事を進めるうちに、製造についても勉強して、日系メーカーが香港を拠点に中国シンセンで製造し全世界へ出荷販売するオペレーションを習得した。そして、5年後には、山野香港のを取り仕切るようになった。社長は、山野弘であったが、実務はデービットが責任者として山野香港と山野シンセンの製造オペレーションを進めるようになった。
山野弘もそんなデービッドを重用していた。
何より、香港島に面した九龍のホテルに滞在し、米国のバイヤーを迎えシンセン工場を案内し、販売や製造の打ち合わせをして、夜は接待をして米国や世界経済についての話をしていると、一流の国際派ビジネスマンとして自社の海外部門を背負っている手応えを感じることが出来た。しかし、それは、米沢本社の製造や海外販売担当者にとっては、本来応えていない要求を安請け合いすることが多く問題となっていた。戸塚が設計製造の責任者としていたころは、戸塚が弘に直接話すか、社長の一郎経由で諭すことによって対応していた。しかし、一郎が急逝し弘が40歳社長になり、さらに戸塚が退社した後は、弘は、オーナー社長として山野電機を思いのままに経営した。一郎が山野電機を育ててきた幹部社員も残っていたが、弘の海外OEMの実績が伸びるにつれ発言力も弱まった。ただ、その実績も、製造協力している国内メーカーに競合するローコスト商品を競合メーカーに販売するというようなやり方であった。国内メーカーは次々に山野電機から離れていったが、海外OEMの実績が伸びる状況下、社内では異論を発言するものはいなかった。弘は、実績が上がると、臨時ボーナスを出し、特に自分の下命に従順であったものを昇進させた。そんなこともあって、そういった経営が問題だという社内の意識も薄れてきた。ただ、X社商品のコピー商品を作って競合に販売するというようなことはしなかった。それは、製造協力の売上に占める割合は依然高かったのと、創業以来の恩ということも理解していた。
さらに、米沢工場の傍にいるということもあるし、X社の製造が、東京から米沢に移転し、その後、浜松、御殿場、松本へも拡大した時も着いていき、さらに中国製造にも着いていったということが、世間的には、X社との強い関係を持つという評判を得ていた。その実績と評判を大事にしたいということと、逆にこれさえ維持していればあとは少々乱暴なことをしても経営的には問題ない・・・いやむしろそういう経営が積極的で良い経営ではないかという思いが山野弘にはあった。
デービッドにとってもそのポジションは良いポジションであった。大企業の現地スタッフでは得られない権限を持って香港とシンセンのオペレーションを仕切り、米沢本社の会議には毎月出席し、また、弘の海外出張に同行し様々な取引を経験できる。そして、良い報酬も確保できる。何より、香港人中国人のビジネス世界でのネットワークが広がる。これは、香港人ビジネスマンとしてこれからパフォーマンスを発揮するための大きな財産となると思っていた。




