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リコール  作者: 別当勉
18/33

プロフィール : 商品企画部長 平尾公平


   (16):商品企画部長 平尾公平

 平尾は、自分のデスクに戻り3人の課長を集めた。そしてこれから出掛ける出張中の業務課題の進め方について確認した上で出張の準備に取り掛かった。商品企画のメンバーは、土曜日ではあったが全員出勤していた。しかし、リコール対応の課題については個別の担当というものはなく、各担当が課題を進める中で商品に関わる情報、例えば、社告原稿を販促担当が作成する際の図面提供や記者会見の想定問を作成する際の商品の仕様性能を説明するといった内容であった。商品企画のメンバーにとっては、自分達が企画した商品で起きている問題で、MAMの部員が通常の業務課題に加えてリコール業務を時間に追われながら対応している一方で、自分達の付加がそれほどでもないことがもどかしかった。手が足らない担当があれば、何時でも助人にいくという感じでスタンバイしていた。平尾は、その辺のところも察して、自分達の課題には集中して取り組む一方で他の担当で手助けを必要としている場合は進んで対応するように3人の課長に指示した。

 平尾は、小澤慶子が対応してくれた出張の手配状況について説明を受けフライトチケットを受け取った。

「フライトは、JALの17時の便で帰りはオープンになっています。明日から2泊は、何時ものハイヤットです。香港Xにカンパニーレイトで予約を入れて頂きました。火曜以降のシンセンのホテルは、手配中で吉川GMからお伝え頂けるとのことのです。わかったら、こちらにも知らせて下さい。

携帯はお持ちでしょうけど、ごちらにお泊りかも知っていなければなりませんから」

「わかってるよ・・・小澤もしっかりしてきたなあ」

「米沢の管理部と連絡し合いながら手配しました。フライトも取ったとのことです。成田でのミーテイングポイントは直接連絡してお決め下さい」

「はいはい」

「では、チケットとスケジュール表です。ハイヤットホテルの予約コンファメーション番号もここに書いておきました」

「ハイ、どうも有難う」

「では、気をつけて行ってらっしゃいませ」


 平尾は家に電話した。明日からの出張で、日曜の夕食は全員集合という、自分が決めた約束を守れないので、皆を集めて外で夕飯を食べよう思った。その約束は、出張や家族が互いに認める用事のあるときは免除されるという家族内の暗黙の了解はあった。しかし、平尾は、久しぶりに家族で外食したいと思った。これから望む課題に向かう勇気とパワーを得られると思った。

「俺や、太郎とさくらはいるか?」

「なあに?いきなり」

「吉祥寺で晩御飯食べへんか?明日から急に香港出張になったんや。日曜の晩飯は一緒できないからどうかと思って・・・太郎とさくらの都合どうかなあ」

「二人とも、今日はっちゅうか、毎日やけど部活にいってるよ」

「え、太郎はまだ水泳やってんのん?受験ちゃうのん」

「9月の大会までやるって」

「大丈夫かいな大学!」

「公平君なんか11月位までやってたやんか?」

「俺はあれでよかったんや」

「へえー・・・それよりお父さんが息子のことわかってないちゅうのは問題ちゃう?」

「わかったから・・・それで、二人には連絡とれんのかいな?」

「その前に私の都合は聞いてくれへんのん?」

「はいはい・・・千夏ちゃんのご都合は?」

「私は、大丈夫や・・・」

「あのなあ、会社から電話してるんやから手際ようしてくれる?」

「ええっ!」

「大丈夫や、会議室や・・・職場でこんな話できるかいなあ・・・」

「二人にメールしてみるわ。それで、なにごちそうしてくれるんですか?」

「何でもええで!」

「お鮨、焼肉、イタリアかな・・・」

「二人に決めさせたってね!」

「はいはい。水泳とダンスでお腹すかせた二人に決めさせるから安心できるお財布で来てね・・・」

「うわあ・・・」


 4人は駅ビル内の広場にあるからくり時計で待ち合わせた。ここは、太郎が小さい時からの家族の待ち合わせ場所であった。行き先は太郎の希望で、いきつけのお鮨屋さんになった。デパートの食堂街にある築地のお鮨屋さんで、二人が小さかった時は、カウンターで食べたがる二人のために、夕方の店が込む前に行っていた馴染みの店であった。普段でも食欲旺盛な太郎とさくらであったが、部活のあとということで見ていて気持のいいほどのものであった。健康そのものであった。さくらは、若い職人さんに相手をしてもらいながら快活に食べている。平尾は、もうそれだけで幸せな気分になってきた。鮨ネタを肴に好きなビールが進んだ。千夏は、量よりも質ということで、マスターにあれやこれや聞きながら楽しそうに食べている。平尾は、この幸せの為にもいい加減な仕事は出来ないと思った。明日からの出張のミッションも、正面から当たれば必ずいい結果が出る。そんな気がしてきた。「自分をぶつける」それが一番であることを、これまでの経験した窮地で覚えたことであった。この家族を裏切らない仕事の仕方。それをとことんやってみようと思った。

「パパ!ちょっと飲みすぎ違う!」


 平尾の初めての海外出張は、1989年の香港とシンセンであった。X社では、1970年代の後半から徐々に海外製造を進めていた。しかし、ローテクで手作業の組み立てによる製品に限られていた。従ってローエンドのラジオ程度が製造移管されていた程度であった。

 1980年代は、ソニーのウオークマンがヒットしオデイオメーカー各社は同コンセプトの商品を出し競合関係が厳しくなっていた。

 X社もソニーに対抗し、デザイン、品質、特に音質に拘った付加価値の高いリード商品のプロダクトブランド戦略が功を奏しソニーを追随するメーカーとして事業を拡大基調に進めていた。その戦略は、ブランド戦略であった。即ち、オーデイオとビジュアルの専業メーカーとして実績あるX社のコーポレートブランドであるXの補償の元、先駆者であるウオークマンの品質と性能を超えるパフォーマンスを持つイノベイテイブなリード商品と

そのプロダクトブランドによる利益追求を狙う高付加価値のハイエンド(トップエンド)商品の展開。そして、コーポレートブランドが補償する価値とリード商品のプロダクトブランドが補償する魅力のイメージを背景にしながらもシンプルな機能とお手頃価格を保証するセカンドブランドを冠するローエンドとミドルレンジ商品で数量を追求するといった戦略を展開していた。

 ハイエンドでの事業展開は、自社の研究開発にいるオリジナルの要素技術により競合との差別化が明確であり堅調に進めることが出来た。しかし、ミドルレンジ、或いは、ローエンドの商品は、特に海外市場での価格競合が厳しくコスト競争になっていた。その環境下製造コストダウンを目的に海外製造移管が検討された。携帯オーデイオ事業も、部品の一部は海外生産していたが組み立ては依然日本国内で行っていた。しかし、激しいコスト競合の中、部品調達からアセンブルを経て完成品に至る製造を海外で行った上で、製造地から全世界に出荷する三国間貿易を始めようということになった。

 1980年代後半は、CDはデッキタイプが漸くこなれた価格で広がり始めた段階で、携帯型CDはソニーがデイスクマンの名称で1984年に発売していたが、高い付加価値を維持していた。問題は、依然主流のCカセットによる携帯オーデイオであった。1979年にソニーがウオークマンとして発売して以来、軽量、小型、薄型、音質、機動性等付加価値をあげる中で差別化が競われる一方、基本機能に徹したスターテイングモデルは、価格競争が激化していた。

 平尾は、その当時入社5年目の28歳で携帯オーデイオの商品企画を担当していたが、この海外ローエンド市場での価格競合力を付加することに腐心していた。特に、北米市場からのリクエストが強く、標準小売価格$49.95、即ち$50で販売できる商品、出来れば$20札2枚、$40で販売できる商品を求められていた。現在$19.95のラインで販売されている商品である。$40で販売されるためには、通常のコスト計算では工場出荷価格$8以下となってしまう。価格競合の厳しい商品ということで、販売店、現地法人、製造部門、マーケテイング部門それぞれが取る利益を抑えたとしても$10で工場出荷しなくてはいけない。これは相当の難問であった。その当時のもっとも安い価格商品のコスト構造からすると、とにかく普通の発想では実現できない課題であった。

 その当時の携帯オーデイオ事業は、小型ラジオ、Cカセットタイプ、CDタイプ、MDタイプ合わせて、全世界で100億円の事業であった。松本は、当時38歳で、携帯オーデイオの商品企画部長になったばかりであった。芦田は、34歳の係長で中価格帯から高価格帯の携帯オーデイオ商品の企画を担当していた。平尾は、入社5年目で、国内営業部、

名古屋販社、サービス部門を経て商品企画部へ異動し2年経ったところであった。

 ローエンドでの競合対策をどうするかが大きな課題であったが、この時松本が設定したプロジェクトは次のようなものであった。

一.ローエンド製品の中国製造移管を進める。

二.自社が進出している東南アジアの製造技術、物流、工場インフラ、パーツ購買環境、現地法人の体制を考慮すると、香港の現地法人のオペレーションにより、中国のシンセンに工場を作って製造し、香港から日本を含む全世界に直接出荷する3国間貿易とする。

三.商品企画、設計、販売、物流、サービス等は、国内のマーケテイング担当と米沢工場の技術担当が行う。

四.香港現地法人は、工場の管理、パーツの購買、製造、香港とシンセン工場間の物流を行う。

五.パーツに関しては、金型とICは日本から供給。理由は、金型は成型品の品質が中国ではまだ実現出来ない。ICは、

製造技術の問題もあるが、当社の音質に対するノウハウが含まれているソフト等技術の流出を防ぐ。

六.香港出荷価格は$10を目標とする。これは、本船引渡し価格、即ちFOB価格。

七.この挑戦的な価格を実現するための利益とコスト構成は、香港現地法人、米沢工場、オーデイオ事業部それぞれが$1の利益を取る。従って、製造コスト$7をターゲットとする。

八.数量は、年間100万個をオーデイオ事業部がコミットメントする。

 この実現には、3つの部門が競合の厳しさを認識し、携帯オーデイオ事業の中長期計画の達成を危うくするという理解を持ち、自分の持ち場の部分最適だけを考えるようなセクショナリズムは捨てなくてはならなかった。

 X社の風土からすれば、もとよりそのような消極的な考えを持つ社員はいなかったが、

この課題はX社の社員としても挑戦的なものであり、一人のサラリーマンとしてはリスクの高いもので、社内での立場や志の低いポジション志向の強い人間であれば躊躇したくなる困難が簡単に予想されるものであった。即ち、完成品の中国製造に初めての挑戦。ターゲットコストの$7は、現在のコストの半分であり、言ってみれば無茶苦茶な設定であった。そして100万個の販売目標もその当時のX社のローエンド商品の販売実績の2倍の数量であった。一方で、このプロジェクトに挑戦することの意義は、大きかった。まず、オーデイオ事業としては、価格を訴求したローエンド商品とイノベイテイブなトップエンド商品を両輪とした事業展開に向かっていける。そして、その過程で3社それぞれが将来の事業展開に向かって力をつけていけるチャンスがあるということであった。即ち、香港現地法人は、それまで商品の一部部材に限定した製造を担ってきたが、完成品の組み立てに至る製造を行う力をつける機会を得たのである。工場の設営、中国政府との工場、ワーカーの手配と管理、部品調達、ベンダー調査確保教育、物流管理、品質管理や製造管理力のアップ。米沢工場は、そういった中国の製造環境を踏まえた設計能力を磨く。マーケテイング部門は、対競合に対して価格優位性のある商品を持って販売することが出来る。そして増え続ける中国製造、香港出荷のマーケテイング・バリューチェーンの推進力をつける機会を得られるということがあった。そういった長期展望に基づく大儀を理解し、一方で目先の厳しい競合という危機を乗り越えるために、セクショナリズムに陥ることなく全体最適を考えるリーダーが必要である。

 この時のそれぞれを代表するリーダーが、オーデイオ事業部で携帯オーデイオの商品企画担当課長であった松本であり、米沢工場からは、当時設計課長であった現在の取締役米沢工場長の安川であり、香港の現地法人は、当時1回目の香港赴任で香港Xのゼネラルマネージャで現在2回目の香港駐在の取締役香港X社長の植田であった。

 この3人が、互いの組織がWINWINとなることが全体のWINにつながることを理解し、セクショナリズムにならずに協力する必要性をそれぞれの上司に説明説得して取り組んだからこそ、松本が提案した8つの難しい課題を結果として達成することができ、今日の中国製造につながったのである。

 その後、X社がオーデイオとビジュアルからパーソナルコンピューターとモバイルフォーンへと技術拡大する過程で、中国製産する商品も拡大してきた。付加価値の高い日本製造の商品も依然多いが、中国製造の技術レベルも上がり、現在ではローエンド商品の製造は、ICや金型の製造から完成品に至る全ての工程を現地化しているし、日本製の商品でも、付属品は中国製造し日本で本体とパッケージするという対応が取られている。

 この流れの中で、従来日本で製造協力をしていた協力工場もX社の製造の現地化に付いて行くかたちで中国進出した。

 山野電機も、X社が東京の下町から米沢へ移転したのに伴い米沢へ本社ごと移したし、中国進出したのに伴い中国工場も建てた。そして同社は、部品や組み立てといった製造の一部を担当する協力工場が多い中、クレードルを完成品にしてX社米沢工場に直接供給する協力工場としての実績を得ていた。従って部品をX社の中国工場へ香港Xを通して納品する取引と違い、充電クレードルは、香港Xを通さずXの米沢工場との直取引となっていた。

 平尾が松本と芦田の部下として28歳で企画担当として中国製造の開発に関わったのが、1989年で、天安門事件の混乱を挟んでその作業は進められ、その秋に正式に工場が稼動しクリスマス向け商品の出荷が流れたのを見届けて異動となった。ロンドン現地法人でのトレイニーとして2年間駐在し、帰国語3年間海外営業を担当した。そして、32歳の時に商品企画係長として再び中国製造に関わった。この時は4年間の担当であったが、オーデイオ事業の中国製造は、ほぼこの時に固められた。即ち、商品企画と設計は、国内でMAMと米沢工場が行い、高付加価値商品以外のミドル及びローエンド商品のほとんどは中国で製造されるようになった。この4年間、平尾は、米沢と香港中国間の出張を繰り返した。それは年間30回に及んだ年もあった。

 40歳になり、海外販売の課長に昇格した後の4年間は、取引先の工場視察で中国工場を訪ねることが年に数回ある程度であった。44歳になり三度商品企画に戻った平尾は、商品企画部長としてMAMの全商品の企画を統轄することになった。今回の高機能充電クレードルの企画も、従来山野電機の米沢本社工場で製造しX社米沢工場に供給されていた類の商品であったが、コスト改善も狙って山野電機の中国工場での製造を進めたのは平尾であった。それが、平尾には会社として判断したことで企画だけの責任ではないと言われても素直に認められないことであった。


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