代理店「村田商会」に返品された事故商品の確認に向かう、松本常務と平尾
リコールをしなくてはいけない・・・平尾は、「覚悟をしなくてはいけない。覚悟をするのであれば今で、中途半端な対応になってはいけない」と思った。しかし、理屈ではわかってもできればそうならないで欲しい・・・避けたいとどうしても思ってしまう堂々巡りが自分の中で起こっているのを自覚した。自分をコントロールしなくてはいけないと思った。冷静にならなくてはいけないと思った。
リコールは、全社対応課題である。しかし、実務は、基本的には事業部が中心となってとりしきらなくてはいけない。そうなると、国内営業統括責任者の藤井なども流通対応について陣頭指揮をしなくてはならない。それを考えると、自分に代わってバイヤーの接待をするために名古屋に出張させたのはまずかったか・・・。
品質保証部という組織があるが、商品に関することで問題がある時は全て商品企画部の責任者である自分が対応しなくてはいけない。平尾はそのように思っている。商品に関わる問題があれば、設計上の問題であろうが製造上の問題であろうが品質管理上の問題であろうが、商品を企画し、設計を監督し、量産をを承認し製造を監督し、品質管理を監督し、物流、販売、サービスに至るバリューチェーンを管理する商品企画責任者がその問題についても管理監督する。そういうものだと平尾は思っていたし組織的にもそういう機能を商品企画部長が持っているものと認識されていた。実際には、マーケティングバリューチェーンの管理者は、MAM本部の本部長である芦田である。しかし、商品を企画し事業として育てていくためには、商品企画は他のバリューチェーンに関わりながら企画を進めていく。そういった仕事の内容から、現場的にはその商品が関わるバリューの全てを企画に反映させて商品化していく商品企画部が事実上とりまとめるものとして認識され推進されている。それは、いいことも悪いことも含めてである。従って、平尾はこれから起ころうとする問題は自分が現場で責任を持って当るものだと考えていた。
しかし、そんなことは当然のことで、平尾の気がかりは、バリューチェーンに配慮して企画したつもりがそのバリューチェーンに負担を強いることになるその責任である。「しくじった」「皆に申し訳ない」「会社に損害を及ぼす」・・・そしてなによりも「社会やお客様に迷惑を掛ける」なによりもそのことを覚悟しなくてはいけない名にと思った。自分が一番大事にしてきたことである。良い商品を作って、人々の生活を豊かにし、そのことで信頼を得てブランド価値を高めそのブランドを信頼してお客様が商品を買ってくれる。そんな好循環によって会社の継続的発展的な経営を進める・・・ゴーイングコンサーンの経営・・・その実現を企業人としての自己実現にしたい・・・そんな自分の思いと反することが起きようとしている。
事故が起きればその被害者への責任、社会的責任。会社やブランドの信用を失墜させることの責任。事業部の上司、仲間、部下といった同僚に掛ける迷惑。そのことを思うと今自分はどのような「氣」を持って望めばよいのか検討もつかなかった。全く未知の世界にこれから足を踏み入れるような不安を感じた。
しかし、そうなればよいと願う気持ちの一方で冷静に考えれば、まだ「リコール」が決まった訳ではない。準備をする時間はあるはずである。少なくとも「氣」の持ちようについて準備をする時間はある。たった今からその準備をすればよい。ではどのような「氣」をもてば良いのか?少なくとも「氣」を引いてはいけない。「氣」を引いてしまうと悪い「氣」に影響される。即ち悪循環に入る。逃げ腰な対応が後手を踏んで問題を大きくして危機管理に失敗した企業を幾つも見てきた。
・・・強気一辺倒でもまずい。冷静にしっかりとした対応が必要ではないか。その状況を見ながら自分なら「このように対応しよう」と考えてきたことがある。それを思い返し実行して見せようと自分を鼓舞した。しかし、その一方で、あれは思いつきのシュミュレーションであり深く考え抜いた内容でもない。現実は違うであろうといった弱気も出てくる。まだ決まったことではないことで気持ちが揺れ動くのがわかることがさらに不安を増大させた。
とにかく企画した商品のことに関わることは全て商品企画者が責任を持つものだ。このことが揺らいでは、今後も商品を企画していくことは出来ない。商品企画部を預かる自分が「氣」をしっかりと持って冷静にかつプラス志向で対処していかなくてはいけないと自分自身に強く言い聞かせた。そうしないと次の行動に踏み出せないよう思えた。
「常務!のぞみ何号に乗られましたか?私も名古屋から乗れるようにします。忙しいところお手数掛けさせてすみません」とのメールを松本の携帯に送り商品部の商談室に戻った。
「ナニイ!・・・平尾さん・・・どうしたの?顔がえらいこわばっとるで」
部屋へ戻ると梶井バイヤーが上目で怪訝そうに尋ねた。平尾は、「顔に出たるんじゃまずいなあ」と思いながら必至で表情を和らげた。妻の薫が日頃から教えてくれるように、
口元を両側に少し開いて笑顔を作った。
「いえ、ちょっとヘマやらかしてしまって常務から大目玉です・・・」と、咄嗟に応えたが相応しい応えにはなってないと思った。
「なにい!・・・あの常務さんが怒るれるんですかあ?それはどえりゃぁヘマとちがうんのん?平尾さん大丈夫かあ?」
「だめです・・・絶体絶命ですわあ・・・うちの松本は怒る時に声を荒げたりしないのですが、それだけに怖いんです」
「そういう怒り方・・・わかるわあ~怒られる方は一番こたえるねん・・・」
「ええ・・・でも大丈夫です。ちょっと長引いて失礼しましたが、もう終わりました・・
・すみません。席を外しまして・・・続けましょう」
平尾は、シニアマネージャーの遠藤と担当の池谷に目配せして中断させた打ち合わせを進めさせた。
会議の最後に、平尾は、自分はその夜予定していた会食には一緒できなくなったが、遠藤と池谷が、平尾の行き着けの店で以前に案内して梶井が気に入った割烹「出雲」に案内する旨を話した。
「本当にすみません。梶井部長とは久しぶりにゆっくりお話したいと思っていて今日は本当にいいチャンスだと楽しみにしていたんですが・・・業界情報で教えて頂きたいこともあるので残念です。こちらからお誘いしておいて本当に申し訳御座いません。また、近いうちに出かけてまいりますのでお忙しいでしょうけどぜひお時間御造り頂けるよう宜しくお願いします・・・今日は遠藤と池谷を置いていきますので二人に流通や売場作り、それにお客様の商品企画について教えてやって頂けますか?」
遠藤と池谷には事の状況を説明せずに話を進めたが、二人は、仔細はわからないが何か問題が発生したことを理解したこと、それも平尾が今動かなければならない重要な問題でそれに当るために自分達がしなくてはならない残された課題も理解したこと、そしてそのことは自分達にまかせてくれ・・・それらを伝える目で平尾の目を見て頷いた。
「なあにいー。平尾ちゃんが動かないかんトラブルってことはどえりゃぁー大事やなあ。わしで手伝えることがあったら何時でも言うてや!」
「ええ、ほんとうにすみません。近いうちに必ず名古屋に参りますのでその時はもう一度時間を作って下さい」
「平尾ちゃんのためなら何時でもOKやでえ。今日は、この二人からワシが色んなこと教えてもらって勉強するわあ」
「出雲のワカが魚を仕入れて待ってるって言ってましたから・・・それに鹿児島のおいしい焼酎のボトルも入ってます・・・足らなかったら新しいのを入れてください・・・二人とも粗相のないようにね!・・・まかしたよ!]
「了解しました!・・・梶井バイヤー!我々では役不足でしょうが、今晩は宜しく勉強させて下さい・・・7時に栄の日産ギャラリーの前でお待ちします・・・如何でしょうか?
」
「7時ね?・・・何とか仕事を終わらせていくよ・・・宜しく!」
「宜しくお願いします・・・」
平尾は、松本からの返信メールを見て、松松本が東京から乗ってくる「のぞみ」に名古屋に乗るにはまだ時間う時間にはまだ間があることを確認した。急に予定を変更したことについて遠藤と池谷に話をしておかなくてはならないと思った。
「ちょっとお茶しようか?名駅まで付き合ってくれる?」
平尾はタクシーを止め二人を乗せた。商品本部から距離のあるところまで行ったうえで話さなくてはならないと思った。
「平尾さん・・・何かありましたか?」
「うん。ちょっとな・・・駅の上のホテルにテイーラウンジがあるだろう。あそこだったら静かで落ち着いているだろう・・・」
タクシーの中でできる話ではなかった。2人もそういった問題が発生したのだなと察した。
「・・・A―Xのアダプターが発火したらしい・・・」
「えっ・・・どういうことでしょう・・・そんなことありますかねえ・・・うちの商品でそんなこと起こりえますかねえ・・・」
遠藤と池谷は、それが事実であれば、程度はわからないが重大な問題が発生したことはわかった。しかし一方で、性能や品質といったことでは一番を自負して商品を作ってきた自社の商品で、特に信頼性については絶対といった風土の自社でそのようなことが起こるとは思っていないし、それだけに仮にそのようなことが怒ればその問題は重大であるし、さらに過去にそのような問題を実際に起こしてこなかったから初めてのことになる。その事実も重いが、経験したことのない課題対応をしなくてはならない。そのことがさらに重い・・・2人はそのように理解した。
「でも・・・我々のどこかに手抜かりがあったのでしょうか?」
「わからない・・・」
遠藤は「企画第3グループ」の課長であるが、平尾の『ものづくり』の進め方、即ち商品企画について日頃から尊敬しその手法を自分のものにしたいと思っていた。そして平尾の仕事の進め方だけでなく、ビジネスへの取組みや社会人としての生き方を含めて1人の人間として尊敬し慕っていた。従って、強い忠誠心を持って仕事に取り組み、成果を出して平尾の評価を高めさらに上の経営幹部に押し上げることが出来れば会社の飛躍につながると思っていた。その平尾が統括し各人が本当に精力的に仕事をする商品企画部の30にんは皆そんな思いで仕事をしていた。仕事上の成果を皆で喜び合う風土のあるよいチームであった。遠藤は、それだけに、もし本当に出火が事実であるなら、そんな問題がこの高い業務品質を誇るチームから出たことが悔しかったし、また一方で不思議であった。
遠藤は、そのように思うと同時にひょっとして自分仕事の落ち度が何処かになかったろかと不安になった。もしあったのなら自分はどのようにすれば良いのか?そして、部の皆も平尾にもどのようにすれば良いのか?確認された事実は何もないのに、仮定ばかりが頭の中を駆け巡った。
火が吹くなんてことは重要で大きな品質不良である。大量生産する工業製品で1台2台だけが不良品となるようなことは非常にまれである。部品がたった一つ不良なんてことも稀であるし、組み立て検査を通過した製品1個が不良で出火にいたるようなことも稀である。設計の問題か、経年変化を起こす不良部品が大量に混入したといった理由になる。そうすると、不良品はもっと激しく発生するはずである。しかし、そのような状況には至っていない。遠藤にとってはそれが不思議であった。また、こういった不良だけは絶対に発生させてはいけないという徹底した経営方針の元でモノ作りを進めているのが商品企画チームである。商品コンセプトを創る作業から、設計、開発、製造、出荷、サービスにいたるマーケティングバリューチェーン全体の品質をコントロールする責任を持つのが商品企商の役割で商品を企画するということはそういうことであるということも各事業部の商品企画部隊に徹底されている。そして実際に書く現場もそういった方針を徹底しそれを誇りを持って進めている。自他ともにその品質の高さを認めているX社の商品で不良が発生するということはそのどこかに漏れがあったということが事実である。でも、日頃その風土の中で仕事をしている自分としては信じられない。「火を噴く」なんてことがあるのであろうか?少し落ち着いて冷静に考えても信じられな。一方で信じたくないということも正直なところであった。
「とにかく確認できるまでは何も決まったわけじゃないから・・・大騒ぎしないように!
・・・ただ、心の準備だけちょっとはしておいてくれる?」
松本からのメールが着信した。
「のぞみ23号。1号車」
「のぞみ23号の名古屋到着って何時?松本さんはそれに乗っているらしいんだ」
池谷が携帯で到着時刻を調べた。
「4時34分です」
「おっ。丁度いい感じだな。駅のスタンドで『きしめん』食べる時間あるな・・・そしたら、2人は梶井さんのことを頼むよ・・・今日の結果は、明日の朝には電話を入れるから・・・」
平尾は「きしめん」など食べる気はなかった。部門のリーダーとして部下にあわてていないことを見せたかった。
「はい・・・わかりました。我々はスタンバイしていますから何時でもご下命ください」
「下命?こわい言葉つかうなあ・・・まあ、もしもの時は皆の力を借りないとな・・・」
「借りるなんて冷たい言い方はやめてください」
「はいはい・・・わかったよ皆でやれば出来ないことはないよな!・・・有難う池谷!」
3人は、他人が見れば相談事が上手くいったというような顔で立ち上がりテイーラウンジを出た。しかし、ひょっとするとこれから怒涛のごとく押し寄せてくるかもしれない危機に対して何か具体的な対応がまとまったわけではない。不安な中3人がなんとはなくではあるが確かに認めあったのは、何時ものチームワークで対応すれば何とかなるのではないかという漠然とした安心感と困難に向かっていこうという勇気であった。
平尾は、名古屋駅新幹線ホームの先頭で松本が乗った「のぞみ号」が入ってくるのを待った。常務の松本は、社の旅費規程ではグリーン車に乗ることは許されていた。しかし部下と移動する時はグリーン車を使わなかった。部下と一緒の方が話ができて楽しいという。気遣う部下には、「たまに一緒に出掛けるのだからいいじゃないか」と言う。松本は、同業他社や取引先である流通業界にも顔が通っているだけでなく、ビジネスセミナーで講師をすることも多く、また経済雑誌のインタビュー記事でも広くビジネスの世界で顔を知られている。平尾なんかは、「世間の目もありますので・・・」と言うが、「そんなことで見栄を張ったって・・・」と松本は答える。部下達も、普通役員と同席では気詰まりに思うものであるが、松本の話しを聞きながら出張することを楽しく思っていた。
1号車の普通席にいるということは、平尾と名古屋で合流できるかも知れないと考えたのだろう。グリーン車に飛び乗れば良いのにこんな時でもそんな気遣いを松本はしているのか・・・平尾は、ホームから見える予備校の看板を見ながらそんなことを思った。その予備校は1年の大学浪人時代に通った京都の予備校の系列校であった。あれから27年経ったがそれはあっという間だった・・・そんなことをぼんやりと思いながら松本が乗る「
のぞみ」を待った。
1号車の前方の乗車口から乗ると車内の中ほどの座席から松本が手を上げて合図をしてくれた。夕方の5時過ぎに新大阪に着く「のぞみ」の車内は3割程度の乗車率で空いてい。出張に行くにしても出張から帰るにしても中途半端な時間である。
「おう・・・すまんな。予定を変更させて」
「こちらこそすみません。MAMの商品のことで手間を取らせて・・・」
「なにが?こういうのが俺の仕事じゃないか。
・・・それより梶井さんの接待の方は大丈夫だったか?あの人はちょっと難しいところがあるからなあ・・・」
「ええ大丈夫です。深く頭下げて謝っおきました。改めて私がご案内することをお願いしました。今晩は遠藤と池谷がきっちりとやってくれます。梶井さん・・・会食好きですから・・・」
「うん、そういうところあるなあ・・・その時は俺も連れて行ってくれないか?」
「ええ了解しました・・・有難うございます・・・常務に来て頂けましたら助かります。
すみません重ねて手間を掛けさせますが・・・」
「何だそれ・・・そんなことを手間だと俺が今までに言ったことがあるか?・・・」
「いいえ・・・」
「だろう・・・最近出番が少なくて不満なんだ。皆もう少し俺に仕事させてくてもいいんじゃあないかと思っているんだ。ちょっと水臭い感じがしてひがんでいるんだ」
「すみません・・・そんなつもりはないのですが・・・でもあれですねえ・・・村田社長のところに同じ症状の不具合品が2台戻ってきているといのは・・・それはかなりまずいです・・・」平尾は辺りに気遣い少し声を落して話した。
「ああ・・・正直言ってまずい。お前、何か思い当たることがあるのか?」
「いいえ・・・電話をもらってからずっと考えていますが、どこかに手落ちがあったかというと、危ういところがないのです・・・その過信が良くないのかも知れませんが・・・
」
「いやあ・・・そんなことないよ・・・我々はかなり細かく慎重にものづくりをやっているはずだよ・・・」
「・・・量産開始して半年以上経っています。販売が調子いいのでロットも増やしましたが、品質も安定して量産できていました。設計、調達、製造、品質管理で変更をしたところもないのです・・・でも多発となれば、どこかに見落としがあるはずで・・・すみません」
「なんだ・・・何でお前が謝るんだ・・・」
「商品に関わる問題は、発売後でも商品企画の責任ですから・・・」
「・・・そうだけど・・・今謝ることはないじゃあないか・・・どうした?何時も強気の平尾がどうした?私は何とも思っていないよ。我々の仕事の進め方に問題があるとも思っていないよ。だけど、このやり方でもし問題が発生したら、それはやはり我々が自分達の新たな課題として対応するだけだと思う・・・だいいち、未だ何も確定したわけじゃあない。
・・・まずは事実を確認しようよ・・・な!」
「はい・・・常務はリコールの仕方ってごっ存知です?変な聴き方で申し訳ないですけど
・・・当社はリコールをしたことがないわけですから、当然経験はありませんよね?」
「現金問屋から買い戻したことはあるけど、リコールなんで全く見当がつかないなあ。お前勉強したことあるか?」
「いええ。教科書っていうか、書籍にあたったこともないですし、講演で聞いたこともないです・・・どのようにするんでしょう。今回の件でもしそうなった時の準備だけは考えておこないといけないですねえ・・・」
「ああ・・・実務としての手順も浮かばない・・・役員の危機管理研修で不祥事に対する記者対応についてやったことはあるんだが、リコールの手順まで詳細に研修したことはない。だから俺の立場としてまずいが、ようわからん」
「法務部は知っているでしょうか?」
「消費生活用製品安全法という法律についてはもちろんわかっているだろうけれど、じゃあ実際にリコールをどうやって進めるかってことまでは把握していないと思うよ・・・」
「ですよねえ・・・リコールって言うと記者会見の場面ばかりクローズアップされるけれど実務についてはいろんなことがあるのでしょうねえ・・・」
「だと思うよ・・・さっき、出掛ける前に芦田に調べておくように頼んでおいたよ。広告代理店なら知っているのじゃあないかと思う。村田さんのところにある2個を見て、万一の時は即対応しなくてはいけないからな・・・」
「はい・・・しかし、危機管理ってこういうことなのですねえ。私にはその意識がす中無いって言うか、正直言って希薄でした。すみません・・・」
「平尾があやまることではないよ・・・そんなことを言ったら俺だって同じじゃないか・
・・あんまり喜ばしいことではないけど、もしそうなるなら当社にとって初めての経験になるこの機会に経験して実力をつければいいと思う・・・皆でやればできると思うよおれは・・・」
のぞみ23号は、京都駅を出ようとしていた。桂川を渡ってから広がる住宅地とその向こうの山、そしてしばらくして「天王山の戦い」として有名な「山崎」の辺りは、言ってみれば平尾の子供の時代の自分の庭のようなものである。子供の頃は山に入って良く遊んだ。平尾は、その当時できた新興住宅地に大阪から移り住んだのであるが、その時はまだ住宅も少なく周囲は田や畑であった。今ではずっと住宅やマンションが連なっている。それでも東京に比べると緑はずっと多い。ほっとする。京都、大阪、神戸は何処にいても山が見えるが東京ではそのようなことがない。平尾は故郷の山から「氣」を貰いたい。そう思った。
「おい・・・ちょっ待ってくれ・・・着替えを買っていいか・・・なにも持ってないんだ」
「・・・じゃあ、梅田のデパートに寄りましょうか?」
「いやあ何でもいいんだよ・・・下着はコンビニで買えばいいけどワイシャツはコンビニでは売ってないだろう・・・その辺でいつもワゴンセールしているだろう。あれ、今日はやってないかなあ・・・」
「あんなのでいいのですか?」
「ああ全く問題ない・・・無けりゃあ二日位着たきりでも問題ないけどね」
駅の構内をざっと見渡したところ、松本が言うような紳士物のシャツを売っているワゴンはなかった。東海道線に乗り継ぐコンコースか階下へ行けばそのような売り場があったような気がしたが、松本は執着せず地下鉄に乗って村田商会のある天王寺に向かおうとした。
「平尾はこちらへくると関西弁に戻るなあ」
「そうですかあ?」既に関西弁であった。
「正確には京都弁と言って欲しいところですけどね・・・入社して東京に来て23年になりますけど、東京弁を意識したこともないんです。でも関西弁で通そうと強く意識したこともないのです。しかしだんだん関西弁がとれて自然と美しい標準語を話すようになったんです」
「美しい標準語ねえ・・・」
「ある時、関西弁で話していて、ひょっとしたら自分が思うほど相手にニュアンスが通じていないのじゃあないかと思うことがあって相手の理解を意識しながら話すように心がけたら自然とそのようになったのです」
「そんなものなの?今でもニュアンスが伝わらないと思う時はある?」
「関西人のメンタリティは独特ですからねえ
・・・京女のカミサンが笑うのですが、『京都駅でタクシーに乗った瞬間に関西弁になる』って・・・正確には京都弁なんですけど・・・」
二人は、事実を確認する前に憶測で深刻にならないように話題には気を使って話を続けた。
村田商会は、現社長村田正太郎の父源太郎が戦後創業した会社である。創業当初は物資の乏しい戦後の市場で日用雑貨を扱う便利屋的なことから始めた。特に、電気関係の商品に関しては、真空管、電気ソケット、コンセントプラグ、電線コードに関しては、メーカーにいる小学校時代の友達を利用し、同業他社とは違う品数の多さと安定的な仕入れで日本橋の電気街で取引を拡大し問屋として力をつけていった。
戦後の復興が進むにつれ、ラジオ、扇風機、洗濯機といった家電製品は、量産化とそれに伴うコストダウンにより価格に値頃感が出だことによって販売が急速に拡大した。村田商会もそんな流れにのって問屋として成長したいった。当初は、日本橋の電気屋への卸販売を主にしていたが、その後大阪近郊から近畿圏へ、さらに名古屋以西の西日本へと販路を拡大していった。そして、家電産業が、テレビ、冷蔵庫、洗濯機の時代から、カラーテレビ、ステレオ、クーラーの時代に移りさらに拡大していく流れのなかで、家電メーカーが系列ショップ以外への販売流通の中間問屋としてさらに拡大してきた。
しかし、その後家電市場が成熟すると、大手家電メーカーは流通政策を打ち出し、それれまでの販売流通の整備を始めた。それは、とにかく消費者の目に沢山触れるように売り場を確保し商品が流れることを優先した物流から、厳選された売り場で商品の特徴や品質を丁寧に消費者に伝え値段をコントロールして利益を確かに確保できる物流へと変えていくことで、その物流政策すすめるために大手家電メーカーは販売子会社を作った。問屋は、
吸収を覚悟でメーカー販社設立に加わるものもあれば、メーカー販社が取引をしない販売店への取引で生き延びに賭けるものもいた。
村田商会は、有力店ではあるがいわゆるクセのある経営者でメーカーの価格政策を守らないために商品の供給を制限を受けている販売店や扱い高が小さくメーカーが直接取引するのをためらうような店に対して、フットワークときめ細かいサービスで取引を続け生き延びてきた。
従って、価格政策から厳格な流通コントロールを進める一方で、競合対策や一時的な売上の理由から家電メーカー及び家電メーカーの小会社の販社が、自らが販売することが憚られる販売店に販売しようとするときにsの販売を黒衣として担う役割・・・或いは、反対に正規にメーカーからの仕入れルートを持たぬ販売店の仕入れをメーカーの流通政策に配慮しつつ小口で面倒をみる・・・流通の中で、メーカーと販売店両方に対して便利屋的に動きながら存在感を示してきた。
しかし、これではメーカーや販売店の事情による商売しかできない。そこで自らが主体的に動いて商売をするために取り扱ったのが輸入家電である。国産メーカーの商品と競合しない範囲でという条件はあったが、日本のデザインとは違った斬新さや品質、そして「舶来モノ」といわれてきた輸入品に対する消費者の思いからくるブランドイメージ・・
・そういった海外メーカー独特の魅力を付加価値としてアピールしながら全国の家電量販、デパート、スーパー、一般家電店に手広く販売していった。これは、輸入家電メーカーの正規代理店としてである。
つまり、国内メーカーの黒衣として取引実績が輸入家電メーカーの流通構築に役立ち、また、それによって拡大した取引がその黒衣としての役目を強化させた。そして村田商会は、便利屋からブローカー、そして家電商社へと成長していった。しかし、この成長も順風満帆ではなかった。戦後掘っ立て小屋で創業した村田の父は、村田がまだ大学に通っていた時に若くして亡くなった。事業は母、村田艶子が引き継いだ。村田の母は、それまで帳簿の面で商売に関わってきたが、夫が亡くなったことにより商売の前線に出ざるを得なかった。しかし、メーカーの販売流通の再編の波にもまれもしたが、それまでの地盤を活かしながらフットワークの良い問屋としての評判を得ながら事業を守ってきた。飛躍的にとは言えないが堅調に伸ばしてきた。その堅調な経営を振り返ると、ひょっとして村田商会は、創業時の便利屋の時代から、実は母が引っ張ってきたのではないかと・・・村田正太郎はそのように思っている。
それは、村田艶子が経営を担うようになってから経験した危機は、会社が成長し大きくなればなるほど「難しい危機」であった。しかし、村田艶子はそれらを乗り越え創業50年を迎えるまで引っ張ってきた。
大手家電メーカーは、流通の再編と称し、それまで村田商会のような代理店が販路開拓し取引を拡大してきた小売店が量販店に成長したすると直販化を行ったり、自社販社化によりそれまでの代理店からの販売を切り替えたりしてきた。もちろん、メーカーは、そういった販売政策変更を行う際に、代理店に際して何らかの条件や補償を出してきたが、代理店側にすれば、突然大口の得意先を直接販売すると言われ、それまであった売上利益がなくなり資金繰りにも影響を受けることになるばかりか当然ながら事業の継続にも影響を与えた。そういった時、村田艶子は、メーカーが提供する「眠り口銭」的な一時金では妥協することなくメーカーと交渉し条件を引きだして経営の危機に対応してきた。それは、特別融資であったりした。つまり、その融資で資金繰りに余裕を持たせ、その余裕のある間に失った売上、利益、将来的に継続できる新規取引を整えることによって危機を乗り越えてきた。
特に力を注いだのは、自社販社を持つ規模に至らない専門家電メーカーや輸入家電メーカーの商品を、取り扱いの少ない商品の仕入れを個別に管理したくないGMSに対して一括窓口として扱うベンダーとしての機能である。この機能をメーカーと販売店の間をフットワーク良く機動的に動きながらつないでいくことによって存在間を示し業績を伸ばしてきた。
村田商会とX社との取引は、村田商会の創業間もない頃にはじまり50年を超えた。X社の創業は、1910年(明治43年)である。音楽好きの創業者安治川が蓄音機に魅かれ、自分でも作ってみたいと思ったのが起業のきっかけであった。その後蓄音機の国産化を実現し、真空管ラジオの製造、無線機の製造と音と電波の技術を機軸に製造メーカーとして事業を進め、2回の世界大戦時の軍需景気と共に成り上がってきたというのも事実である。先の戦争後の音響技術の進展の過程では、ラジオの小型化でSONYの商品開発力に遅れをとったが、創業以来の理念であるところの「絶対的な高音質」、即ち「良い音」に的を絞った付加価値の高い商品分野ではトップシェアを持つブランドに育った。
ホームステレオによるオーデイオブーム、携帯オーデイオの普及、デジタルサウンド技
術、オーディオとビジュアルの融合、デジタル技術の進展による小型化、IT技術の核心によるインタネットの普及・・・といった流れの中で、「良い音」を「良い画質」と融合させてオーディオとビジュアルの世界的なトップブランドとして認知されるまで成長した。
商品は、大きく分けてオーデイオ系、ビジュアル系、PC系に別れそれぞれ事業本部となっているが、その商品は、家電メーカーやコンピューターメーカーの商品とは一線を隠し、音質や映像品質にこだわりを持つことに楽しみを感じるユーザー向けの付加価値を持った商品で商品ラインを構成し固定ファンから根強い支持を得ていた。
事業規模は、2006年3月期の売上は1兆円を超え、過去10年間の売上高経常利益率は常に7%を下回らない堅調な事業運営が続いていた。
X社と村田商会との取引は、戦後しばらくして小型真空管ラジオの量産化が出来るようになり価格も手頃になったのを機に一般への普及拡大が見込めるようになった頃から始まった。
X社も販路の拡大のために各地に問屋を増やしていったが、この時大阪のエリアの問屋のひとつとして取引を始めたのが村田商会であった。
X社が、真空管ラジオから真空管テレビ、真空管ステレオの領域で商品ラインを広げるなかで、村田商会は、輸入オーデイオ時代からのX社の高い品質方針、洗練されたデザインの商品政策、東京の会社ではあるが腰が低くフットワークの良い営業姿勢に応えて同社の商品を積極的に担いで販売した。それは、村田商会が部品問屋から脱皮して商売を広げるために家電を扱いたいと思っていた時に一番丁寧な応対をして取引を始めてくれたのがX社であったからであった。X社と村田商会は、東京と大阪という全く違う風土を持っていたが、取引を始めたときから不思議と馬があった。それは、組織としてもそうであったし、経営者同士担当者同士もそうであった。。これは、会社の規模は違うが経営者の志という点で共に同意し尊敬できるものがあったからであろう。それは、共に生活者優先の事業姿勢であった。
このX社との関係が村田商会を日本橋の便利屋から電気専門商社へ成長させた。そのことに対する恩が村田商会のX社への強いロイヤルテイーになっていた。だから、村田商会は、Ⅹ社の商品力が強い時も弱い時も必至でかついで売ってきた。そのことがさらに両者の関係を強くしてきた。
村田商会は自分の販売テリトリーに徹底的に責任を持った。価格コントロール、ブランドコントロール、流通コントロール、商品デリバリー、アフターサービス体制、販売店教育など全ての販売施策に対して、Ⅹ社の尖兵となって展開してきた。その結果、販売テリトリーである近畿圏でのⅩ社の市場占有率、ブランドイメージは他地域よりも高かった。この成果は、販売店の値引き対策として支払われるリベートといった売り場を維持政策によって支えられていたものではなく、商品の性能品質、ブランド品質がテリトリーの売り場で実現できていたことによる市場での同社商品に対する人気の高さで支えられていため販売店がそれぞれが自主的に競合店に負けないように店頭の品揃えを競った。従って、販売店へのリベートの負担なく販売エリア内の広告宣伝や店頭販促に廻すことができた。それが販売の好循環を生み強い近畿圏での営業基盤を構築していた。実際、国内市場でのブランディング調査でも近畿圏におけるX社国ブランドへの支持は突出して高かった。そんな実績がX社の村田商会への信頼を高め、また村田商会もその信頼に応えようと努力し2社の互いの関係を強めてきた。
実際、家電小売の主流が量販店に移っていく過程で家電メーカーは流通の再編を行い問屋制度を見直し自社系列の販売会社による流通コントロールを行おうとし、X社も全国的に販売会社を作って流通を整備した時も、近畿圏の村田商会の取引先に関しては、全国ネット化した一部大手家電量販店を除いて、村田商会との取引との継続を望む小売店が多いという同社の強い営業基盤を尊重して大半の取引を同社経由で継続させた。
従って、X社の大阪販社は、他の地域の販社と違い2次問屋としての村田商会を通して販売する営業部隊を持っていた。
松本と平尾は地下鉄御堂筋線の難波で下車し、電気街の日本橋にある村田商会の近くまでやってきた。
「常務!大阪販社の多田さんには連絡いれられましたか?」
「いや、まだ連絡してない・・・まだ何も決まったわけでもないし、不安にさせてもいけないと思って・・・」
「そうですか」
「今日確認したことは、いずれにしても明日の朝に販社へ寄って話しをしておこうと思う」