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人生と社会のエッセイ  作者: 増本淳一
8/9

和らぎを以て貴しと為せ

先日キリスト教徒の奥様の投稿があり、それに対して若干のお応えをした。話が進むうちに「キリスト教が嫌われる話を聞くたびに責任を感じる」と言われた。バイブルは神の愛に溢れた書であり人のあるべき心と態度に教訓を与える。ところが、この神を背景にキリスト教徒が史上最大の虐殺を繰り返してきたのも事実である。


キリスト教はユダヤ教やイスラム教と並ぶ経典宗教である。と言えば、反論があるかもしれない。ユダヤ教やイスラム教と違ってキリスト教には戒律がない。戒律のあるなしで判断するならばキリスト教は経典宗教ではないと言えるが、キリスト教徒は常にバイブルと向き合う必要がある。その意味で、キリスト教はやはり経典宗教と言える。


とまあ、ここまでは前振りで、実際に経典宗教の徒が厳格に戒律を守っているかという話になる。若い頃イギリスで勉強していたが、アラブ人がご法度であるはずの酒を飲む姿は何度も目撃しているし、禁忌であるイカやタコを食べるユダヤ人の友達もいた。戒律はそんなもんだという実体験をしている。


西欧的な意味において近代社会の礎はキリスト教が担ったことになっている。即ち、内面の自由と外的な行動を分けた法治社会は血を流して実現した西欧の知恵(ウェストファリア条約など)の産物である。それでもなおその後非キリスト教社会(非白人社会)には苛烈な差別虐殺収奪を実行した。


経典宗教は社会を善と悪の二分法的に分ける。原理的に他の宗教は認めないし、厳しく言うと、異教徒は人間としても認めない。それで自らの虐殺行為を正当化してきた。この考え方はたぶんに所謂キリスト教社会が保持してきたものである。現代の平和な社会においてもなお生き続けている。


仏教には戒律がある。とは言え、経典宗教にある神との契約という意味の戒律ではなく、戒は仏の教え律は修行僧の約束事としての意味しかない。様々な逸話と方便と修行で煩悩から離れ悟りに至る道を説くわけだが、結局我が国に入ると戒も律も解かれてしまい世俗に溶けて先祖崇拝に化けた。


古来我が国には西洋に比肩するような宗教戦争なるものがない。皆殺しにするような戦い方もない。そして、平安時代といい江戸時代といい世界でも類例のない戦のない時代を長く続けた歴史がある。考え方や主張の違いや利権のぶつかり合いはどんな時代でもあるが、終ぞそれで国全体が内部崩壊したことがない。


この違いを考えると我が国は宗教の対立を超越した超近代社会と言える。今なお世界が宗教を背景に、あるいは言い訳として、暴力の連鎖で苦しむ時代にあるが、善悪という二分法を乗り越えた社会が日本である。そういった社会は時間を掛ければできるというものではない。それこそ神がかり的な教えと教えに服す奇跡の為せるものであろう。


即ち、「和らぎを以て貴しと為せ」と。


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