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人生と社会のエッセイ  作者: 増本淳一
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葬式仏教

日本人の葬式は仏式が一般的であり、なぜ仏式でないといけないのかなどという問い掛けはしないことになっている。つまり、疑問の余地のないことになっている。


仏教の経典には葬式に関する著述はあまりないそうだが、葬儀について問われた仏陀はそんな暇があるなら修行に励めと言ったという話もある。


さて、日本には葬式のみならず各種の法事にお坊さんをお呼びして読経をして頂くという麗しくも金の掛かる習わしが存在する。


なんでこんなことになってしまったのかというと、話は江戸時代に遡るが、幕府はキリスト教を弾圧する目的で寺請制度を作り、菩提寺の檀家である証文を取得させて民衆の統治を推進した。


民衆にしてみれば証文を出してくれる菩提寺の住職に忠誠心を抱かざるを得ない。


法然以来の鎌倉仏教の影響下葬式は徐々に一般民衆の間にも広がって行ったが、江戸期の寺請檀家制度が支配的になるに従い葬式は寺が一手に引き受ける形となり現在に至る。


何せ二百六十年間の太平の世に民衆の生活に巣食った習わしである。明治期の廃仏毀釈や神仏分離令にもびくともせず、現在まで葬式はお寺を通して行いお金を掛けるものという常識になっている。


しかし、本来仏教では葬儀の是非は問題としていない。従って、日本人が普通に行っている葬式とは仏教とは関係のない社会的な習わしである。僧侶はもとよりこの事実に言及することはなく法事においては仏様の教えを垂れるという奇妙な関係にある。


こういった生半可な知識と考えがあるものだから、私は葬式に参列するたびに自らを恐れ苦労する羽目になる。


自らへの恐れは袈裟を着たお坊さんが視界に現れた時に胸の奥深く芽生え、読経の開始の南無阿弥陀が唱えられる時には芽生えた衝動を必死で抑えなければならない。式場の静寂と参列者の神妙な面持ちが時に衝動を抑え難くする。


それがわかった時には私は読経の鳴り響く式場をそっと後にして外に出ることにしている。


何の為にかって?


堪えられない笑いを解放する為であります。



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